先生の瞳が、わたしを知らないー答えをくれない背中に、何度でも恋をするー

長谷 美雨

第1話 目で追うことだけ、赦してほしい(Side:美友希)

わたしは、氷瀬ひのせ先生が好き。


――この想いは、知られてはいけない。

たとえ心が叫んでも、先生に届いてはならない。


それでも、目で追ってしまうことだけは、どうか赦してほしい。

溢れてしまいそうな想いは、笑顔で隠し通してみせるから――


この祈りのような気持ちが、静かに続きますように。

誰にも気づかれないまま、わたしの胸の奥に咲き続けますように。



――5月の中旬。

窓の外には、初夏を告げる柔らかな風が通り抜けていた。


中間テスト期間、静まり返った教室。

配られた答案用紙を前に、わたしは深呼吸をひとつ。


美友希みゆき(……落ち着け、わたし…)


試験3日目。

今は世界史のテスト中。


いつもなら、ただ静かに答案用紙にシャーペンを走らせているのに。

――でも、今日の試験はいつもと違った。


教壇に立つ試験官の存在が、わたしの冷静さを揺さぶってくる。


氷瀬先生。


表情は揺れず、教壇の前に立っている。

時計に視線を落とし、次の瞬間には教室全体を見渡す、その規則正しい仕草。


それだけで胸がざわめいて、ペンを持つ手に力が入らなくなる。


美友希(……まさか、氷瀬先生が試験官なんて……聞いてない!)


心臓が喉元まで競り上がる。

どうして、ただそこに立っているだけで、こんなにわたしを動揺させるのだろう。


教室の時計の針が1つ動いた。

その音にハッとし、わたしは慌てて視線を答案に落とし、ペン先を走らせた。


落ち着けばいつも通り出できる。

……そう思ったのに。


「カツ、カツ」と響く革靴の音。


巡回のために先生が歩き出した。

その足音が近づくたび、わたしの呼吸が浅くなる。


わたしの横を通り過ぎる瞬間、空気がふっと揺れた。

机に落ちる影、ジャケットが机に擦れる音。


たったそれだけで、胸の奥が震える。


美友希(ま、まずい……本当に、集中しないと……)


答案の文字が少し滲んだ。

視界の端に先生の姿を映してしまうのが怖くて、必死に問題文に目を落とす。


美友希(ただ巡回してるだけ。わたしなんて見てない。……そんなことは、分かってる)


それでも、鼓動だけが騒がしい。


平常心を取り戻すため、わたしは小さく首を振り、必死に問題用紙と向き合った。

小さな深呼吸を何度か繰り返す。


美友希(――今は世界史、頑張らなきゃ!)


そう自分に気合いを入れ、強くペンを握り直した。


覚えてきた年号や出来事を、1つずつ答案用紙に埋めていく。

気が付けば、わたしはちゃんとテストに集中できていた。


時間は過ぎていき、やがて「残り5分」という先生の声が響いた。

わたしは最後の問題を解き終え、小さく息を吐く。


美友希(……よし、できた)


そっとペンを置き、解答欄を見直す。

抜けてるところは無く、解ききれたことに軽く安堵した。


そして、緊張から解放された途端、また視線が前の方に吸い寄せられる。

教壇前、姿勢を崩さず真っ直ぐ前を向く氷瀬先生。


整った横顔、感情を読み取らせない静けさ。


美友希(……綺麗だな)


どんなに頑張っても、正解が見えない存在。

世界史の年号も、英語の構文も、努力すれば覚えられるはずなのに――


氷瀬先生の心だけは、どれほど積み重ねても答えが出ない。


――キーンコーンカーンコーン


テスト終了のチャイムが鳴り響いた。

その音をかき消すように、低くよく通る声が告げる。


氷瀬「そこまで。」


ペンを置く音が教室中に重なる。

答案を後ろから前へ回すざわめきの中で、わたしは指先が少し震えているのに気付いた。


どうか誰にも見られていませんように、と祈りながら答案を前に送る。


教壇で答案を受け取る先生の横顔は、やはり温度を感じさせない。

答案用紙の枚数を規則正しく数える指先と視線。


そんな先生を見ながら、テストとは関係ないことを無意識に考えていた。


美友希(……この恋に、答えはあるのかな)


そもそも、恋の答えってなんだろう。


想いを伝えること?気持ちが重なること?

それとも、物語みたいに「ずっと一緒にいられること」?


もしそれが正解だとしたら――わたしの恋には、きっと答えなんてない。


だって、先生にはもう想っている人がいて。

わたしはまだ子どもで、そしてただの生徒だから。


この恋の未来に「ハッピーエンド」なんてものは、用意されていない。


それでも、わたしは先生を好きでいることをやめられない。


姿も、声も、ふと向けられる視線も。

全部がわたしの心を捕まえて、放してくれない。


美友希(……こんなふうに心が動かされるのは、先生だけだから)


だから、どうか。

せめて目で追ってしまうことくらいは、赦してほしい。

この恋が終わりを告げるその日まで――


氷瀬「――次は古典のテストだ。予鈴の前には着席しておくように。」


均一な声が、曇りかけていた視界をすっと澄ましていった。

さっきまで自分の世界に沈んでいた意識が、教室の温度に戻っていく。


先生は答案をき綺麗に揃え、枚数を確かめてから片手に収める。

無駄のない所作で教壇を離れ、静かに扉を閉める音だけを置いていった。


その背中が見えなくなるまで、目が勝手に追いかけてしまう。

深く息を吐くと、次第に胸の波が静まっていった。


美友希(ただ歩いているだけなのに、格好いいなんて……ずるい。)


こんなことを鈴音すずねに話したら、きっと「それが恋の仕様やで!」って笑うだろうな。

口元の力が抜けたところで、鞄から古典のノートを取り出す。


次のテストまで、あと数分。

テスト範囲を指でなぞり、要点だけを短く確認した。

できることを1つずつ、丁寧にこなしていく。


美友希(先生を好きでいる自分に、少しでも自信を持っていたい。……だから、テストも結果をちゃんと残したい。)


ノートから教壇へ視線を戻すと、さっきまで先生の気配があった場所は、数分で無機質の面に戻っていた。

――それをほんの少しだけ、「寂しい」と思ってしまった。


すると予鈴の鐘が鳴り、空気を薄く震わせた。


わたしはノートをしまうと、背筋を伸ばした。

目を閉じて一呼吸置いてから、前を向く。


次は古典のテスト。


美友希(大丈夫、ちゃんと勉強してきたんだから。)


そう呪文のように心で呟き、ペン先を軽く握り直した。

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