#10 潮の香り
馬車の座席に腰を落ち着けた瞬間、僕は思わず窓の外に目を向けた。
馬車に乗るのも、湖の町を出るのも、これが初めてだった。
「わぁ……!」
湖畔の町がゆっくりと遠ざかっていく。
水面は朝の光を受けてきらきらと輝き、オルカヌーたちがぷかぷかと浮かんでいた。
青が尾を振って見送ってくれているように見えた。
馬車は湖を背にして、山道へと入っていく。
道の両脇には木々が並び、葉の間から差し込む光が揺れていた。
鳥の声、風の音、馬の蹄のリズム――すべてが新鮮だった。
途中、馬車は小さな休憩所で止まった。
乗客たちはそれぞれ食料を取り出し、焚火の周りに集まる。
僕はパン屋にもらったバゲットを取り出し、ナイフで丁寧に切った。
中はふわりと柔らかく、外はしっかりとした焼き色。
チーズも持ってきていたので、焚火の端で少し炙る。
じゅ、と音がして、香ばしい匂いが立ち上る。
表面がとろりと溶け、バゲットに乗せると、熱でじんわり染み込んだ。
「……うまっ」
パン屋のバゲットは食べ慣れていたけど、旅先で食べると格別だった。
焚火で炙ったチーズも最高。
口の中で塩気と香りが広がり、思わず目を細めた。
夜は交代で見張りをしながら眠った。
何も起きず、静かな夜だった。
翌日。
馬車は港町へと向かって進む。
山を越えると、空気が変わった。
潮の香りが混じり始め、風が湿り気を帯びてくる。
「海だ……!」
遠くに、青く広がる水平線が見えた。
港町の屋根が連なり、帆を張った船がゆっくりと揺れている。
白いカモメが空を舞い、波が岸辺を撫でていた。
海が近づくにつれ、空が広くなり、風が強くなった。
昼過ぎ、領都に到着。
港町は活気に満ちていた。
石畳の道を馬車が進むと、潮の香りが濃くなる。
市場の屋台が並び、魚介の匂いが漂ってくる。
船の帆が風を受けてはためき、港では荷物を運ぶ人々の声が響いていた。
まず、宿を取る。
海にほど近い、木造の小さな宿。
女将さんは朗らかな人で、僕を見るなり笑顔で迎えてくれた。
「旅のお方? まあまあ、若いのにしっかりしてるねぇ」
「ありがとうございます。今日は少し街を見て回って、明日、研究者の方に会いに行こうと思ってて」
「それなら、夕方までに食材を持ち込んでくれれば、うちで調理して出すよ。市場でいい魚が出てる時間があるから、逃さないようにね」
「じゃあ、女将さんのおすすめ、教えてください!」
「ふふ、任せときな。あそこの角を曲がった先の店は、朝と夕方で品が変わるの。あと、港の方に出ると、焼き物の屋台が出てるよ」
女将さんと話しているうちに、どんどん会話が弾んだ。
市場の話、港の話、昔の祭りの話――どれも面白くて、つい長居してしまった。
市場へ向かうと、時間によって違う魚介類が並んでいた。
海を眺めてから、近くを歩いていると、香ばしい匂いが漂ってきた。
「これは……貝の酒蒸し?」
屋台の店主が笑って頷く。
「ちょうど蒸したてだよ。ひとつ、食べてみな」
「いただきます!」
口に運ぶと、貝の旨みと酒の香りが広がった。
次は、イカっぽい何かを焼いている屋台へ。
「これ、なんですか?」
「海魔イカ。魔力を帯びた海の生き物で、焼くと香りが立つんだ」
「じゃあ、ひとつください!」
食べると、ぷりっとした食感と香ばしさが絶妙だった。
あっちにふらふら、こっちにふらふら。
「兄ちゃん、いい目してるな。これ、サービスだよ」
「え、いいんですか?」
「話してると、ついあげたくなっちゃうんだよな。不思議なやつだな、兄ちゃんは」
「ありがとうございます! 今度は買いにきます!」
「おう!そうしてくれ!」
市場の人たちとすっかり仲良くなってしまい、気づいたら両手いっぱいに食材を抱えていた。
宿に戻ると、女将さんが目を丸くした。
「まあまあ、そんなに買ってきたのかい!」
「いっぱい貰っちゃって。余ったら他の人の料理に使ってください」
「はは!面白い子だねぇ。じゃあ、腕によりをかけて作るよ」
食材を渡しながら、市場での話をすると、女将さんは大笑いしていた。
部屋に戻り、荷物を置いて、ベッドに腰を下ろす。
「……今晩の食事も楽しみだな」
窓の外では、海風がカーテンを揺らしていた。
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