教室の隅のあの子⑤
翌日。朝から恒例の嫌がらせを受けながらも、春奈は気にする素振りを見せずに授業へ耳を傾ける。
だが、聞いているだけで頭には入ってきてはいない。昨日の“あの子”とのやり取りが頭の中を占めているからだ。
困ったように笑った“あの子”の笑顔が頭に焼き付いて離れない。何故そんな顔をして笑ったのかを察することができなかったため、姉の冬華なのかも不明なまま。
正直なところ、冬華であればいいと、そうあってほしいと思っている自分がいる。
本当に冬華だとすると、どうしてこのタイミングで姿を見せたのかなど気になることはある。ただ、春奈の味方だと言ってくれるのは、友人と呼べる存在がいなくなった今、家族しかいない。
だからこそ、“あの子”は冬華なのではないかという気持ちが強くなった。──とはいえ、赤の他人に味方だと言われても怖いと思ってしまう自分がいるのも確かだ。それもあり、余計に冬華であればいいのにと願ってしまっているのかもしれない。
冬華の記憶を失ってしまっていることが悔やまれる。覚えていれば、一目ですぐわかったはずだ。せめて、写真でも見ることができれば。そう思い、昨晩に駄目元で両親に冬華の写真が見たいと頼んでみた。が、これまでも断られてきたのだ、そう簡単にうまくいくはずがなく。両親からは申し訳なさそうに謝られてしまった。
再度“あの子”に訊いてみたところで、答えは返ってきそうにない。両親以外に冬華を知っている者がいればいいのだが、交友関係も同級生も知らないため、どうしようもない。結局、冬華の手がかりは両親しか持っていないのだ。
両親に、姉かもしれない幽霊が教室にいると言うことを伝えるか。されど、“あの子”は春奈以外には見えない。いくら両親とはいえ、そう訴えかけたところで信じてもらえないのが目に見えている。
それでも、知りたい。“あの子”は冬華なのか。はたまた別人なのか。
「よし、プリント配るぞ」
教師の言葉に意識が引き戻され、春奈は黒板から前の席に座っている女子の背に目を向けた。
配布物があれば、春奈へ回すことなくわざと床へ落としてくる女子だ。どうせ今回もわざとらしく床へ落とすのだろう。手が滑った、あんたがちゃんと受け取らないから、などと言いながら。
破られたり、汚されたりされないだけいいと思っている。落とされたのなら、拾うだけで済む。目立った嫌がらせではないからこそ、河嶋も他の教師も気付くことがないのだろう。春奈自身も地味な嫌がらせだとは思っているが、心はしっかりと擦り切れていくのだからまったく巧妙な手口だ。
プリントが一番前の席のクラスメイトに配られ、後ろへと回され始める。春奈の前の席に座っている女子が受け取ると、予想どおり春奈へ回すような素振りを見せて床へと落とした。
「渡してんだからさあ、ちゃんと受け取ってよ」
クスクスと笑う声が聞こえてくる中、春奈は立ち上がり、すぐにしゃがみ込んでプリントを拾う。一枚拾っては軽く
取り乱してはならない。それこそ、女子達を喜ばせてしまうだけ。
何事もなかったかのように椅子へ座り、プリントを見る──ふりをする。絶対に何かされると頭で理解していても、心が追いつかない。落ち着け、落ち着け、と胸中で何度も唱えながら、誰にも悟られないよう深呼吸を繰り返す。
こんな卑劣な者達に負けたくない。負けたくないが、一人で立ち向かうにはあまりにも辛く、苦しい。
目を伏せようとしたとき、開きっぱなしになっていた真っ白のノートが目に入った。これでも受験生だというのに、黒板に書いてある内容を写していないなんて。鼻で笑いそうになったとき、置いてあったシャーペンが立ち上がり、一人でに動き出した。
「……っ」
不可思議な現象に声が出そうになり、慌てて右手で口を押さえる。シャーペンはノートにさらさらと文字を書いていく。
──私が傍にいるから。
これは“あの子”からのメッセージだ。身体から力が抜け、右手を下ろした。シャーペンは文字を書き続ける。
──辛いだろうけど、もう少しだけ我慢してほしい。笑顔でいられる場所を、私が作ってあげる。
どういう意味だろうか。首を傾げるも、シャーペンはパタリとノートの上に倒れ、動かなくなってしまった。
我慢することは別に構わない。春奈には現状を変える術はなく、我慢するしかないからだ。
しかし、笑顔でいられる場所を作るとは。それも、“あの子”が作ってくれるという。一体、どのようにして作るつもりなのか。
気にはなるものの、どうせ我慢しなければならないのだ。“あの子”の言葉を信じてみるのもいいかもしれない。もちろん、我慢のついで程度に留めておく。何もなかった際に落ち込まないように。
授業が終わり、休憩時間になった。席を立って各々が自由に過ごすも、春奈は席に着いたまま。先程の“あの子”が書いた文字をずっと眺めていた。
* * *
「……わたしが笑顔でいられる場所って、できるかな」
今日も今日とて、春奈は一人で教室の掃除をしていた。誰もいないのをいいことに“あの子”へ話しかけると、彼女は右手を黒板に向けた。
白のチョークがふわりと浮き上がり、黒板へ文字が書かれていく。
──私を信じてほしい。
“あの子”を見れば、優しく微笑まれた。幽霊のような存在の彼女に何かできるのかと気にはなるものの、味方でいようとしてくれる気持ちが嬉しい。
黒板からはまだチョークで書く音が聞こえる。視線を戻せば、続きが書かれていた。それを口に出して読む。
「あなたが悲しんでいるところは見たくないから……そっか、ありがとう。優しいね、あなたは」
胸があたたかくなった。
このクラスでは、嫌がらせを受ける春奈を見て喜ぶ者達がほとんどだというのに。クラスメイトでもない、そもそも生きている人間でもない彼女だけが、心配してくれている。
そうなると、やはり彼女の正体が気になる。
答えてもらえるかどうかは怪しいが、質問の内容を考え、遠回しに訊いてみることにした。
「あなたは……その、わたしの味方なんだよね。どうして?」
味方である理由が気になるのは、至って自然のこと。
さて、どう返答してくるか。春奈に緊張が走るものの、悟られてはならないと
“あの子”は僅かに首を傾げて何か考えているような素振りを見せていたが、しばらくして右手を動かした。
──あなたを見ていると、まるで昔の自分を見ているようだったから。
黒板に書かれた文字を見て、春奈は目を丸くする。この返答は、予想外のものだった。あまりの衝撃に、言葉が出てこない。
まさか、“あの子”もこのような目に遭っていたなんて。
白のチョークは黒板へ文字を書き続ける。
──あなただけは、守りたいと思った。
胸が締め付けられる。気がつけば、涙が溢れていた。
“あの子”も、かつては春奈と同じように傷つき、孤独だった。その過去の自分と春奈を重ね、守ろうとしてくれている。
誰にも守ってもらえない。
誰にも助けてもらえない。
その深い哀しみを味わった者だからこそ。
「……っ、ありがとう」
“あの子”が姉なのかどうかばかりに気が取られていたが、最早どちらでもよくなっていた。
何者でもいい。何者であれ、彼女は春奈の苦しみを理解してくれる唯一の理解者なのだ。
蹲り、手にしていた箒を床へ置くと両手で顔を覆った。涙が止め処なく溢れてくる。これまでひた隠しにしていた想いを吐き出すかのように、春奈は声を上げて泣いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます