厳格なる逸脱

桑野健人

暗闇に瑞々しい翠の瞳が二つ泛んでいた。睥睨するかのように冷淡なその瞳を仰ぎながら、僕は彼女――椎木翠――を永遠に愛することを誓った。或る春先の寒い一夜のことである。大都会の一角の狭い部屋の電灯は消され、若者だけに赦された美しい音楽が奏でられた。しめやかな暗闇が僕らの身体に纏わりついて、決して互いの身体をみることは叶わなかった。すべてが絶滅したような寂蒔。僕たちの行為は役割をめぐる苛烈な戦争だった。僕らは空間に融け合い、肉体を癒合させ、精神をも合一させながら、あるを夢みている。栄光を掴むための僕の奮闘と圧倒的な平穏を死守しようとする彼女の嬌声は、逆説的に美しい旋律を奏でるだろう。僕らは結果がどうであれ、生命を脅かす程の激しい行為の果てに甘美で確固たる活路を見出そうとする、若者の時代を生きていた。

「さ、始めようよ。K君。眼鏡は、反則」

椎木の翠の瞳が湖面に映る月のように朧に美しかった。瞳以外、彼女の姿はみえなかった。おまけに熱を帯びた闇が僕の眼鏡を取り去ってからは、朝霧に包まれた都市のようにぼやけて殆ど何も見えなくなってしまった。僕は極端に視力が悪かった。そして鮮やかな椎木の瞳もまた、眼鏡なしでは壊滅的にモノが見えなかった。彼女の軽い身体が僕の上にのしかかる堪らなく心地よい感覚が心臓や脳を麻酔を打ったように痺れさせた。微熱のように温かい彼女の両手が僕の腕をベットに押し付けて塞ぐ。翠は裸だろうか?そうに違いない。彼女の生命の鼓動が熱を帯びて真っすぐに僕に伝わってくるから。身体から湧き上がる焔だけが真実のように思われた。

「それじゃ、最初の儀式キスをしようか――」

僕が言い終わらないうちに、溶けかかった彼女の柔らかい唇が僕の唇に重ねられた。


 接吻。

 

 それは僕にとって当たり前の儀式だった。僕は子供の時から一人暮らしをするまで、毎日母と唇を重ねた。それは異国の挨拶のようでもあったし、それ以上の意味も込められていたように思う。紺色の制帽を目深に被り、さっぱりしたベストを着て玄関先で靴を履いていると、きまって母は僕に抱擁をせがんだ。僕は然しまだ幼稚園児だったので何の躊躇いもなくそれに応えた。母の身体は焚火のように熱かった。僕は時折それを恋しく思った。だが、どうしても母と抱き合うと――母は往来でも僕と抱擁した――気恥ずかしさが勝ってしまって馴れなかった。僕が偶に母の腕から逃れたがると、彼女は一層力をこめて僕を抱きしめるのだった。柔らかい身体に押し付けられて、そのなだらかな肩越しに見る居間リビングの観葉植物は、いつまでも偽証の凍てついた光を帯びて硬かった。そして彼女は思い出したように艶めかしい色をした唇で接吻するのだった。僕は蕩けてしまって、白樺のように細い母を恍惚と仰ぎみるのだった。口づけした後の母の瞳はいつもぼんやりとしていた。

 僕は父をよく知らない。僕が小学校にあがる頃に単身赴任してしまって、彼に会えたのは年に二回だった。帰ってくるのは決まって春先か晩夏の一夜で、食卓に並んだ些か豪勢すぎるご馳走を挟んで向かい合うその日はどことなく気まずかった。彼は寡黙だったが、当然持ち合わせるべき父としての威厳は無かった。寧ろ母の方がこの家族を統括していたように思う。僕の方も人見知りが過ぎる子供だったので、彼と話すことは殆どなかった。母は父の前で容赦なく僕に接吻を繰り返した。僕はそれが恥ずかしくてならなかった。机を挟んで繰り広げられる母子の熱烈な交感をみる髭すら生やさない痩せた眼鏡の男は、何処か醒めきって澄んだ瞳をしていた。これから聖餐に供される犠牲いけにえ羊を眺めるような瞳だった。諦めて僕の方からも彼女の桃色の頬にキスすると、彼女は堪らなく喜悦するのだった。嬉しそうに頬を綻ばせる母親が嫌いな子供は居ない。僕もまた彼女を愛し、微笑を溢すのだった。父は穏やかな表情を変えなかったが、不意に影の差した陰鬱な疲れた表情が覗く瞬間がある気がした。まるで世界の円環構造から外れてしまって、循環する機構を動かす装置になってしまったかのような、絶望から抜け出ることの出来ない苦しみがある気がした。徐に立ちあがると彼は、寝るよ、と気怠そうに笑いながら言った。母は僕から視線を父に移すと、もう関心が無くなったように、

「先にお風呂に入ると良いわ。私はKと後で入るから」

と勧めるのだった。その声は柳の葉のように鷹揚で柔らかだったが、強制力のある計画的な粗雑さの篭もった響きがあった。父は唯々諾々とそれに従って、蹌踉と居間リビングを去った。愚鈍な鼠のような卑屈な彼の後ろ姿は、譬え大黒柱であっても母の命令は絶対であることを示していた。畢竟、生贄は彼だったのである。


 僕は湯船に浸かりながら、シャワーを浴びる母の裸体を茫然と眺めた。その頃から目の極端に悪かった僕は、しなやかな背中を湯けむりと清冽に流れる水とに隠された彼女を美しい幻か何かだと思った。母親と風呂に入るというのを、僕はさして異常なことだとは思わなかった。僕は異性というものを理解していなかったし、まして家族に恋愛感情を抱くなんてことはあり得なかったからだ。唯、彼女の豊饒な乳房は例外だった。それは智慧の実のような蠱惑的な美を誇示するのだった。僕はそれを愛することを稚拙なことだと思った。まして、それを吸いたいと願う浅ましい感情を抱いている自分に気づくと、忽ち燃え上がるような羞恥に襲われて無暗に叫びたくなった。浴室は穏やかに明るかった。

「お父さんみたいね」

シャワーをとめて母は僕に微笑を向けた。僕はのぼせたのか照れているのか判らない混沌とした脳裡に彼女の声を聴いた。僕は何故か父親と一緒だと言われるのが嬉しかった。はっきり言って彼は謎の人だった。世間の父子関係のような強固な信頼も尊敬もそこには無かった。液体のように無気力に寝そべりながら一日を過ごす彼の姿しか僕は知らなかった。そういう懶惰な人間であるのに、母は父を見初めて、遂に結婚したのだ。不思議だった。彼と僕は同じだと母は言った。彼もまた僕と同じように豊満な果実の虜になっていたのだ。

 母に認められるということが僕は嬉しかったのかも知れない。人肌くらいに温くなった湯船に、母の熱い身体を感じて僕はどぎまぎした。母は僕を抱きしめたかと思えば、いつになく激しい接吻を交わすのだった。僕は朦朧として、翼が生えたような気分になって彼女に身を委ねた。彼女の艶やかな睫毛――それに護られた怜悧な瞳を見る。不意に小鳥の凱歌のような譫言のような、声にならぬ声が室内に響いた。声は間歇的に暫くあがり、湯気は濛々と雲中供養菩薩のように僕らの周囲を飛び交うかに見えた。僕は声がするたびに、歪み崩れる母の不思議な表情を眺めるのだった。扉に、細長い影が混ざりこんだ絵の具のようにぼんやりと映っていた。


「K君は未熟だね」

怜悧な瞳が瞬きながら言った。子猫のように華奢な身体は、依然どこにも見当たらなかった。僕は鈍い目を凝らしながら彼女の口許を探した。胸が締めつけられるように痛んで、堪らなく彼女と接吻がしたくなった。不意に柔らかいものの気配が頬を掠めた気がした。爽やかな柑橘シトラスの香りがした。椎木翠の匂いだった。僕は羊か山羊のように精一杯唇を尖らせて彼女を捕らえようとした。腕は彼女に押さえられていて、まるで翅を捥がれた蝶のように滑稽な無様さだった。何も見えていない筈の椎木が悪魔のようにくすくす笑った。

「愛おしい徒労。もっと、もっと頑張るの」

熱を帯びた豊饒な果実が僕の鼻をまたも掠めた気がした。彼女の狂おしいほどに輝く瞳は、糸で雁字搦めにされた獲物から尚視線を外さずに見張り続ける蜘蛛のような一途な真剣さがあった。僕は錦鯉のように口をぱくぱくさせながら、醜悪な我が身も顧みずにを繰り返した。不意に、暗闇に満月のように泛んでいた彼女の瞳が消失していることに気がついたかと思えば、僕の唇に物凄く柔らかい何かが触れた。僕は悪夢に魘された少年が母親に縋りつくように夢中で甘噛みし、嘗め回した。椎木の唇ではない気がした。とすると――

「こりゃ果実だな」

「ばか。耳朶だよ」

僕らは燃え盛るような頬を擦り寄せて微笑を交わした。椎木の可憐な笑窪が僕の頬の上で踊った。世界の明け方を収斂したように真っ赤な頬を僕らはきっとしていた。僕は明滅する燐寸の緋を想起した。それは若者の炎だ。――断じて、燃え尽きた身体には見られぬ焔だ。僕らは感情を互いに反射した。いや、混淆させたという言葉の方が正しいかもしれない。それはちょうど波紋のように感情の湖面を束の間乱したが、瞬刻の後には、それが生じるよりもずっと静謐な空間が約束されていた。

「僕はきっと君を奪うだろう」

「刃向かえる?未だ子供なのにね」

ぞっとするほどの絢爛を纏った怪物レヴァイアタンは、そう言うと僕とまた頬擦りするのだった。彼女の頬が毀れてしまわないように、僕は静かに呼吸した。

「君こそ子供さ。君の碧い脆弱な果実を僕が知らないとでも思ってるの?」

僕を押さえつける彼女の熱い手が僅かに震えたのを、僕は灼熱の感情の底に滞留する冷ややかに醒めた理性で受け止める。そうだ。君も僕と同じなんだ。同じ境遇でありながら、を夢みる、僕たちは同志だ。

「これは儀式だ。あの人みたいに悦楽に堕ちることもない、高潔で純粋で厳格な遊戯だ。――僕らは上昇する。こうしてモノを考えることのできる理性がある限り、、世界のは起こり得るんだ」

だから不安なんて感じる必要はないんだ、翠。心のなかで彼女に呼び掛けながら、僕は人質が盗賊に抱くような或る種の優しさで彼女の澄んだ瞳を仰いだ。四っつの瞳は蝶のように鮮やかに寡黙の闇を瞬いて、苦しくもどかしい愛情を共有しあっていた。閉じていた瞳がまた開いて、動揺を薙ぎ払い、怜悧さをとり戻したことに僕は安堵する。

「君は冷酷な情熱家だね、翠」

すべてを端麗な装飾品に作り替えてしまうような彼女の瞳が、ふたたび歓びに燦々と輝くのがわかった。熱を帯びた僕と翠の裸体が、冷えた大気の分厚い抱擁のなかで、海月のように厖大に円くなる感覚を僕は識った。翠の瞳のような瑞々しい色彩であれば良いと僕は思った。


 冷酷。


 彼女が纏うそれは、横溢する繊細で脆弱な優しい感情を護るための堅固な城塞だ。僕は彼女の美に傅きながら、その夢のような可憐で清浄な魂を途方もなく愛した。感情が砕け散るまで破壊されそうになって、純白の凍てついた殻ですっぽり覆ってしまわなければと、理性と本能の機構が複雑に連携しあって形成された、悲しい芸術品同士の邂逅は、ほんの偶然から始まった。そして、互いの過去を知らぬ儘に裸体を重ね合わせることになった。なべて人間は過去の告白という行為が好きだ。懺悔という行為が好きだ。悔恨という行為が好きだ。だが果たしてそこに慄然たる悪徳――快楽――は潜んでないだろうか?

 言葉は銀河のように荘厳で偉大な力であるが、告白という行為に転化してしまえば、忽ち駄目になってしまう。行為では罪が赦されるわけでも、罪過が帳消しになるわけでもない。まして犠牲者が慰められることはないだろう。少なくとも僕らは。だから、僕と椎木翠は過去を語らない。理性の殉教者は受難の日々を語らない。けれど言葉を介さなくとも、静謐な交感が何よりも雄弁に互いの遍歴を教えてくれるのだ。偶にあの日々のことを想い出して悄然と吐息を漏らすことがある。不安が津波のように濁流となって押し寄せてくる。そんな時、翠は黙って隣に座って、肩を貸してくれる。自然とそれまで流れることを拒絶していた涙が流れていく。或いは僕も同じことをした。彼女の震えが止むまで、記憶の痛ましい棘が除かれるまで、僕は彼女を抱きしめる。僕はその空間が好きだし、屹度彼女も好きだろうと思う。

 僕は勇気を奮い、眼を閉じて想起する。記憶の断片が少しずつ整理されていくのを見守る彼女は、相変わらず暖かい寂蒔の木洩れ日のような瞳をしていた。


「K。私、貴方のことが大好きなの」

寝室の明かりを消す前に呟くように言った母の口許から、幽かに薄荷の匂いがした。僕は快い微睡みに素直な気分になって、僕も母さんのことが好きだと応えた。暗闇をより深めるような暗く厖大な影は、自分譲りの潤沢な頬や唇に触れながら、

「貴方のとは違うのよ」

と優しく駄々っ子を宥めるように、子守歌でも歌う様に言った。寝室に置かれた飲みさしのコップの結露が、窓から毀れる僅かな光を浴びて螢のようだった。意識が深淵に引き摺りこまれていく鈍い感覚に不安になりながら、前髪を撫でる母の温かな手を想いだして穏やかな気分をとり戻すことを何回か繰り返すと、僕はもう深い眠りに就いているのだった。まるで波間に揺蕩う漁火の明滅のような睡眠が僕は好きだった。彼女の掌はちょうど漣だった。

 身体中がバロックの噴水になったような途轍もない快感に支配されて、心臓をドギマギさせて思わず跳ね起きたのは、それから数日後のことだった。

「あら、今日は早起きね」

蒼ざめて額に汗を流して荒い息を吐く僕の唇に接吻をすると母は微笑した。僕はまっさらな布団を醒めた感覚で眺めながら、自分の危惧してることは起こっていなかったと安堵した。少年はその年になって漏らしてしまったのではと怖れて、巣穴に水を流し込まれた蟻のように跳ね起きたのだった。僕は急に自分の想像が恥ずかしくなって、母と机に置かれていたコップとを交互に眺めては頬を紅潮させた。

「K。どうしたの。頬が林檎のように赤いわ」

僕はぎくりとして母の顔を茫然と眺めた。小さな家の支配者は、すべてを理解していると言うように莞爾にっこりと笑った。彼女の冷徹な瞳が一瞬天井を彷徨ったかと思えば、また僕を捉えて離さなかった。額から脂汗が湧き出て血液のように静かに流れていった。

「今日は記念日だから、Kの好きなものでも食べましょ」

彼女は思いついたように言った。僕はその堪え難い圧力に、この言葉が遥か以前から用意されていた物のように悟って、慄然と彼女を仰いだ。

「記念日?誰の記念日なの。母さん」

「貴方のよ。K。まあ、忘れてしまったのかしら」

母は熔ける砂糖菓子のような緩慢さで僕に近づくと、まるで梟が雪中に獲物を見つけた時のように自然に下降して僕の下半身に触れた。彼女の手は獲物を軽く握った後、悠々と宙に帰還した。途端に僕は羞恥心と恐怖に燃えあがるようになって布団を頭から被った。

「今日から本格的になるわね、おめでとう。Kはお父さんの代りに私の相手が出来るまで成長したのね」

母の声は勝鬨のように空間を圧制した。それは甘美な猛毒の盃となって、いつまでも僕の心臓を痺れさせるのだった。僕は身体の震えが抑えられなくなって、熱く肥大する男根を抑えた。僕は脆弱な子羊のように怯えながら、そっと布団から顔を覗かせた。

 

頬を真っ赤に染めた恍惚たる表情で、凱歌を挙げる小さな女帝は、虚ろな瞳をして厳格に佇んでいた。人間の感じうる最も確かな幸福が、彼女の艶やかな口許から横溢しているように僕は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る