【1分間読了∣掌編小説】POISON−香りの記憶−

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【1分間読了∣掌編小説】POISON−香りの記憶−

ヒトの記憶は曖昧だ。


ほんの数日前の会話内容ですら、跡形もなく消えていたりする。


かと思えば、十年以上前の、たった一言や風景が、やけに鮮明に蘇ることもある。


ふとした瞬間に絡まった記憶が解けて、あの時の空気や匂いまでもが、唐突に目の前に立ち現れることがある。


————


──彼女が言った。


「表参道はね、秋がいちばん素敵だけど……この時期も、悪くないのよ。」


5月中旬。


春のやわらかな陽射しが、初夏の気配へと変わりはじめた頃だった。


根津美術館をあとにし、青山通りを経て表参道へ向かう途中。


けやき並木の下を歩きながら、彼女は穏やかに笑っていた。


『アニヴェルセル』の前では、結婚式を終えたばかりの新郎新婦が、祝福の拍手に包まれていた。


「素敵ね。あんなふうに、祝われるって。」


「うん、そうだね。」


隣を歩く彼女の横顔と、結い上げた髪からのぞく白いうなじ。


そして、ふと風に乗って漂ってくる香水の匂い。──DiorのPOISONプアゾン



視覚と嗅覚。


その両方で、僕は彼女を強く認識していた。


そして、それは──十年前に出会った、あの人の面影と、あまりに重なっていた。


POISONプアゾン



当時の彼女がいつもつけていた、甘くて毒を孕んだあの香り。

だから、君に惹かれたんだと思う。


————


髪を上げたときの仕草、端正な横顔、そしてPOISONの香り。


過去に閉じ込められた記憶が、そっくりそのまま目の前に現れたようで。


……気づいたら、もう夢中になっていた。


でも、それはただの記憶のなぞりだったのかもしれない。


そう気づきはじめたのは、ごく最近になってからだった。


————


「……ねえ、POISONって、そんなに印象的な香りなの?」


ある日、彼女がふいにそう言った。


唐突だった。


思わず彼女を見つめると、彼女は少しだけ意地悪そうに笑った。


「昔の恋人がつけてたって、ずっと前に言ってたよ」


「……覚えてたんだ」


「うん。べつに、気にしてなかったけどね」


そして、少し声を落としてこう言った。


「でも──私は、今のあなたが好きなのよ」


その瞬間、何かがすっと胸の奥でほどけたような気がした。


気づかれていたこと。


それでも一緒に歩いてくれていたこと。そして、今の自分を肯定してくれる言葉。


何も返せなかった。

ただ、風が吹いた。


けやき並木の隙間から、初夏の陽が降りてくる。


彼女の髪が揺れて、香りがふわりと流れた。


それがPOISONかどうかなんて、もうどうでもよかった。


今、となりを歩く彼女がすべてだった。

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