余命三ヶ月の幸運

らぷろ(羅風路)

余命三ヶ月の幸運

背中の痛みは最初、寝返りの角度の問題だと思っていた。冬が終わり、薄い上着に替えた頃から鈍い針が肩甲骨の奥でうごめくようになった。整骨院のベッドにうつ伏せになると、顔がはまる穴の周りで消毒液のにおいが強くなり、指先が体のどこかを探り当てる。痛む場所は毎回少しずれて、私は年齢のせいだと笑ってみせた。施術の後は軽くなる。だが翌朝、目を覚ましたときには、痛みの輪郭がよりはっきりと立ち上がっていた。


妻が人間ドックを勧めたのは、私の笑い方がぎこちなくなっていたからだろう。彼女は学生時代から変わらず堅実で、心配の仕方も整っていた。私は観念して一日のドックを予約し、朝から検尿、採血、心電図、胸部レントゲンと、記憶の棚の奥にしまっていた経験を取り出して並べ直した。終盤の腹部エコーで技師の手が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。画面には白と黒の波が寄せては返し、技師は丁寧に同じ場所を何度も往復させた。終了後、担当医は「すい臓の数値がよくありません」と言った。声は穏やかだが、その穏やかさの後ろで何かが固く閉じられる音がした。


精密検査までの数日、私は妻と娘にいつも通りの声で電話をした。名古屋で証券会社に勤める娘の生活は忙しそうで、会話は短く、用件は端的だった。私はそれをありがたいと思った。長く話すと、声が揺れる自信がなかったからだ。大阪の空は薄く曇り、駅のホームに立つと背中の痛みが潮のように満ち引きした。検査を受け、結果を受け取るまでの時間は、冷水に手を入れ、その冷たさが肘のあたりにじわじわと上がってくる感覚に似ていた。


大学病院の個室に私が入ったのは、診断を聞いた日の夕方だった。白い壁、ガラス戸越しに見える中庭、他の部屋からの咳の音。医師は「膵臓がん、遠隔転移あり。余命は、およそ三か月」と言った。私はうなずいた。頭の内側で何かが崩れる音がしたが、それは想像よりも小さく乾いた音だった。恐怖は波のように来るとばかり思っていたが、実際には、無音の空気が肺に溜まり、ゆっくりと滞る感じに近かった。私は数字に救われた。三か月という目安は、私の生の端に定規を当てる行為だった。


夜、点滴の落ちる速度を数えながら、私は手帳を開いた。昔、仕事で使っていた茶色の表紙のものだ。最初のページに「計画」と書いた。日付を三つの列に分けた。第一列は今週から四週間、第二列はその次の四週間、第三列は最後の四週間。身体がどの程度動くかはわからないが、書くことはできる。私は自分にできることだけを並べた。妻と娘に宛てて短い手紙を書く。預金の整理、光熱費の解約手順、IDとパスワードの所在。書斎の本から、手の届く範囲だけ数冊を選び、古紙回収の準備。時計を磨く。学生時代から使っている万年筆にインクを入れ、試し書きのにじみ具合を確かめる。どれも小さな仕事だが、私を私たらしめてきた道具の声を確かめる作業だった。


最初の一週間、私は恐怖の形を学んだ。恐怖は、目を閉じたときに浮かぶ黒い穴ではない。むしろ、窓の向こうの中庭で看護師が歩く足音、廊下のワックスの匂い、昼食の味噌汁の温度、そうしたものの輪郭が急に濃くなる現象として現れた。濃さに耐えきれないとき、私は手帳を開き、項目の横に小さな四角を描いた。四角は空白で、そこにチェックを入れる瞬間を想像するだけで、呼吸が落ち着いた。私は、予定された死という言葉の裏に、予定された小さな生があるのだと知った。


治療について医師と話す機会があった。積極的な抗がん剤で延命を目指すか、緩和に重点を置くか。私は前者の可能性を計算した。副作用で寝込む日がどれほど増えるか、外出の機会がどれほど減るか、手帳の四角にチェックが入る頻度がどれほど乱れるか。乱れた欄外に重ねて書く自分の字を思い浮かべたとき、私は緩和を選んだ。選択を口に出すと、不思議な静けさが胸に満ちた。自分の字が、線から線へまっすぐ引かれていく感触がした。


二週目、私は個室の家具の配置を少し変えた。窓際の小さなテーブルをベッドの足元に寄せ、手帳と万年筆、眼鏡拭き、時計、薄い文庫を置いた。カーテンの開け閉めの角度を調整し、午前の光が紙面を白く焼きすぎない位置を探した。看護師に頼んで、枕の高さを一段下げた。背中の痛みはそこに居ついた生き物のようで、顔をしかめるほどではないが、気を抜くと噛みついてくる。私は、噛まれない姿勢や時間帯を覚え、そこへ生活を寄せていくことで、恐怖に名前を与えた。


妻が来る日は、朝から部屋の空気の粒が細かくなるように感じた。だが私は、会話を必要以上に広げないことにした。言葉が増えると、余白が多くなる。余白は恐怖を呼ぶ。彼女は私のやり方を尊重してくれた。彼女の目は学生時代と同じ形をしており、そこに映る私の姿が年齢にふさわしく老いているのを確認すると、私は妙に安心した。帰り際の背中を見送った後、私は手帳の四角にひとつ、昼食を完食した印をつけた。


三週目の終わり、私は娘に宛てた手紙を仕上げた。便箋三枚、事務的過ぎず、感傷に流されず、具体的な生活上の助言は最小限にした。名古屋の空は大阪より乾いているだろうから、喉のケアに気をつけろなどということを書きかけて、消した。代わりに、学生時代に読んだ一節の引用を短く添えた。今という時間は、薄い紙の重なりのようで、一枚ずつめくると、その厚みが指先の温度で確かめられる。そういう意味のことだ。封をしてから、私は胸の奥で何かが少しだけ軽くなるのを感じた。


四週目、病室の窓から見える桜が新芽に変わった。季節はずれの温度の跳ね上がりがあり、病院の空調は一定だったが、外気の匂いは微妙に変化していた。私は匂いの変化を手帳に記録した。朝の匂い、午後の匂い、雨の日の匂い。匂いは記憶を呼ぶ。学生時代に彼女と歩いたキャンパスの土の匂い、娘が幼い頃に抱き上げたときの髪の匂い。それらは昔話としてではなく、今の匂いとして立ち上がった。私は、今という時間が、過去と未来のあいだに固定されているのではなく、過去を引き連れて今に到着し、未来の方角へ少しだけ滑っていく運動であることを、身体で理解した。


二か月目に入ると、疲労の波が大きくなった。昼寝が長引き、夜の目覚めが増えた。点滴の落ちる音が一本の細い雨に聴こえ、その雨の向こうに、見知らぬ庭が広がっている気がした。私は庭の手入れの計画をするように、自分の体の手入れの計画を立てた。読む時間は朝に移し、午後は休む。夜の考え事は短く。眠れないときは、時計を磨く。文字盤の数字の間を綿棒でそっとなぞると、集中が戻り、時間が戻る。戻るといっても巻き戻されるわけではない。今へ帰ってくるのだ。


妻が持ってきた写真を、私は机上の隅に立てた。家族旅行の一枚。三人とも正面を向いている。私はその写真を毎朝、十秒だけ見ると決めた。十秒以上は見ない。十秒の中には、思い出も、後悔も、感謝も、すべてが圧縮されて入るが、膨張はしない。十秒が過ぎたら、私は紙を閉じ、今の光に視線を戻す。十秒の規律は、私の心を守った。守るというより、たぶん正しい距離に置き直す作法だった。


三か月目の初め、医師は穏やかな声で今後の見通しを説明した。私はうなずき、手帳の第三列の先頭に小さな丸を描いた。丸は未完の印だ。そこに何も書かない日が来ることを、私は受け入れた。受け入れるという言葉は、しばしばあいまいだ。私にとってそれは、恐怖が来たら対処するという意味ではなく、恐怖が来ない日があることを認めるという意味になった。恐怖が来ない日、私は納豆をよく混ぜ、ゆっくり食べ、看護師の靴音を数え、点滴の落ちる間隔を指折り確認し、窓の外の雲の速度を目で追った。それは、驚くほど豊かな一日だった。


終わりが近いと感じたのは、眠りの質が浅く軽くなり、夢と現実のあいだに薄い膜が張り始めた夜だった。私は妻に短いメッセージを送り、娘に同じ内容を転送した。返事は求めなかった。求めないという選択は、彼女たちの時間と私の時間の両方を守るためのものだった。私は椅子に座り、窓を少し開け、夜の空気を吸い込んだ。春と夏の境目の匂いがした。私は、恐怖がないことを確認した。代わりに、身体の輪郭が少しずつ薄くなっていく感じがあった。薄くなるほど、重荷が床へ落ちる音が遠ざかった。


予定された死とは、予定された解放だと、私は思った。解放は歓喜ではない。静かな許可だ。何かから逃げるのではなく、何かに頷くこと。私は、自分の名を心の中で呼んだ。七十三年の重なりを、重ねたまま畳む作業をしているのだと理解した。畳む手つきは、妻が昔、洗濯物をたたむときの手つきに似ていた。角と角がぴたりと合うと、布は静かに呼吸する。私の呼吸も、その布の呼吸に重なった。


最後の頁に、私は一行だけ書いた。「今の意味は、今にしかない」。書き終えた字を見て、私はペンを置いた。窓の外の雲は、街の明かりの上で形を変え、消えた。点滴の滴は止まらないが、私の中の時間は、もう急いでいなかった。私は目を閉じ、背中の痛みを探さなかった。探さないという行為が、私を軽くした。私は、死から解放されていた。恐怖が私から離れ、廊下の終わりを曲がって見えなくなるのを、音もなく見送った。今はただ、今として在った。私の計画は、最後まで私のものであり、今もまた、私のものだった。

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