約束の月(読切版)
Joe Jan Jack
第1話
乾燥した北風が吹くと半島には冬の匂いが漂う。北部に横たわる山脈は峰を白くし、大陸との境を
もうじき麓にも雪が降る。にもかかわらず今日は陽射しを暖かく感じるほどの好天で、だから宿営を抜け出して気晴らしに馬を走らせるのも、そのついでに〝例の村〟へ寄るのも、王子の身分を明かした自分に許される気まぐれだとベルカントは思った。
晩秋の枯野原に苔色の外套が翻る。もうじき二十五になる躰は、王宮を出た九つの頃には想像もしなかったほど逞しくなった。内面はどうだ? 指導者として充分か。いや、足りない――それでも進まねばならない。
ベルカントは十五年前に半島統一戦争で滅亡したチチェク王国の第三王子だった。病死を装って国外へ逃がれ、一兵士を装って密かに繋いだ命は、国土を取り戻すためにのみ燃えることが許される。
だが今は休戦中だ。国土奪還の戦いは災害級の魔物出現で撤退を余儀なくされた。態勢の立て直しと次の戦略を練る都合で、手を組んでいる大貴族の領地へ引き揚げるところだった。
雪が降る前に移動を済ませるなら例の村へ立ち寄るのはとんだ道草だが、ベルカントが山脈沿いの進路を選択しても側近のセミフは反対しなかった。
そこに何がある? 何もない、山麓の小さな農村だ。ベルカントが正体を明かしてチチェク軍として蜂起するまでに、少しの間利用した無辜の民がいるだけだ。
ではなぜ村に向かう? ベルカントは自問する。村にはもう用はない。ただ掻き立てられるまま馬を駆る。束の間でも、背負わされた重責を振り払えるならば、と。
村に着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。馬を降りたベルカントに気づいた村人たちは、てんでに家に駆け戻ろうとした。
彼らにしてみれば、ベルカントはある日突然軍勢を率いて村を占拠した賊だ。随分と脅して言うことを聞かせた。戻ってきてほしかった者などいなくて当然だった。
「一人だ、馬を頼んでいいか」
ベルカントは驚きのあまりに引っ込みそこねた男に声をかけた。男は恐縮しながらも手綱と駄賃を受け取った。
目指すのは村長宅だ。出陣前の記憶で、茶の支度をしている頃合いなのはわかっている。
裏手の炊事場、開け放たれた扉からは、遠目にも人影を認めることができた。それが誰かを、ベルカントは知っていた。サリーナだ。
サリーナは、戦局を左右する重要人物イヴェットの侍女だった。身重の主人の出奔に付き添って、城下町でごろつきに絡まれているところを助けたのが最初の出会いだ。その時はイヴェットの利用価値しか目に入らず、後ろで震えている娘は置いていくつもりだった。
つもりだった、のに――イヴェット共々この村に連れてきたのは、サリーナの求めに応じたからだ。
市井では日常的に出くわすような揉め事で萎縮するほどの世間知らずのくせに、イヴェットのこととなるとはっきりと意見を言う。思えばあれが、ベルカントの中で何かを変えた瞬間だった。
お荷物は要らない、とベルカントが閉じかけた扉にしがみついて「何でもするから連れて行ってください」「イヴェット様はこれからが大変なのです」と縋る。あの時のサリーナの真っ直ぐな視線が、過酷な日々に擦り切れたベルカントの心に引っかかった。
村でのサリーナは実によく働いた。イヴェットの身の回りの世話はもちろんだが、城では下女がやるような水汲みから、兵士服の繕いや村人の仕事の手伝いまで。おそらくすべてはイヴェットのために、サリーナなりに必死だったのだろう。「何でもする」と言ったからには、本当に何でもしなければならないと真面目に考えていたのかもしれない。
いつしか、見かけるたびに目で追っていた。サリーナはベルカントに気づくと硬い表情で挨拶を返した。打ち解けた村人との会話中にこちらを見て笑顔が消えると、感情を捨てたはずの胸に痛みが走った。
何を期待する? 俺は略奪者だ――ベルカントはサリーナと目が合うたびに自分に言い聞かせた。果たさねばならない使命があり、ここはまだ道半ばだ。たとえサリーナの心を手に入れたとしても、ベルカントの体はベルカント一人のものではない。妻には有力者の娘であることが求められる。
右手の親指に嵌めた王家の証に触れて私情を押し殺すと必然的に態度がぶっきらぼうになる。王子とはいえ育ちは平民、兵士として汚い仕事もこなしてきた。サリーナのような城住みの侍女には、黙っているだけで十分怖いに違いない。それでいいと、ベルカントは思っていた。
サリーナとの関係に変化が起こったのは、ベルカントがチチェク王子の身分を明かす前夜だった。ベルカントは自分の寝泊まりしている平屋から、村長宅の裏手の炊事場に水を飲みに行った。窓から見えた月に、不意にベルカントは祈りたくなった。チチェクの風習では月に祈りを捧げるのは日常的な行為で、自室に戻ってからでも遅くはない。ただ何となく、月に見られた気がして、手燭を消して青白い光を浴びた。
両膝を突いて額の前で指を組む。頭の中が晴れ、感覚が研ぎ澄まされていく。暫くそうしていると、廊下側の出入り口に気配を感じた。サリーナだった。
サリーナは、ベルカントに見られているのに気付かないのか、壁から身を乗り出してじっとこちらを見つめていた。唇はわずかに開き、瞳を輝かせている。普段のぎこちない挨拶とは違う熱を感じて、ベルカントは鼓動が早まるのを感じた。
この出来事がなかったら、ベルカントはサリーナを忘れられただろう。だが、ベルカントはサリーナの視界に入ったことを自覚してしまった。出兵の段取りが調い、別れの日が迫る中で、花も宝石も贈れない男が渡せるものは、再会の約束だけだ。出立直前に半ば強引に押し付けた「約束の月」、その約束を果たしに今日は来たのだ。
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