第18話

半日ほど歩いたころ、空気はひんやりと変わり始めた。

目の前に広がるのは、陽の光さえ届かぬほど鬱蒼とした森――黒き森。

木々はねじれ、幹に張りつく苔は黒ずみ、奥は深い闇に溶けている。


ユウは思わず足を止め、息を呑んだ。

「……ここが、黒き森」


カイが腕を組み、にやりと笑う。

「見た目ほど怖くねぇさ。ほら、ちょっと散歩するくらいの気分で行こうぜ」


「散歩って……」ユウは苦笑する。

「どう見ても、気楽に入れる場所じゃないよ」


ノエルは地図を広げ、森の輪郭を確かめながら小さく頷いた。

「確かに不気味ね。けれど“黒き森は人を惑わす”って村長も言っていたでしょう。

 気を抜かずに進みましょう」


「お前は真面目すぎるんだよ」カイが肩をすくめる。

「なぁユウ、俺たちでノエルの緊張をほぐしてやろうぜ」


「え、僕が?」ユウは慌てて首を振る。

「いや、あの……えっと……じゃあ……森に入ったら一番に叫ぶのはカイだと思う!」


「はあ!? 俺がビビるわけねぇだろ!」

カイが大声をあげると、ノエルは堪えきれずに吹き出した。

「ふふっ……もう、二人とも。緊張感があるんだかないんだか」


三人の笑い声が、森の入口に小さく響いた。

そのひとときで張り詰めた空気がわずかに和らぎ、再び歩き出す勇気へと変わる。


ユウは小さく息を整え、手紙の入った袋に触れた。

「……よし。行こう」


闇に包まれた黒き森が、静かに彼らを迎え入れようとしていた。


黒き森に一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。

外の世界よりも冷たく、重く、胸の奥まで湿った靄が染み込むようだった。


ユウは思わず息を詰める。

「……暗い。昼なのに、夜みたいだ」


木々が空を覆い隠し、光はほとんど届かない。

足元には枯葉が積もり、歩くたびにかすかな音が響く。

だが、その音さえ森に吸い込まれ、すぐに消えてしまう。


「おい、聞こえたか?」カイが足を止める。

「……何か声が」


ユウとノエルも耳を澄ませる。

確かに、風の音に紛れて、かすかな囁きが聞こえた。

言葉のようでもあり、ただの音のようでもある。


『もどれ……もどれ……』


ユウは背筋がぞくりと震えた。

「い、今……“戻れ”って言ったよね?」


ノエルは眉をひそめる。

「森に入った者を惑わす声……。伝承は本当だったのね」


「ふん、脅かすくらいなら大したことねえ」カイが前に出ようとする。

だが、その瞬間――足元の道がすっと消えた。


さっきまで確かにあった獣道が、落ち葉と闇に飲み込まれて跡形もなくなっていた。

振り返っても、来た道すら見えない。


「道が……なくなった?」ユウが青ざめる。

「どうして……」


ノエルが冷静に声を上げる。

「これが“黒き森の試練”よ。ここでは目に見えるものを信じてはいけない。

 心を乱されれば、本当に迷い込んでしまうわ」


三人は互いに顔を見合わせた。

囁きはますます強く、耳の奥を掻きむしるように響く。


『かえれ……かえれ……』


ユウは手紙の入った袋を握りしめ、小さく呟いた。

「……戻らない。絶対に」


その言葉に、カイがにやりと笑い、ノエルが静かに頷いた。

三人は闇の奥へと、さらに足を踏み出した。


森を進むにつれ、囁きは次第に鮮明になっていった。

最初はただの声だったはずが、今はまるで誰かの声に聞こえる。


「……ユウ」


はっとして振り返る。

そこに立っていたのは――亡き母の姿だった。

柔らかな笑顔、懐かしい温もり。

「もういいの。無理しなくていい。帰ってきなさい」


ユウの足は凍りついたように動かなくなる。

「……母さん?」


「そうよ。あなたはまだ子ども。こんな危険な場所に来なくてもいいの」

母の声は甘く、優しく、心を溶かしていく。


(届けるんだ……手紙を……でも……母さんが……)


胸が揺れ、視界がぼやける。

手紙を握る指先から力が抜けそうになった、その時――。


「ユウ!」

鋭い声が飛ぶ。カイが肩を掴み、ぐいと引き寄せた。

「何してやがる! そこに誰もいねえ!」


ユウははっとして目を瞬く。

そこに母の姿はなく、ただ黒い幹が立っているだけだった。

呼吸が乱れ、心臓が痛いほどに跳ねる。


ノエルがすぐに駆け寄り、真剣な声で言った。

「落ち着いて。森が見せるのは心の隙を突く幻よ。

 信じてはいけない。たとえ愛しい人の姿でも」


ユウは拳を握りしめ、震える声で答えた。

「……わかってる。でも、すごく……本物みたいだった」


カイは真剣な目でユウを見据える。

「だったらなおさら気を強く持て。

 お前が立ち止まったら、ここで終わりだ」


ユウは大きく息を吸い、手紙を胸に抱えた。

「……もう惑わされない。絶対に」


囁きはまだ消えず、今度は別の形を探るように森の奥から響いてくる。

『……次は、誰だ……』


三人は互いに顔を見合わせ、緊張を帯びた足取りでさらに奥へと進んでいった。


黒き森は深く、重く、静かだった。

闇に沈む木々の間から、再び囁きが響く。


『戻れ……ここはお前たちの来る場所ではない……』


ユウは一瞬だけ足を止めた。

どこかで聞いた声に似ていたからだ。

だがすぐに、唇を結び直す。

「……もう惑わされない。僕は進む」


かつて白き塔で見た幻――愛しい者の声、弱さを突かれる記憶。

あの時は心を乱された。けれど今は違う。

胸の奥にある仲間との絆と、自分自身の目的が揺るぎない力となっている。


カイは肩をすくめ、あざ笑うように囁きに返す。

「はん。そんな安っぽい幻、通じるかよ。俺は俺の力で突き進むだけだ」


ノエルは落ち着いた表情で周囲を見回し、短く頷いた。

「確かに幻ね。けれど、塔での試練と比べれば……これはただの影。恐れる理由はないわ」


囁きは強さを増し、三人を足止めしようとする。

だがその声はもはや彼らの心を揺らすことはなかった。

一歩、また一歩と前へ進むたびに、幻影は霧のように溶けていく。


やがて囁きは完全に消え、森はただの暗い静寂を取り戻した。


ユウは深く息を吐き、仲間に向かって微笑む。

「白き塔での試練がなかったら……きっと僕は立ち止まってた。でも、今は違う」


「だな」カイが拳を鳴らす。

「むしろ丁度いい。成長した自分を確かめられた」


ノエルも柔らかく微笑みを返す。

「私たちは確かに進んでいる。そう思えるだけで、十分な収穫ね」


三人は迷うことなく歩き出した。

黒き森の奥へ――さらに厳しい試練が待つ方へと。

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