花天月地【第99話 冬の始まり】

七海ポルカ

第1話




 それは突然の痛みなのだ。


 まるで見えない何かに皮膚を裂かれたような痛みが走る。

 自分がはっきりと叫んだのが分かった。

 今までも剣傷は受けて来たのに、何故この腕の傷だけこんなにも痛むのか。

 陸議りくぎは奥歯を噛み締めて、動く右手で左手を強く押さえ込んだ。

 落ち着かせようとしても、鼓動に合わせて痛みが続く。


 確かに、これほどの重傷を腕に受けたことは初めてだった。

 受けたその時からこういうことが繰り返されていれば戸惑いなどなかったのに、この痛みが出始めたのは、指が微かに動き、腕の腱が切れていないのではないかと希望を持ち、傷の痛みも治まり始めた頃だったから、余計原因が分からず陸議は戸惑うのだ。


 それに痛み始めるのに、何の前触れもない。


 これから陸議は郭奉孝かくほうこうに同行して江陵こうりょうの地へ行く。

 緊迫したあの地では軍事行動は今は控えなければならないから、護衛は伴えないし目立つ行動などは控えなければならない。


 陸議はこの涼州遠征で、それまでは話でしか聞いていなかった郭嘉かくかの才気を知ることとなった。


 曹魏への忠誠心、秀でた知略と、その実行力。

 軍師でありながら単独でも場合によっては仕掛けに行く果敢さも、見た。

 間違いなく若きこの魏の軍師はこれからの曹魏、新しい時代を迎えようとしている曹丕そうひの時代を、司馬懿しばいと共に支えて行く存在になるはずだと陸議は思っている。

 

 涼州遠征は、司馬懿の副官だった。

 彼は自らだけではなく様々な将官の副官に陸議をつけて、貴重な経験を積ませてくれた。

 あくまでも副官や補佐的な動きを求められたが、江陵は違う。


 赴くのは郭嘉と陸議と、徐庶じょしょだけなのだ。

 郭嘉だけは例え自分が盾となっても守らなければならない存在だった。


 折角あれほどの才能を持つ人が、自分を副官で試してみたいと連れて行くことを決めてくれたのに、足を引っ張ることだけは出来ない。


 郭嘉は孫呉で言うと、周瑜しゅうゆのような存在なのだ。


 陸議は痛みを何とか押さえつけながら、思った。

 側にいるだけできっと色々なことを学べるし、感じ取れる。

 これから何度もない、貴重な機会になることは分かっていた。

 

 呼ばれた時は驚いたが、今は嬉しいという気持ちの方が大きい。

 江陵は不穏な地だ。

 陸議にとっては特に輪を掛けて、因縁めいた地でもある。

 それでも行ってみたいという気持ちが強かった。


 そしてあの地で郭嘉が何を感じ取るのかも知りたい。興味があった。


 必ずこの旅について行きたいのだ。


 強くそれを願って、願うことでこの痛みをなんとか誤魔化そうとしたが、痛みは引いていかない。

 

 その時、手が触れたのが分かって陸議は顔を上げる。


 徐庶がやって来て、陸議が押さえていた腕に手で触れていた。

 徐庶の手の体温は低く、痛みで熱を帯びていた場所から、嘘のように痛みが引いていくのが分かった。


 こういうことが何度かあった。


 どうして徐庶の手に触れられると痛みが消えて行くのか、理由は分からないが、本当にそうなのだ。


 理由の分からない痛みと、

 痛みが消えゆく理由も分からず、

 陸議の胸には戸惑いしかないのに、陸議の寝台の側に腰掛けてそうしている徐庶は何も言わず、ただ穏やかな表情でそうしてくれている。


 必ず痛みは引くものだと徐庶は言っていた。

 彼も治りかけた傷が不意に痛んだことがあると。


 戸惑わなくていいから落ち着くんだと、徐庶は、陸議に比べたらさほど戦場で剣を振るった経験もあると思えないのに、不思議とその言葉が陸議の胸に自然と染みこんで来る。


「…………すみません……」


 歯を食いしばっていないと耐えられないほどの痛みだったが、徐庶の手が触れて、ようやく少し話せるようになった。


「いいんだ。気にしないでいい」


 もう平気になりましたと言いたかったが、徐庶の優しい声を聞いたら強がりが出なくなった。

 身体に与えられる痛みなど慣れたものだと思って生きて来たのに。


「……早く治さなければいけないのに」


「こういう傷は焦っても良くはならないよ」

 徐庶が笑った。

 分かっている。

 もし誰かが自分と同じ状況だったら、自分も多分そう言っただろう。

 焦ることはない、

 焦っても良くはならない、と。


 ただ、もうすぐ江陵に行かなくてはならない。

 郭嘉を守れるようにならなければならない。

 徐庶の足手まといにならないようにしなければならない。

 ただでさえ許都きょとに来てからしばらく剣は振るえなかったのだ。

 本当はもっと鍛錬しなければ以前のような剣は取り戻せない。


 今の状況では郭嘉と徐庶に迷惑を掛けるだけだと分かるからこの話を断るべきなのに、それだけは絶対に嫌だった。


 何故こんなに嫌なのかは分からないが、


 司馬懿の側を離れて、郭嘉の側で世界を見れば、

 何か他の光明が見える気がするのだ。


 それが何かは分からない。

 今の陸議は司馬懿に命を握られ、この先どう生きていくかも全て決められている。

 その状況を、多分変えたいのだ。

 曹魏の為に生きるにしても、司馬懿の側で永遠に全てを支配され、決められて行くのは苦痛だった。


 司馬懿は全てにおいて陸議を束縛している訳では無く、時に羽ばたいているのを楽しげに眺めてはいるけれど、手にした縄は決して陸議から離そうとしない。

 

 別に陸議はどこかに自由に羽ばたきたいわけではないのだ。

 しかし支配され、司馬懿の側に括り付けられているのは嫌だった。


 郭嘉も賈詡かくも、魏の一人の将官として陸議を捉えようとしてくれている。


 陸議は自分の命を掛けて、魏軍の為に力を尽くしたいのだ。

 司馬懿の命令で動く駒ではなく、 

 彼らと同じように曹丕に命じられて、戦場に赴きたい。


 そういう自我が、


 許都に連れて来られた時には一切失われていた強い自我が、自分の中で目覚め始めているのだと陸議は感じていた。


 あの日郭嘉に腕を斬られ、生死の境を彷徨った。

 だが生き残った中で、自分がここで成すべきことが少しだけ分かった気がした。


 陸康りくこうに夢で会ったことと、

 龐統ほうとうの真意に気づけたことは、

 陸議の中で目覚めた新しい息吹だった。


 郭嘉や賈詡に認められれば補佐役ではなく、一人の将官として戦場に送ってもらえるかもしれない。



(戦いたい)



 送られる場所が例え因縁ある地でも、

 死に近い戦場でも、

 構わない。


 戦いたいのだ。


 戦いたい。

 そういう気持ちが生まれ始めた頃、

 この痛みが出始めた。


 何故心がこんなにも前に進むことを望むのに、その時に限って身体の痛みが歩みを縫い付けるのか。

 

 陸議は苦しかった。


 どうして徐庶の手に触れ、

 声を聞いていると痛みが引くのだろう。

 陸議は自分の腕に置かれた、徐庶の手をぼんやりと見つめた。


「自分で痛みを抑え込もうとしたけど……駄目でした。

 同じように、したのに。

 ……どうして徐庶さんの手が触れると痛みが引くんだろう……」


 徐庶は一度自分の手に視線を下ろしたが、そこに頬杖を突いた。

「理由は分からなくても、これで痛みが引くならもう少しこうしておくよ」


 自分の身体のことなのに自分で分からないなんて子供のようで、陸議は惨めな気持ちになったが、虚勢を張れる状況でないことは分かっていた。


「……。徐庶さんはいつもこうですか?」


 まだ夜も明けない中、小さな声で陸議が呟く。


「?」

「あ……いえ……貴方はどんな時も動じることがなく、慌ててるところを見たことが無いなと思って……」

 何を言われたのかなと思っていた徐庶が、数秒後笑った。


「いやそんなことはないよ。涼州に来てからは狼狽や驚きや戸惑いばかりだった。

 ちゃんと慌ててる」


「そうかな……」

「そうだよ」

「そんな風にあまり見えません」

「見えにくいだけで、内側は大慌てしてるよ。

 風雅ふうがや涼州騎馬隊のことでは、自分がどうすればいいのかもろくに分からなくなったし……その件では、俺より君の方がずっと冷静だった」


 陸議は押し黙る。


 自分が痛みで叫び、飛び起きた時も徐庶は冷静だった。

 司馬懿や郭嘉も非常に冷静な男で、自分がどうすればいいのかなどで、狼狽えたところを見たことが無い。


 そんな風に言うと、徐庶は「そんなことはない」と言った。


「動揺のない人間なんて存在しないよ。

 誰しも心に隙はあるし、立場ある人間なら動揺しても、他者に悟られてはいけないと隠しているだけさ。存在しないわけじゃない」


 周瑜しゅうゆも狼狽した所を見たことが無い。

 あんなに幾つもの重要な戦場を任されて、その戦場で予期出来ないことも幾つも起こっただろうに、周瑜が狼狽し、行く道を見失っているような姿を一度として見たことが無い。


 優れた軍師は戦場の道標のようなものだ。

 彼らはだから、そうなのだろうと思う。


 徐庶は、以前陸議に対して優れた軍師になれると言ってくれたが、陸議はそうは思えなかった。


 自分は身体の痛みなどを我慢出来ず、不安になり動揺している。

 大病を患って尚、赤壁せきへきを戦い抜いて勝った周瑜や、

 命を懸けて自分を狙い続けた暗殺者達を討ち果たした郭嘉とは、自分は全く違う場所にいる人間だと思う。



 ――涼州の、冬の、澄み切った夜空。





        星。





 ……龐統。






龐統ほうとうも、心の動揺など見せたことの無い男だった)


 そう思って、すぐに気付く。

(……いや、一度だけ彼が動揺するところを見たことがある)


 赤壁で陸議が諸葛亮しょかつりょうの首を狙った時、龐統が彼を助けた。

 あの時初めて、激しく心が乱れている龐統の姿を見た。


 誰しも心の隙はあると徐庶は言った。

 痛みから逃れるために伏せていた顔をそっと上げる。

 徐庶は少し眠たげにも見える優しい顔で、陸議を側で見下ろしていた。


「ん……?」


 先日の、司馬懿との閨を思い出した。

 確かにあの時は、司馬懿の様子が変だと思った。

 あの男は冷静に見えてもその自分の根底に激しい、炎のような感情を秘めている。

 それは敵同士だった時にも何度か見た。


 魏軍では最高の武人と名高い張文遠ちょうぶんえんも、今回誰も予期しない理由で死傷を負ったという。


 あれが心の隙なのか。


 徐庶の言う通り、例え完全無欠のような人間に見えても、全ての人間に隙はあるのだろうか。


「……全ての人に心の隙があるなら、曹孟徳そうもうとくにもありますか?」

 

 ふと陸議がそう言ったので、徐庶は瞬きをする。


曹操そうそう殿?」

「はい……」


 黄巾こうきんの乱から董卓とうたくの時代を生き延び、この地に魏の国を興した偉大な王。


 徐庶は喜んで魏に来た訳ではなく、来てからは埋もれて暮らしていたのであまり魏軍の人々に人となりを知られていない。


 ただ実のところそんな徐庶だが、曹操とは直に話したことが何度かあった。

 部隊をいくつか任せるので軍師として働かないかと、そういう話をされたのだ。


 徐庶は一度は劉備りゅうびに仕官することを決めたので、そこが駄目だったからといって曹操に従うことは出来ないと、その話は一番最初に断った。

 殺されるのも覚悟の上で、貴方には従わないと言いに行ったが、曹操は「まあそう結論を急ぐな」と言って、城に徐庶を留め置いたのだ。

 

 時々呼ばれて曹操の話を聞いたが、徐庶はあまり喋らなかった。


 そのうちに呉蜀同盟が結ばれ、一気に赤壁せきへきへと状況が突き進んで行くうちに、城でやることも無くなったので長安の城下に行った。

 やることもなくフラフラと街で過ごしていると、ある日王宮から手紙が来て、城下の役職に入れと命令が来た。

 軍事関係とは全く関わりの無い、行政の下位職の仕事である。

 全く大した仕事ではなかったが、軍に関わることを拒んでいた徐庶には都合が良かった。


 どこから話を聞いたのか、数少ない知り合いが訪ねて来て、曹操自ら招かれたのにこんなつまらない役職についたら一生出世とは無縁になるから断れと助言を受けたが、徐庶は受けた。

 

 曹操が徐庶をその役職に付けたわけではないと彼は考えている。

 恐らくその近くの人間が、自由気ままにさせていてもしょうがないと考えて、魏に忠誠を誓わない徐庶を懲らしめる意も込めて、出世とは無縁な大したことの無い役職に付けたのだと思う。


 しかしこちらは長い間逃亡暮らしをしていたのだ。


 命の危険が無い、雑務が主の仕事について、都暮らしで、少なからず金も手に入る。

 何故嫌だなどと思うだろうか。

 徐庶は満足してその役職に就き、日々を過ごした。


 それ以来、曹操からは声は全く掛からなくなった。

 赤壁後、大変な状況になったからだとか、そういうことは多分関わりないだろう。

 つまらない仕事をせっせとやる徐庶という人間を、見限ったのだ。


「徐庶さんは、曹操殿にお会いしたことがあるんですよね……?」

「一応ね」

 徐庶は苦笑した。


長安ちょうあんに来たばかりの頃、少しだけ城に留め置かれて、何度か話したことはある」

「どんな……方でしたか?」


「そうだな……まあ迷いの無い……自分が何をすべきか知っている人間とでもいうのかな。

 確かに心の隙や、動揺は少ない人間だとは思うけど。

 しかし迷いとは無縁ではないよ。

 曹操殿には強い我と、欲がある。

 この世の全てを思いのままに手に入れることは出来ない。

 つまり彼にも手に入れられないものはある。

 そういうものが心の隙になる」


「では……何も求めない人間は心の隙が無い人間ですか?」


 龐統ほうとうも、諸葛亮以外は何も求めない人間だった。

 確かに付け入る隙など見えなかった。


「いや。それも違うよ」


 徐庶は首を振った。


「人は一人では、何も成すことが出来ないんだ。

 俺が長い間捕まらなかったのは身寄りが無く、人との縁が薄く、情報が少ない人間だったからだ。

 だから確かに捕まらなかったけど、ただ逃げ回ってるだけの人生で、人との接点が無いと言うことはそれだけで弱味になる。

 一人で気ままにやってる時はいいが、何かを成そうとした時に頼るべき物が何も無いのは弱さだ。上手く生きているとは言いがたいやり方だと思う」


「じゃあ……」


「一番隙の少ない人間というのは人を見極め、付き合う者を吟味し、選べる人間だ。

 人に尊敬もされるが、時に、孤高にもなれる。

 窮地に陥った時に、普段から吟味している人間に助けを求めれば、適切な答えが返る。

 助けも求められる人間。

 曹操殿はそういう意味では、非常に隙は少ない。

 彼には優れた側近が何人もいる。

 袁紹えんしょう董卓とうたくにはそれが決定的に欠けてた」


 考え込むようにしばらく一人で話していた徐庶が、もう一度陸議を見た。

 心配そうにこちらを見上げている青年の額に、空いた手でそっと触れる。

 陸議はゆっくり目を閉じた。


「心の隙は強く求めすぎたり、逆に、誰とも打ち解けず孤高になりすぎたりした時に出るものだから。

 ……傷が痛むときは、痛いと言っていいんだ。

 そう言えることも強さだよ」


 徐庶の声が聞こえたかは分からないが、陸議の身体からは痛みは引いたようだ。

 彼は目を閉じたまま、やがて眠りについた。



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