第三幕「The King’s All-in」
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ネオンがまだ鼓動している。
だが、そこに人の鼓動はない。
天井を覆う巨大パネルは正午の空を演じ、一定周期で雲の影を流してみせる。風の温度は室温管理に従ってわずかに下がり、オゾンと消毒薬の匂いが混じる。エレベーターが律儀に階を往復し、自販機は電子音を鳴らしたまま缶を吐き出す――都市は生きているふりを続け、ただ“人間だけが”いない。
ジョイ・チャンは路地の角を切り、壁面の金属に肩を擦った。ゴーグルの内側を汗が這い、呼吸の白さが一瞬だけ漂って消える。足音が乾いたアスファルトを刻み、手袋の中の掌は血と消毒液で湿っていた。
視界の端を、人影が横切る。
「止まれ!」
乾いた声が路地に跳ね、影が振り向く。買い物袋、散ったレシート、うつろな眼窩。口腔の奥で黒ずんだ液が泡立ち、歯列がこちらへ伸びた。
銃声。反響。硝煙。
ジョイの左前腕に鈍い圧痛、次いで灼けるような咬撃。彼女は反射でナイフを逆手に返し、噛みついた顎の根元を裂いて押しやる。血が噴く。手元の脈動に合わせて温度が上がり、指先が震えた。
路地の影から、次の影が溢れる。倒れた自転車が軋み、靴裏がぬかるみを踏む鈍い音。
「……市民がゾンビ化している。感染……スキャンは陰性。いったん退避」
ジョイは後退し、崩れた防火壁の陰に身を滑らせる。消毒剤を開封、患部を洗う。刺激臭が鼻粘膜を刺し、喉元に鉄の味が上がる。素早く縫合、固定。生体端末のスキャンが走り、ホログラムに“陰性”が点灯する。
胸の鼓動が、ほんの僅か落ち着いた。だが群れの動きはおかしい。散発的ではない。包囲、圧縮、間合い詰め――“隊列”だ。
「制御系がある……? 生物兵器か、EVAの……」
言葉の途中で、視界の奥行きが反転した。
“視線”に掴まれた――そう理解するより早く、脊柱の周りの筋肉が固まり、指一本、呼吸ひとつが鉛になる。
「……視線が……動けな……」
通信のノイズ。歪む人工空。押し寄せる影。
記録は白飛びし、音は潰れ、映像は切断された。
はるか上空のビルの縁で、女が双眸を細めている。
かつての[統律特命局]のデルタチームに所属したグアダルーペ・ガルシア・ゴンザレス。白目と黒目が反転した眼差しは第二世代の思念系ネクス
それはラズによって強化改造され、今は命令系統の鋲で留められた兵器の目だった。
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都市の外郭を掠めるエンジンの唸り。
「こちらスカウト! 群れは私が引っ張る、中央へ急げ!」
キャメロン・アン・ステュディはダートバイクを倒し込み、ハンドルを切った。背中を流れる汗がツナギの内張りを冷やし、膝でタンクを挟む感覚が身体に軸を戻す。光学迷彩が展開し、輪郭が都市の残光に溶けた。
彼女は都市の呼吸を読む。信号の周期、非常灯の点滅、歩哨ドローンの首振り角度。
ここを抜ければ、皆が来られる――それだけで充分だった。
〈センチレット〉が旋回し、機銃の口が火を噴く。火花。鉄屑。跳弾の金属音。
後輪に衝撃、車体がわずかに跳ね、次の瞬間には爆炎が背後を舐めた。キャメロンは臀部を蹴り出すようにして車体から離脱、地面を二転三転。同時に迷彩を最大まで上げ、透明の影となって立ち上がる。
彼女のブーツがコンクリートを蹴り、ナイフが歩哨の首のジョイントを断つ。爆薬を吸い込んだ粘着パックが鋼の脇腹に張り付き、数拍後に内側から花が咲いたように爆ぜた。
「道、開けるよ――!」
風が変わる。
耳の後ろに、獣の息。
低く、速く、縦横無尽に路面をなぞる影。四方から来る錯覚。
「……なんだ?」
姿を見失ったのではない。“視られている”ときの勘が、背骨の奥で警鐘を鳴らす。
対応するより早く、背面に灼ける痛み。装甲が“裂けた”音が、空気より先に神経に届く。
「――視えないっ!?」
叫びはノイズに溶け、光学迷彩の粒子が赤に濁る。
影が着地した。
かつての[統律特命局]のデルタチームに所属したマケナ・ムソニ・ムェンドア。第二世代野生系ネクス
ラズの強化改造を受けたしなやかな四肢が路面を抉り、瞳孔が獣の縦線に絞られる。理性の錘は外され、命令の鎖だけが残っていた。
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高層屋上。
アレクセイ・ハベンスキーは頬を風に晒し、スコープを覗く。角膜の乾きを瞬きで散らし、呼吸を三拍で切る。
「……チッ、速すぎて撃てねえ」
スコープの十字線が追い切れない。角度、距離、風――すべて計算しても“見えないもの”は撃てない。
そのとき、偵察ドローンが火花を引いて墜落した。
「……誰だ?」
反射で構える。視界に“人影”はない。なのに、頬の横を弾丸が掠め、皮膚に熱い線が走った。
遮蔽に身を滑らせ、彼は苦笑する。
「くそっ……。これってゲームで言や――詰んでるってやつじゃないか」
狙撃の鉄則。
“相手が見えて、自分が見えない”とき、スナイパーは標的ではなく“的”になる。
わかっている。わかっていても、ここで目を離す術はない。
「あ~あ。あの大会であいつとの決勝戦。確か最後は勘でやったなぁ……」
勘で覗く。呼吸を止める。指先が引き金に触れる。
「そうそう。その時、俺は選択を誤ったっけ……」
同時に、世界が“冷たく”なる。
雫の弾丸が、スコープごと彼の額を撃ち抜いていた。視界は一瞬で赤に失われ、足下からドッグタグが屋上から地上へ滑り落ちる。乾いた金属音が、妙に遠い。
遠距離の屋上、影がゆらりと形を変える。
かつての[統律特命局]のデルタチームに所属したフィンセント・ファン・フィッセル。第二世代変成系ネクス
ラズによる強化改造の結果、液体の体は風景に同化し、撃つ瞬間だけ“水の硬さ”を選ぶ。音より先に、結果だけが届いた。
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SUVの後部で、ファイシル・シャリフが爆薬バッグの口を締める。歯を食いしばる音が、金具の触れ合いに紛れた。
「ふざけやがって……!」
怒りは熱であり、彼にとっては燃料だ。
デルロイ・ブラッドショーが運転席から顔を出す。
「隊長。このままじゃ全滅だ」
マナイア・ケアは葉巻を噛み直し、目だけで応える。
「……あいつらを置いてはいけない」
デルロイは一瞬だけ目を伏せ、鼻で笑った。
「まっ、そうだよな」
マナイアは火のついていない葉巻をポケットに入れ、銃の状態を確かめていた。
「迎えに行くんだろ? だったら俺の役目は決まっているぜ!」
ファイシルは自分のドッグタグを外し、軽く放った。金属片は弧を描いてマナイアの掌に落ちる。
「ファイ、すまない」
「いいって事よ! ずっとやりたかった街中での爆破という夢が叶うぜ!」
そう言って、ファイシルは勢い良くドアを蹴って外へ出る。手にしたショットガンから容赦なく散弾を放ち、近くの市民たちをなぎ倒していった。
「デル! 行くぞ!」
マナイアの指示にデルロイは思い切ってハンドルを切り、アクセルを踏んで目的地へ向かう。
「ガハハ! 必ず回収しろよ!」
もう二人には届かないファイシルの声だが、その気持ちはしっかりと伝わっていた。
ショットガンの弾丸が尽きると、向かってきたゾンビに投げ、懐からリモコンを取り出す。
「さあ! 派手に行くぜ!」
即興の爆弾ベストであるが、威力は本人が満足するほどで後悔の念は一切ない。
ゾンビが寄る。センチレットが口を開く。弾道、爆風、破片。
銃撃を浴び、脚が鈍る。それでも彼は笑いボタンを押す。
「これが俺の一発だ――!」
爆薬の連鎖が一斉に点火され、夜の街を昼のように白く照らし出す。灼熱の衝撃波がアスファルトを剥ぎ取り、空気そのものが燃える。
眼球を焼く光と、皮膚を叩き裂く熱風。耳を塞いでも届く振動が、ビルの骨組みを揺さぶった。
その中心でファイシルの笑い声が一瞬だけ残り、炎に呑まれて消えた。
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静かな〈トーキョー・シティ〉で唯一、エンジン音だけが響いていた。
運転席のデルロイは眉間に深い皺を刻み、マナイアは助手席で無言のまま銃を抱いている。言葉はない。ただ、車輪が路面を削る音だけが空気を満たしていた。
最初に到着したのは、ジョイが最後に姿を見せた路地。
そこには何も残っていなかった。肉片すら見当たらず、地面に転がっていたのは血に濡れたドッグタグだけ。
マナイアはそれを拾い上げ、親指で表面を拭う。彼の表情は動かない。動かさない。
次に辿り着いたのは、高層ビルの麓。
アレクセイのタグが、地面に落ちて曲がっていた。金属の角がわずかに歪んでいる。
マナイアはそれを拾い上げ、胸ポケットに収める。デルロイは前を見据えたまま、何も言わない。
最後に停車したのはキャメロンの最期の地点。
焼けたゴムの匂いと火薬の残り香が漂う。爪痕の残る装甲片の傍らに、彼女のドッグタグが転がっていた。
マナイアはそれを拾い、無言で胸へ押し込む。デルロイはハンドルを強く握り、ただ次の進路へと視線を戻した。
車は再び走り出す。
車内に言葉はなく、響いているのはエンジン音と金属がぶつかり合うような沈黙だけだった。
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車内に重い沈黙が落ちていた。
運転するデルロイの横顔は硬く、マナイアは助手席で回収したドッグタグを掌に押し込んでいる。ジョイ、アレクセイ、キャメロン、ファイシル――四枚の冷たい金属片が、無言の報告書のように彼の胸を重くしていた。
「……隊長」
デルロイが前を見据えたまま問う。
「まだやるよな?」
マナイアは短く、だが迷いなく答える。
「当然だ。あいつらのために、任務は続ける」
言葉よりも、握りしめたタグが理由を語っていた。
その時だった。
フロントガラスが揺らぎ、視界が歪む。耳の奥で鈴の幻聴が鳴り、車体そのものが縛られる感覚にデルロイの顔が苦痛に歪む。グアダルーペの《イビルアイ》。
次の瞬間、獣影が車体に突き刺さった。豹と化したマケナが装甲を爪で裂き、バランスを崩す。
さらに遠距離から雫の弾丸が飛び、エンジンブロックを撃ち抜いた。フィンセントの《リクイディウム》だ。
車は悲鳴を上げ、制御を失って横転した。
火花、煙、焦げた金属の臭気。
マナイアが体を起こすと、隣のデルロイが血を吐きながら笑った。
「……今回は前みたいにはいかねえな」
胸を押さえ、ドッグタグを外してマナイアに押し付ける。
「お前が生きりゃ、ワイルドカードは死なねぇ。任務を果たせ。あいつらのためにもな」
マナイアは首を振るが、デルロイの目は静かに決まっていた。
「ジョーカーを引いた罰だ。背負え」
ふと彼は思い出す。
まだ隊にいた頃、無鉄砲に突撃しては叱られていた若い兵士たち。
今はもう誰も残ってはいない。それでも彼の背中には、確かに“仲間”の影が重なっていた。
置いていかない――それが自分にできる唯一の報いだと、静かに理解していた。
デルロイは立つ。ふらつく膝を意志で繋ぎ止め、最後の弾倉を確かめた。肩の後ろで、グアダルーペの視線がまた深くなる。遠距離で、フィンセントの気配が風に紛れる。
彼は知っている。これは時間稼ぎだ。それで充分だ。
マナイアの足が前へ出た。それで充分だった。
外では、デルタチームの影が迫っていた。
デルロイはドローンを起動し、閃光と爆音で敵の注意を引く。手榴弾を投げ、最後の銃弾を撃ち尽くしながら突撃する。
マナイアは歯を食いしばり、仲間全員のドッグタグを胸に抱いた。
爆炎と咆哮の中、ただ一人、前へと走り出す。
デルロイが撃つ。
光が走る。群れが吠える。
マナイアは走る。
胸のポケットには、四枚+一の冷たい鉄片。
指の骨がそれらを押し潰さんばかりに握り、手袋の内側に血が滲む。
表情を変えまいとする意志が、頬の筋肉をこわばらせる。もし緩めれば、胸の奥で燃え上がる感情がすべて崩れてしまうと知っていた。無表情は仮面ではなく、仲間を背負うための鎧だった。
手の震えを止めるのは、目的地ではない。約束だ。最初の“儀式”で口にした、帰還後の未来。それを拾って、彼は進む。
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都市の中心は、明るすぎて暗い。
人工空の青さは飽和し、影が薄く、逃げ場がない。ビルの谷間の風は方向を忘れ、音はどれも等しく人工的だ。
マナイアの耳には、別の音がする。
ジョイの乾いた声。
キャメロンの明るい笑い。
アレクセイの安っぽい皮肉。
ファイシルの爆ぜるような笑い。
デルロイの低い合図。
それらが全部、同時に遠ざかっていく。
握ったタグの角が掌に食い込み、痛みが現実を返す。
走れ。
ここから先は、王の総掛かり――オールインだ。
切り札は、もう一枚しか残っていない。
【<JW-03|μR#stop】
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【>JW-03.ANL|μR#open】
観測は続く。
記録は欠落し、音は混線し、映像は断続する。それでも“順番”だけは明瞭だ。
最初に切られたのは、冷徹な手。視線に縫い止められた医療者。
次に消えたのは、軽やかな足。獣に追い越された偵察者。
見えない銃口に額を晒した狙撃者は、雫の硬さに敗れた。
爆炎で道を描いた破壊者は、笑い声を残して白へ還った。
そして、盾。光。副隊長の背中。
――残されたのは一人。
われわれはカードを混ぜ、記録の山札から順に引き、切り捨て、配置する。
ここで止めたフレームには、握り締められた鉄片の輪郭しか映らない。
だが、それで充分だ。
カードを切る手は冷徹だが、捨て札の山は血と記憶で重くなる。
引き続けた最後の一枚――それがジョーカーであることに、我々は気づいている。
残された者の存在そのものが、罰であり証明である。
切り札は、たった一枚でいい。
【<JW-03.ANL|μR#close】
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