また明日も

ニイ

また明日も

「キミ、また居眠りしたでしょ?」


「……なんでわかるの」


「頬に跡が残ってる」


 西日が差し込む教室で、彼女は笑った。

 腰まで流れる髪が光を透かして揺れ、影を机に落とす。濃紺の制服の肩口に橙の光が淡く広がり、その瞳には夕焼けが小さく宿っていた。


「明日の小テスト、大丈夫? また赤点なら補習だよ」


「……キミが見てくれたら、なんとかなる」


「仕方ないな。特別に付き合ってあげる」


 彼女は当然のように、僕の隣に腰を下ろした。


 夕暮れに沈む教室は、他に誰もいない。

 かすかな埃の匂いと、遠くから夕暮れを告げるメロディだけがここに届く。

 僕がノートを開くと、彼女がペン先で問題を示す。


「はい。二次方程式。解の公式は?」


「えっと……」


 答えられない僕を見て、彼女は小さく肩を落とす。


「やっぱり聞いてなかったでしょ」


 呆れ声の奥で、彼女の瞳が笑っているのがわかる。その柔らかな光は、不思議と痛いほど胸に沁みた。


 ──気づけば、いつもそうだ。

 彼女は優しかった。

 その優しさは、ときに胸を刺すほど強かった。

 どうして僕なんかに、こんなにもよくしてくれたのだろう。

 答えは今でもわからない。


「ねえ」


「なに?」


「……どうして、いつも来てくれるんだ?」


 思わず漏れた問いに、彼女は首をかしげる。

 腰まで流れる髪がさらりと揺れ、濃紺の袖口からのぞく白い指先が机を軽く叩いた。

 その仕草に合わせて、瞳が細く弧を描く。


「当たり前でしょ。友達なんだから」


 夕陽を背にした笑顔が、やけに遠く見えた。


 ノートの文字がにじむ。


「もし……僕が、もっと早く言えていたら。何か違ってたのかな」


 彼女は答えなかった。

 窓の外に目を細め、傾く陽をじっと眺めている。

 長い髪が机に影を落とし、その影は儚く溶けていった。

 夕陽を映した瞳の奥は、何かを秘めたまま沈黙していた。


 ──あの日から、時は止まったままだ。

 誰も来るはずのないこの場所に、僕は今日も足を運んでしまう。

 ここに来れば、彼女が待っていてくれる気がするから。

 埃の匂いも、軋む床も、彼女と過ごしたままの教室も

 ──すべてが僕をここに縛りつける。


「……ありがとう」


 かすかに呟いた声は、誰にも届かない。

 ただ廃れた教室に反響するだけだ。

 視線を上げれば、隣の席は空っぽだった。

 机の上に広げられたノートだけが、淡く西日に照らされている。


 人の気配のない廊下に、古びた床のきしみが遠く響いた。

 僕は目を閉じ、心臓の奥の痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がる。

 ──どうか明日も。

 この教室で、会えますように。

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また明日も ニイ @nii0714

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