金木犀の降る庭

星名柚花

第1話

 秋の昼下がり、私は急いで取引先に向かっていた。

 セミロングの髪を結い上げ、左肩には資料が詰まった重い鞄を下げ、カツカツとヒールを鳴らしてコンクリートジャングルの中を歩く。


 ――約束した時間には間に合うだろうけど、15分前には着かないかも……。


 15分前到着、それが会社のルールだ。

 左手首につけた腕時計を見て焦り、さらに歩く速度を上げようとしたそのとき。


 ――落ち着け、とばかりに。

 ふと鼻先を掠めた匂いに、私は思わず足を止めていた。


 それは、金木犀の匂い。

 風に混じって運ばれてきた香りが、私を懐かしい過去へと引き戻す。


 祖母の家には小さな庭があり、四季折々の花が咲いた。

 特に秋になると、金木犀が一斉に花をつけた。

 黄金色の小さな花々が、まるで星屑のようにこぼれ落ちる様を、私は縁側でアイスを齧りながら見ていた。


 私はその頃、学校がうまくいかず、家でも息が詰まっていた。

 そんな時、祖母の家へ行くのが唯一の救いだった。


「いい子にしなくていいよ」と祖母はよく言った。


「泣きたい時は泣きなさい。金木犀の匂いをかいだときは、この言葉を思い出して。心配しなくても大丈夫。きっと全部、うまくいくから」


 祖母の部屋にはいつも、金木犀の練り香水の香りが漂っていた。

 祖母はその香りを手首につけては、私にもすこし分けてくれた。

「これをつけるとね、つらいこともふわっと軽くなるの」と言って。


 祖母が亡くなったのは、秋だった。


 金木犀の花が満開のその日、私は最後に祖母の手を握った。

 冷たくなりかけた皺だらけのその手からは仄かに金木犀の香りがして、涙が止まらなかった。


 それから何年も経ち、私は忙しさに追われ、祖母のことを思い出す余裕もなくなっていた。


 けれどいま、どこからか、金木犀の香りがした。

 不意に、あの庭が目に浮かんだ。

 祖母の優しい笑顔、温かい手、そして「大丈夫」と言ってくれた声が。


「…………」

 その場に立ち止まったまま、私は限界まで息を吐いた。

 大事なのは、まず息を全て吐き切ってしまうこと。

 そしたら人間、自然と息を吸うから――祖母の言葉が蘇る。

 祖母はもういないけれど、この香りとともに、私の中に生きている。


 ――匂いをかいだら、思い出して。大丈夫。きっと、全部うまくいくから。


「……よしっ」

 私は鞄を抱え直し、毅然と前を向いて歩き出す。



〈了〉

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金木犀の降る庭 星名柚花 @yuzuriha

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