星の元に塵と化して

三井しろ

かわいらしい処女作

処女作。何かが始まってしまうから、何かを選ばないといけなくて、何かを選ばないといけないから、何かを捨てなければいけない。そんなつまらない循環に身を委ねてはや何年か。ようやくそのつまらない循環にトドメをさせる。それが喜ばしくてたまらない。だけれど、それと同じくらいこの処女作を喜ばしく思っているからそんなはなしはあとにしよう。これは、私という人間の私という物語を誰かに覗かせるような、そんないじらしい行為なのだから。余りにも破綻して、余りにも一貫性がない。そんな物語をお送りいたしましょう。だなんて始まると思ったかい?始まってもすらいない話の腰を折って見せよう。この飛躍に毎日私は振り回されているのだ。少しくらい読者の君達も振り回されてくれ。


言い忘れていた。この文章はエッセイなどと大層な名前を銘打っているけれど、中身はただの駄文である。あまりこの表現は好きではないのだが、便所の落書き程度のことしか書くつもりはないし書けない。なぜならば、ここで提起される問題の解決策を、まだ私が持ち合わせていないからだ。これは謙遜などではない、忠告だ。まだ安っぽい自己啓発本を読んだ方がマシかもしれない。断定をしてくれるから、読んでいて安心するだろう。だが私は、曖昧を行く。ソクラテスが青ざめてしまうほど、私は相対主義者だ。きっとこの先の文章でも、「そう思う」だと「きっとそう」だの喚くだろう。だが仕方ない。私にとっての真実も、数ある真実のうちの一つでしかなくて、他者の真実のとって私の真実は時に間違いだからだ。あたかも自らの到達した真理を、万物にひいては神にさえも当てはめてしまうような愚かさを私は持ち合わせていない。まぁ、真実の話もまた今度しよう。


処女作とは言ったものだが、なぜ童貞作ではないのか。ここに我々の人であるが故の愚かさがあると思う。人間は言葉に意味を込めすぎている。本来言葉になんて意味はないのに。VRChatにおける「ふにゃオス」、Twitter(X)における「男さん、女さん」のような、ひどく言葉に同情してしまうような言葉が最近は目につく。赤は赤でしかないのに、人によっては革命を想像する人もいるだろう。それと同じように、人間は自分の認知の負担を減らすがためにあまりにも安易にレッテルという檻に他人を閉じ込める。もちろんこの人はこういう人だという認識がなければ、その人がどんな人なのかすらも自分の中で定義できないし、仕方のない事ではある。だがしかし、仕方がないからと言って人を殺めるような人はいないように、なるべく人を傷つけないように努力すべきなのだ。他者を見ていて、そのようなレッテルを平気で他人に貼り付けていくような人を見かけるたびに、なんて怖いもの知らずなんだろうと感心する。自らに貼るならまだしも、他人にそのようなレッテルを貼って、その中に他人を閉じ込めるような真似をするなんて、なんて恐ろしい。そうでもしないと他者のことを定義できない人間に、限界というものを感じる。かくいう私も、他者にレッテルを貼っている。他者を殺すような真似をしている。良い点を挙げるとするなら、自分は他人を殺しているんだという自覚を持って他者を殺しているところだ。無自覚に人を刺して回るような狂気を私は持ち合わせていなかった。レッテルを貼られた側の人間は、その人間の中ではレッテルの中の人間でしかないというその残酷さに、私は気づいてしまった。かわいいとレッテルを貼られた人は、行動がかわいいでしかない。不思議というレッテルを貼られた人は、行動が不思議でしかない。敵というレッテルを貼られた人は、行動が敵対的でしかない。同じ首を傾げる行為だって、その人に貼られているレッテルによって意味が変わる。ただ首を傾げているだけでしかないのに。敵というレッテルを貼ってるからと言って、全ての行動が敵対的ではないと思う人もいるだろう。友好的なことだってしてくれるんだって。私が言いたいのはそういう事ではない。すべての評価軸に「この人は敵対している」という評価が入るのが問題だと言っている。それは世界を歪めかねない。現に私は世界を歪めている。どうしようもないほど歪んでいる。どこが歪んでいるのかわからない、歪んでいる事だけを残り少ない理性でなんとか感じ取れるほど歪んでいる。視野狭窄の時や、脳のリソースがない時はどうしてもレッテルを貼ってしまいたくなる。そういう症状のこともあるだろう。そこで一歩止まって欲しい。今から自分は人にレッテルを貼ろうとしているんだと自覚して、その暴力性をしっかりと理解しようと努めた上でレッテルを貼るべきである。人を殺すことを知った上でボタンを押すべきなのである。レッテルを貼らないことなど不可能なのだから、あたかもレッテルを貼らずに生きていける!みたいな妄想に取り憑かれたような妄言を書くつもりはない。もちろん、この話は物にだって状況にだって、意味を与えられる物全てに当てはまることである。包丁が自分を殺す道具に見えたら、それがレッテルであると自覚した上で、自分の喉を掻っ切るべきである。昔は綺麗だった太陽が、今は自分を忌々しく痛めつけているように感じたら、同じように自覚して、日傘でも刺すなり引きこもるなりするべきである。いかにレッテルをレッテルでさあると自覚するかが、物事を捉えようとする上で大事な点だと思う。世の中の人はこのことを自覚すべきである。私も今、世の中の人たちがこのことを自覚できるほど賢くないというレッテルを貼った。私はそれを自覚しているし、これからもより自覚できるように努めようと思う。


先にも述べたように、この文章は駄文である。私のための文章でしかない。自戒の祈りとでも言おうか。なんともかわいらしい処女作か。さて、先ほど述べた問いに対する私なりの推察を答えようか。童貞よりも処女の方がよりあどけなく、いじらしい雰囲気を感じられるからではないかなと、だからレッテルだのくどく話したわけだ。軽く調べたところ、欧米の言語の名詞の性別の話だったりするとかなんだとか。言葉に性別をつけるなど、それこそレッテルの極みだと思うが、言語とはまた不思議なものだ。

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