水の記憶
天蝶
第1話 水の記憶
湖は、今日も静かに波打っていた。風が水面を撫でるたび、光が揺れて、空の色が少しだけ変わる。
澪(みお)は、毎朝この湖に通っている。
誰にも言わず、誰にも見せず、ただ一人で。
湖に語りかけるのは、声ではなく、心の中の言葉。
「おはよう。今日も、忘れないでいてくれてありがとう」
三年前、祖母が亡くなった日も、澪はこの湖に来た。
祖母はよく言っていた。
「水はね、記憶を抱いて流れるのよ」
その言葉は、澪の中でずっと生きている。
だから、悲しい日も、嬉しい日も、澪は湖に立ち、心の中で語りかける。
湖は何も答えない。
ただ、光を反射してきらめくだけ。
けれど澪にはわかる。
湖は、彼女の記憶を預かってくれている。
誰にも言えないことも、言葉にならない感情も、湖は静かに受け止めてくれる。
ある朝、澪が湖のほとりに立っていると、水面に白い羽根が浮かんでいた。
それは、どこからか流れてきたものかもしれないし、湖が澪に返してくれた記憶かもしれない。
澪はそっと羽根を掌に乗せた。
軽くて、冷たくて、でもどこか温かい。
「これは、祖母の手紙かもしれない」
そう思った瞬間、風が吹いた。羽根はふわりと舞い上がり、空へと消えていった。
澪は目を閉じた。まぶたの裏に、祖母の笑顔が浮かんだ。
あの日、祖母が最後に握ってくれた手のぬくもり。
あの言葉。
「水は、記憶を抱いて流れるのよ」
湖は静かに波打っていた。
何も語らず、すべてを抱いて。
澪はそっと微笑んだ。
「また明日、話そうね」
そして、彼女は歩き出した。
水の記憶を胸に、今日という日を生きるために。
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水の記憶 天蝶 @tenchoo
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