宇宙美容条約
コード
無重力サロン《水鏡》
ぽん、と優しい音。ダクトが毛で詰まりかけている合図。今日も“ほどく”一日が始まる。
「今日も満員御礼だね、凪さん」
「はいはい、順番守ってくださいねー。飛び毛は命に関わりますよ」
理容航務官・蒼井凪は、無重力サロン《水鏡》を開店した。
超音波シアが空気を震わせ、ふわふわ泳ぐ毛先をピッと整える。切りくずは回収ドローン《うぶ》が吸い上げ、真空の静寂に溶けていく。
「前髪これくらいで?」
「視界クリア!酸素もメンタルも上がりました!」
「いい返事。じゃ次の人ー」
——そのとき、警報ではない別の通知。艦橋からの一報。
「未知の群体、接近。《ヴェリダ》だ」
◆
《ヴェリダ》は、光を“吸う”存在だった。
星明かりがその輪郭を避けるように流れ、羽毛が呼吸のたびに色を変える。拍動は音の代わりに、静かな共鳴を生む。
それは“声よりも先に届く挨拶”のようだった。
外交士が小声でつぶやく。「礼儀の資料、スッカスカ。頼む」
「了解。まずは、髪と羽からはじめましょう」
代表個体のシィが、胸の羽をひと房差し出す。艦橋の誰かが囁く。「え、求婚?」
凪は笑った。「違います。“預ける”合図。音の源を私に委ねるってこと」
「理解、感謝」——翻訳機を介してシィの声が届く。
「じゃ、私も」
凪は前髪を束ねて差し出した。髪が無重力でゆらり。羽と髪が、かすかに同じ周期で震えた。
「緊張?」
「ちょっとね。でも大丈夫。刃は触れません。超音波で“ほどく”だけ」
「ほどく、良い語」
◆
随伴個体のひとりが前に出た。羽毛が重たく垂れ、音が濁る。
医療班が測定。「炎症あり。層の比が崩れて発声が不安定です」
外交士が眉をひそめる。「ただ切るのはダメらしい。文化的に“降格”のサインに見える」
凪は静かにうなずいた。「罰の刈り取り、か……」
鏡面の星図がきらめく《水鏡》を示し、凪は言う。
「じゃ、まずは私から。あなたたちのやり方で整えて」
シィが羽先で凪の髪をなでた。一本、また一本、髪が宙に浮く。
「変な感じ?」
「涼しくて気持ちいい。上手いね」
「誇り」
凪は工具を手に取った。「次、私の番。痛かったら言って」
「不安、少し」
「大丈夫。音を聴くからね」
超音波シアを最小出力。凪は耳で七つの周期を拾い、段を合わせていく。
「ここは切らない。ここは少しだけ削ぐ。……はい、ひと息」
「息、楽。音、澄む。軽い、明るい、ありがとう」
翻訳機より先に、胸の奥で意味が響いた。
◆
その直後、整備区画から救難コール。
随伴個体が倒れ、羽枝が癒着して音が出ない。
「刈れば呼吸は戻る。でも——」と外交士。
「罰に見えちゃうよね」と凪。
医療班が焦る。「急がないと酸素飽和度が」
「やる。やり方を変えればいいだけ」
凪は自分の髪を一本抜き、個体の胸の羽にそっと結ぶ。
「まず“いっしょに”になるね」
シィが頷く。「共編、承認」
「切るんじゃない。ほどいて、また編む。回復の手当てだよ」
凪は超音波を点で当てる。プチッ。接着みたいに固まっていた羽枝が離れる。
「苦しくない?」
「少し、楽」——かすかな音が戻る。
《うぶ》が切片を吸い上げ、静電クロークが散りを封じる。
「大丈夫」「怖くない」
凪が短く言葉を置くたび、羽の音がその言葉に重なる。
数分後、個体は体を起こし、凪の手に羽を触れさせた。
「ありがとう」
「こちらこそ。あなたの音、きれいだよ」
◆
交渉の場は自然と《水鏡》に移った。
「爪の標準厚み、ここ。毛長の上限、ここ。ダクト前には《うぶ》を二機追加」
「感染サインの共有、合意」
「条約の前文、どうする?」
凪は笑う。「シンプルでいい。“整えることは、活かすため”」
シィが羽を鳴らす。「短く、美」
「記念に、共同スタイル作らない?」
「共同?」
「人類のレイヤーに、あなたたちの七周期をあわせる。名前は——《オーロラ・レイヤ》」
「名、すてき」
凪は髪を七段に重ね、空気の通り道を作る。
「根元は守って、先端を軽く“ほどく”。あなたは胸の羽を……そう、やさしく揺らして」
「こう?」
「そう、それ!」
髪と羽の流れがふっと同調する。
翻訳機が一拍遅れて微かなハーモニーを重ねる。
まるで理解そのものが音になったみたいだった。
「私たち、互いの毛流で読みあえる」
「その一文、条約の見出しに」と外交士。
◆
日常も、少し楽しくなった。
「次の方ー。《ヴェリダ》の前髪ご希望?」
「前髪、興味」
「じゃ、影を作る“前羽”にしましょう」
「前羽、かわいい」
人間の若いクルーも練習を始める。
「この羽の揺らぎ、怒ってる?」
「違う違う、“照れてる”」
「へえ、便利。嘘つけなくなるね」
「そのぶん、喧嘩が減るよ」
夜。ドームの中央で凪は髪をひと房つまむ。
シィが近づく。「凪」
「なに?」
「きょう、あなたに学んだ語」
「どれ?」
「“おまかせで”」
凪は吹き出した。「最高の信頼ワードだね」
ぽん、と小さく髪アラーム。
「明日の予約、追加だ」
「追加、歓迎」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
《ミルフィーユ》は静かに進む。
髪と羽の流れを整えながら、同じ方向へ。
——“ほどく”ことから生まれた条約は、今日も更新を続けている。
宇宙美容条約 コード @KAMIY4430
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