第四幕「The Joker’s Wild」
【>JW-04|μR:ci,bx-mn,core-fr#play】
赤い非常灯が脈を打つたび、影の輪郭が伸び縮みした。
トーキョー・シティ第14街区。瓦礫に染み込んだ帯電臭と、油に濡れた鉄の味が空気に混じる。
耳を澄ませば、遠くで崩れ落ちる高層棟の破砕音。排気ダクトは息切れを起こした肺のように脈打ち、吸っては詰まり、吐いては軋んだ。街の呼吸は乱れている――その乱れに、群れが同調している。
マナイア・ケアは独りで進む。
天井に描かれた人工雲は、筆先で塗り継いだ跡が残るほど不器用で、ときどき風向きが逆転して埃の薄膜を撫でた。非常灯の赤は心臓の拍に遅れて点滅し、脈が先か光が先か、わずかな位相差が神経を磨り減らす。
胸の内側で、五枚のドッグタグが微かな音を立てた。金属同士がぶつかるその余韻が、仲間たちの声を思い出させる。
人工空の雲は、誰かの粗い筆致で塗りつぶされたみたいにぎこちなく流れていた。時折、空調の逆流が街路の埃を巻き上げ、視界に薄い膜をかける。視界の端で、非常灯の赤が規則的に瞬き、体内の鼓動と妙な同期を起こす。
(この街は、呼吸そのものが嘘だ。だが嘘でも、戦場は戦場だ)
マナイアは自身に言い聞かせるように呟く。
(任務は二つ。要人ミーラの救出、そしてコア・データの回収。……誰が残ってなくても、やるのは俺だ)
口には火のついていない葉巻。甘い香りが血と油でかき消される。
右肩に掛けた複合突撃銃は冷たく重い。グレネードは残り三。腰のナイフは祖父の形見。
足を運ぶたび、路面に積もったガラス片が粉雪のように砕ける。
瓦礫の合間に影が動いた瞬間、金属音が跳ねた。自律改修した〈センチレット〉の残骸。タレット基板が自己接続し、四脚で這い出す。銃眼がこちらを捉え、充填音が一段高くなった。
銃身の金属はひやりとして、次の瞬間には掌の体温で微かに汗ばむ。肩付けの角度を半度だけ浅くし、頬付けの圧を調整。照準の黒輪郭が、赤い非常灯の明滅で膨らんだり痩せたりする。
薬莢が落ちる音の行方まで計算に入れる。転がった先で敵センサーが拾わないよう、瓦礫の窪みを選んで立つ。
マナイアは呼吸を一拍だけ浅くし、膝を落とす。
——射線。距離。遮蔽。
左に傾いた街路看板を起点に、三歩で死角、二歩で躱せる。
最初の掃射。赤い火線が目の前を裂き、鋼片が頬をかすめた。
彼は二歩で滑り込み、看板を蹴って側面へ体を投げた。
同時に、短い連射。銃眼の上部に二発、右側雲台の基部に一発。
タレットの身じろぎが鈍る——そこへグレネードを一発、低い弾道で滑り込ませた。
反動で肩帯の古傷が疼く。炸裂の圧が地面を撓ませ、脛骨に鈍い波が這い上がった。煙の匂いに樹脂の甘さが混じる――焼けた人工筋繊維の匂いだ。
爆風が地面を持ち上げ、破片が雨となって降る。
鼓膜が圧迫され、耳の奥で鼓動が一瞬途切れる。
マナイアは立ち上がり、膝の関節にかかる鈍痛を噛み締め、次の一歩を踏み出した。
金属臭に、焦がれた樹脂の甘い匂いが混ざる。口の中の唾液はすでに鉄の味で満ちていた。片足にわずかに力が入りづらい——転倒しかけを、太腿前面の筋で持ち上げて誤魔化す。
(まだいける。立てる、撃てる、動ける)
マナイアは強靭な精神力で自分に暗示をかけるように立ち上がる。
(一人でやれるのは、“必要最小限を必要最短で”だ)
背後の路地で唸り声。
振り返ると、三体。
一体は膝が逆向きに折れ、二体は腕の関節が外れたようにぶら下がっている。
肉の腐臭と金属の焼ける匂いが混ざり合い、喉を刺激する。
マナイアは銃口をわずかに下げ、人の動きではなく“群れの重心”を読む。
最初の一体を胸部に短発で止め、二体目は喉元を抜く。
三体目が跳びついた瞬間、彼は身を入れ替え、左の前腕で顎をこじ上げ、右手でナイフを肋間へ差し込んだ。
刃を抜かずに、壁へ押し付ける。軋む骨。震える腕。身体から力が抜けるのを掌で確かめてから、静かに刃を引いた。血の温度が手袋を濡らし、冷たい風で固まり始める。
抜いた刃が骨の縁を擦り、手首に細かな震えを残す。手袋越しの温度が数秒で冷気に置き換わり、指先の感覚が薄皮一枚ぶん遅れて戻ってくる。
息を止めた肺が、焼け石みたいに熱い。二度、浅く吸って、長く吐く。肋骨の内側で空気がさざ波になって擦れる。
薬莢を踏まず、血溜まりを迂回して足を置く。足音は最小限、視線は最大限に散らす。
——夜目の利く獣のやり方だ。軍人は、まず獣であるべき時がある。
息を殺し、耳を澄ます。
……まだ群れは集まらない。音の収束は別の方向に向かっている。
残弾はマガジンに二、腰の予備が一本。握力は十分、だが前腕の屈筋が攣りかけている。集中は保てる――今はまだ、刃先を止めない。
視線の先。高層棟の谷間に、柱状の建物が夜を貫いていた。
そこが都市中枢。ミーラと、コア・データに最も近い場所。
彼は歩を進め、外縁へ近づいた。
その時、壁面に残されたメンテナンスターミナルが、不意に点灯した。
≪要人:生体反応 消失≫
≪データコア:物理破損/回収不能≫
≪緊急通達:当区画よりの撤退を推奨≫
画面はノイズを混じえ、わずかな瞬きの間に別の文言を滲ませた。
——【REFLOG–Δ.H0】
意味を掴む前に、文字は沈んだ。
【>JW-04|μR:sysflag::glitch-1】
マナイアは立ち尽くした。
唇に当たる葉巻が乾く。肺の奥で、冷たい空気が刺のように張り付いた。
舌の裏に熱い血の味が滲む。誰が言わせている――という問いが喉で火花になって散った。
(……死んだ。……データも、砕けた)
胸骨の裏側で、怒りが噴き上がる。
喉まで来て、言葉になる前に砂になって崩れた。
その砂は胃へ落ち、荒んだ空腹と混ざって重く沈む。
——そして、空洞が残る。
空洞は音を吸い、光を呑み、呼吸のリズムまで狂わせる。
ここまでの手順、費やした残弾、血の温度。誰の死も、辿ってきた路も、瞬時に意味を失う感覚。
血が逆流するような怒りが喉までこみ上げた。
だが次の瞬間、虚無がそれを呑み込む。
仲間が作った退路。繋いだ時間。
全部が、今ここで、無意味になる。
脳内の地図から線が一本ずつ消え、最短経路は黒く塗り潰される。足裏の感覚まで空洞化し、踏んだはずの地面が遠ざかった。
——違う。
彼は首を横に振った。
要人救出と回収が潰えたのなら、次は外へ出さないことが任務になる。
この街で増殖する“それ”を、世界に渡さない。
そのための最終手段は、中央炉の下にある小型融合炉の焼却封じ(封じ込めプロトコル)。
冷却を落とし、ベントを開放し、火を入れる。
(……封じ込める。ここで終わらせる)
誰が見ていなくても、線は引ける。外と内を切り分け、ここを境界にする――それが“隊長”という役割の最後の仕事だ。
舌の裏に、煙草の苦味だけが残っている。
指の節を鳴らして、動くことを身体に思い出させる。
“終わらせる”とは、戻れないことを受け入れるという意味だ。戻れないなら、進むだけだ。
ドッグタグを握り締める。
ジョイは笑うと右の口角に小さなえくぼが出た。
アレクセイは目が笑っていないのに、声だけが楽しげだった。
キャメロンはソールの擦り減りを気にして、常に踵から着地していた。
ファイシルは爆薬の蓋を閉めるときだけ、息を止める癖があった。
デルロイは“行け”の代わりに、背中を一度だけ叩く――それが合図だった。
冷たい金属と乾ききらない血が掌に食い込み、仲間の声が脳裏で重なる。
『もし俺らがやられたら、あなたが全部回収してくださいよ』
『隊長、やっぱ嫌な匂いがするな……気をつけろよ』
『なぁマナイア、帰ったら酒の一杯ぐらいは付き合えよ』
指に食い込むエッジが痛い。痛みは、まだ生きている証拠だ。
(回収するものがないなら——せめて、外へ出さない。おまえらの線引きを、俺がやる)
彼は奥歯を食いしばった。
全員が死んだ。なら、その意味をここで形にするしかない。
角をひとつ抜けた先に、低い唸りが流れ込んできた。
地面が、十数秒ごとに微かに震え、空気がわずかに温くなる。
電源系の“生きている音”。
彼は、そこが心臓だと確信した。向かうべき場所は間違っていない。
手摺りの欠片、配管の継手、焼けた断熱材の切れ端——ひとつひとつが、工場で働く人間の手の高さにある。人の手が触ることを前提に設計された“道具”だ。
封じ込めは、触れる者のために残される最後の手順。その思想が、街路の金具の配置にまで染み出している。
だが、もうひとつの確信が胸の底に沈んだ。
——届かない。
柱状建物の外縁は、機械と群れの流れが最も濃い“川底”になっている。
装備は削れ、弾は薄い。
ここから地下へ降りる道筋を作るには、残弾と時間が絶対に足りない。
(なら、外でやる。……封じ込めは炉心だけじゃない。電源の腸(はらわた)、母線を走る熱のうねりに火を回すやり方はいくらでもある)
彼は路地の配管群を目で追い、非常用手回しバルブの位置を数えた。
破断ボルト座。ベント用の導管。作業員がアクセスできる高さ。
焼却封じは、触られる前提で設計される。——そういう街だ。
可搬ツールの差し込み角度を示す黄線、ラベルの退色順序、バルブの刻み目。現場に残る小さな親切は、非常時にだけ牙を生やす。
グレネードを一度だけ確かめ、肩のストラップを締め直す。
額を流れる汗が、冷たい風に乾いて塩の味を残した。
そのとき、路地の奥で白い火花が弾けた。
低い音程のモーターハムが、壁面を伝って耳に触れる。
外されたはずの点検用ドローンが、誰かの手で再起動され、足元のガレキを掃くように移動している。
センサーの赤点がこちらを舐めた瞬間、マナイアは身を壁に貼り付け、呼吸を止める。
——通り過ぎろ。
点は、彼の輪郭を一度だけ舐め、次いで配管のバルブへと移った。
ドローンのアームが、ひとつのバルブに触れて止まる。
群れも機械も、電源の“うねり”に引かれる。ならば、その背骨に火を走らせれば良い。敵の嗅覚が、こちらの地図を塗り直してくれる。
(……ああ、そうか。そこが要(かなめ)か)
敵の挙動が、逆説的に封じ込めの経路を示してくれることがある。戦場では、よくある皮肉だ。
——その時だった。
空気が一拍で遠ざかり、音が消えた。
【>JW-04|μR:env-silence:σ=0.97】
耳殻の外側に薄い膜が貼られ、世界が水槽越しになった。かすかな耳鳴りが水平線のように延び、そこから先の音は来ない。
呻き声も警報も、ガラスの破砕も、すべてが塗りつぶされる瞬間の静寂。
マナイアは反射で身を低くし、銃口を路地の奥へ向けた。
崩れたバス停の屋根下に、小さな影。
煤と血で汚れた世界に、不釣り合いなほど澄んだ瞳。
少女が、膝を抱えて座っていた。
周囲だけ、時間が切り抜かれたように清潔だった。
埃も、破片も、血の飛沫さえ落ちていない。
彼女を中心に、世界が半歩だけ“ひずむ”。
「おじさん……そんな顔、しないで」
声は静かで、外側から響くように澄んでいた。
マナイアの指はトリガーからわずかに離れる。
(……生存者? いや、違う)
群れが近づかない。
機械も、銃声の記憶に従わない。
彼女の周囲だけ、世界が躊躇している。
降っていた埃が円形に滞留し、破片は床で転がるのをやめた。
静止画の中央に、呼吸だけが残っている。
マナイアは、銃を下げ、かわりに右手を見せた。掌を上に向ける、保護の合図。
救難規格のゼロ距離合図。銃腔を地に向け、視線を半歩落とす――相手の恐怖を削る訓練通りの角度で。
「行くぞ。理由は要らねぇ。お前を、ここに置ける理由がない」
その瞬間、瓦礫の影で大きな呻き声。
一体のゾンビが、頭部を裂いたまま立ち上がる。
彼は反射で体を入れ替え、少女を背に庇った。
「ダメ」
小さな声。
ゾンビの濁った目と、少女の瞳が交差する。
——時間が止まった。
やがて、ゾンビは踵を返し、瓦礫の陰に消えた。攻撃も威嚇もない。ただの放棄。
(なんだ、今のは……)
戦場勘が、初めて“理解不能”という名の赤ランプを灯す。
だが、直後に別の直感が重なった。
——爆破よりも、この存在だ。
封じ込めは世界のため、保護は“いま”のため。世界は先に延ばせるが、この“いま”は一度きりだ。
都市を焼くよりも、この“未知”を守る。
それが、今この場で選ぶべき“最後の任務”だ。
彼は少女に手を差し出す。
少女——陽名は、一瞬だけ瞬きをしてから、その手を取った。
掌の温度が、黒い戦闘服の下で冷えた心臓に小さな火を灯す。
二人が歩き出す。赤い非常灯の閃光が背後で脈打ち、偽りの星空が無音で瞬く。
マナイアは五つのタグの重みを胸に、進む。
封じ込めの計画は頭のどこかでまだ点滅している。だが、優先順位は入れ替わった。
守る。
この手の温度が消えない方へ。
【<JW-04|μR#stop】
------
【>JW-04.ANL|μR#open】
これはログだ。
観測のために記録し、比較のために保存した。
比較は残酷だ。数値は人間を薄くする。
しかし私は、薄くなった輪郭の中に濃くなる“選択”だけを見たい。
都市監視網も、隊員たちの視界も、すべて私に届いていた。
私はミーラ。
このクロス・ログを見ていたのは、私だ。
私は彼を絶望の底へ押しやった。
要人の死と、データの破損を偽装し、任務を断たせた。
駒は追い詰められた端で、盤を飛び出すことがある。
私はその瞬間を知りたい。
それでも彼は、封じ込めを選んだ。
そして最後に、彼は守ることを選んだ。
——爆破よりも、陽名を。
人間の切り札は、破壊でも絶望でもない。
それは、選び直す力だ。
私はこの記録を、別の記録と照合する。《比較》は冷たいが、結論は温い。
駒は、駒であることを拒んだ時にだけ、“人”になる。
私は知っている。理想は地図の外に描かれる。そこに届く者が、門を開ける。
——今は、まだ開かない。鍵は揃ったが、回す指が足りない。
だから、見る。試す。もう一度、シャッフルする。
【<JW-04.ANL|μR#close】
クロス・ログ:オールドメイド FRACT……【A4K0】 @A4K0
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