花天月地【第98話 月蝕】

七海ポルカ

第1話


 

合肥がっぴ荀攸じゅんゆうを?」


 注がれた酒を一口飲んですぐに耳に入ってきた名に、賈詡かくは視線を上げた。


「ああ」


 司馬仲達しばちゅうたつの物言いは率直で、しばし今後のことを話すため部屋に来いと言われれば余計な世間話などは一切無く、まず本題から入る。

 気が向けばその他の話題も広げて話したが、勿体ぶるということが司馬懿しばいは無かった。

 

荀彧じゅんいく許都きょとに行き、殿下に拝謁を済ませたと報せが来た」


 賈詡は面白そうに顎を撫でた。


「へーぇ……ようやく荀令君じゅんれいくん曹操そうそうの側を離れる決断を。あいつは見かけによらず頑固だからな。もっと時間は掛かると思っていましたよ。このこと郭嘉かくかには?」

「報せは今日届いたが、まだ話していない。しかし別に隠すような話ではないのでお前から伝えておけ」


「荀彧を使えるとなると格段にやれることが増えるな。主立った戦線は定軍山ていぐんざん合肥がっぴ江陵こうりょうとなるが、荀彧がいれば第四の要所すら作ることも出来そうだ。

 郭嘉を江陵へ差し向ける前にあいつが許都に来て良かった。

 それを念頭に入れて江陵は探らせる。

 荀攸を合肥に向かわせるのは殿下のお考えですか。それとも貴方の?」


「私は助言と提案をするのみだ。全ては殿下が判断を下される」


「なるほど。では郭嘉を護衛無しで江陵に差し向けることも、殿下は許可なさったということですな」


「当然だ。

 ……郭嘉のことだが」


「ええ」


「昨日ここへ奴がやって来て、今後のことを少し話したが。

 奴は今回もお前の副官としてこの地に来たわけだが、存外身軽な役職を気に入ったらしい。自分は家に養わねばならぬ者もいない独り身ゆえ、しばらく役職などいい加減に自由に歩き回りたいと、殿下に頼んでくれと言って来た」


 賈詡は吹き出す。


「これはまた……二人の王に寵愛を受ける天才軍師さんは言うことが違いますね。

 俺なんかいつヘマをしたらなけなしの信頼を失って一気に処刑台に送られるか分からん降将なもんで、今のうちに稼げるだけ稼いでおかないといざ突如罷免された時に食うに困る。だからこうやって昼夜気難しい涼州で働いてるわけだが地位も名声もいらんとは、一度は言ってみたい言葉だ」


「羨ましいか?」

「馬鹿なんじゃないかあいつ」


 笑いながら酒を飲んでしまった。

「前は曹操の側でふんぞり返ったガキだと思ってたが、病を得て随分変わったなあの坊やも。

 もうこの世の何も怖くねえって感じだ。当分無位無冠でいいなんて。

 曹丕そうひ殿下の寵を競い合う貴方には、さぞ手強い相手になるでしょうよ」


「私は左遷されていた所を殿下の温情で中枢に引き戻された身だ。寵など競うか。

 私を重用するも罷免するも全ては殿下がお決めになること。私は誰とも競ってなどいない」


「しかし独り身なんていって、あいつは確かあんたの所の陸佳珠りくかじゅを嫁に貰うようなことを言っていたんじゃなかったかな」


 司馬懿しばいは呆れた顔をする。


「方々でそんなことを喋ってるのかあいつは。曹操の重鎮のくせに後見人もいない女を妻にするなど自慢するようなことか」

「いやあ、その点あんたにだけは郭嘉も言われたくないだろうがな……」

 賈詡は苦笑している。

「許都に戻ったら、俺も一度件の佳珠殿と話をさせていただけませんか」

「何のためにだ」

「いや何のためってことはないがあんたと郭嘉がそうも興味を示すなら並の女じゃないはずだ。一応親しい同僚としてお目通りを願ってどんな女性か知っておきたい」


 陸佳珠りくかじゅといえば、甄宓しんふつに自分の素性を話した陸議りくぎが、そうそう何度も男の姿で曹丕そうひの正妻の部屋を訪ねるわけにも行かないため、甄宓の提案で女に化けただけだったのに、どうも最近方々から会わせてくれだの、嫁に欲しいだの言われて鬱陶しいことになっていた。


「お前は一度陸佳珠りくかじゅにはもう会っているだろう」


 許都きょとで、郭嘉の異母妹が兄の出陣を取りやめてほしいと賈詡に頼みに行った時、確かに会った。賈詡は思い出す。

 しかし郭嘉の異母妹の瑠璃るりが、郭嘉に非常に似ていたことは後々思い返して面白がっていたので覚えているのだが、陸佳珠の顔は少し朧気だ。


 ただこちらも陸伯言りくはくげんと双子の姉弟なので、陸議と似ていた。

 自然と彼を思い出すと弟の方も非凡な容姿の持ち主なので、姉も多分そうなのだろうとは思うのだけれど、一度会っただけの彼女の印象は、涼州遠征でしょっちゅう顔を見かける弟の容貌に記憶は飲まれている。

 彼に似ていたことは覚えているが、細部がどんな女だったかなという感じなのだ。


 ただ司馬仲達しばちゅうたつの側にいるとなると、どういう経緯でそこにいるのかがまず気になるところだが、その中には素性のよく分からない女が、曹丕の腹心で将来を嘱望される青年軍師を籠絡しようとしている、などという類いの噂もあるだけに、どんな強かな女なんだろうかとも思うのだが、陸佳珠の印象はある意味で凡庸だった。


 確かに美しい女だったが際立った悪のはな、という感じはない。


 喋り方も穏やかで無論、聡明な雰囲気はあったが、べらべらと喋るということもなく、訴えに現れた瑠璃るりを支えるように側にいて、あくまでも彼女が自分の言葉で喋れるように支えてやっていた感じだ。


 ああいう黙って従う女は確かに魏の中枢に関わる司馬懿には都合が何かといいのだろうが、郭嘉の話ではてっきりその女に司馬懿が夢中なのかと思ったら、思いの外そこは冷めた関係であるらしい。

 陸議を気に入っているから、その姉もついでに司馬懿が庇護していると郭嘉は言っていたが、賈詡は半信半疑だ。


 しかし、賈詡も現在は当初よりも陸伯言に興味は持っている。


 長い間郭嘉や司馬懿が何故彼をそんなに評価するのだろうかと思っていたのだが、先だっての馬岱ばたいの件で、牢に入れられていた徐庶じょしょを出すよう司馬懿を説き伏せ、共に馬岱追撃に出た所で、これは恐らくだが、元々陸議は徐庶を馬岱と共に逃がすつもりだったのではないかと賈詡は考えているため、自分の落ち度で二人を見失ってしまったと陣に報告に来た時からその一連の、真実を話せば処罰を与えないと逃げ道を用意してやったのにそれを選ばなかった我の強さを初めて見せたことで、少し見方が変わって来ていた。


 確かに陸伯言りくはくげんは見た目通りの大人しい穏やかな人柄だけというわけではないことは分かった。つまり弟の見方が変わったことで、母代わりであるという姉の見方も賈詡の中で変わったのだ。

 

 許都で会った時は話の中心が郭嘉の涼州遠征だったため、賈詡も意識をそっちに引かれていたが、今なら陸佳珠りくかじゅと話すことで、彼女自身の人となりを少なからず探れる自信がある。


「確かに会っていますが、涼州遠征の間に色々と事情は変化したのでね。貴方と郭奉孝かくほうこうに評価される男の姉君だ。一度ゆっくり話してみたくなった。

 安心して下さい、私はどこぞの郭嘉のようにどんな美女が相手だろうと自分の上官の女に横恋慕したりしない。ただ知っておきたいだけですよ」


 賈詡は確かに、さほど強い意志で探りを入れて来てはいない。


 だが同時に少し話してみたい、程度のことならば賈詡は会わせろなどと言わずそれとなく人を使って探りを入れて来るはずだった。

 この男が司馬懿にこんなことを頼んで来ることは、実は非常に珍しかった。


 偽りではないだろう。

 陸議にこの男も興味を持ったから、姉にも興味を向けたのだ。


 ……軍師は埋もれた星を探すものだと、陸伯言は言った。


 それを言うならば、司馬懿は輝くべき星はどんなに埋もれようとしたところで、呼ばれるように輝き出すものだと思っている。


 賈詡が陸議に興味の一端を向けたのは大きい。


 何故ならこの男に陸議は使えると思わせることが出来れば――いざという時に郭嘉を牽制できる可能性があるからだ。

 司馬懿が目下警戒しているのは、戴冠後、曹丕の許に陸議を引き合わせる時のことだった。

 曹丕が陸議の素性を問えば、司馬懿と言えどもはぐらかすことは出来ない。

 しかし司馬懿の右腕のように使っているという認識を持っていれば、曹丕は敢えて対面した時も、素性は公に問わず司馬懿に判断を任せる可能性がある。


 郭嘉が何かを嗅ぎ取って陸議の素性を暴こうとした時に、賈詡をこちらに引き入れておければ、司馬懿と共謀して手を打てる。

 また賈詡がこのまま陸姉弟を訝しんで暴こうとした時、郭嘉をこちらに引き入れておけば、逆に賈詡を押さえることが出来るはずだった。


 郭嘉と賈詡は、そういう力関係にある。


 江陵から戻った後、陸議と郭嘉の関係性がどのようになっているかにもよるが、郭嘉と賈詡は違う思惑を持って行動することが多いので、どちらかを押さえておくのは有益だった。

 

「その話は後だ」


 思惑を巡らせながら、司馬懿は敢えて否定せず流した。

 賈詡が軽く頷いている。


周瑜しゅうゆ亡き後の呉軍総司令についた魯粛ろしゅくという男。お前はどう見る?」

「調べさせた者の話では、行方を掴めないそうですね」

「常に長江ちょうこう周辺域を絶え間なく行動し続けているようだ」


「周瑜が並大抵の軍師では無かった。後任ともなれば、この世の誰であろうと見劣りがする。仮に私が同じ立場だったら、私だって行方を晦ましますよ。

 赤壁せきへきで呉が勝ったからな。負けていたら周瑜から引き継いだ総司令は江陵辺りにドンと座っていなければ軍が総崩れになる。

 なってないということは魯粛が周瑜の後を継ぐことに、異存ある者がさほどいないのでしょう。それなりに支持されている。特に孫権そんけんも強い信頼を置いていると見ていい」


 司馬懿しばいは酒を少し飲んでから、腕を組む。


間諜かんちょうの話では、魯粛は江東こうとう時代からの周瑜の腹心だったようだ。当時寿春じゅしゅん袁術えんじゅつがいたからな。周瑜がいた居巣きょそうに近く、魯粛を東城とうじょうの県長に袁術は任じたらしいが、愚か者ゆえ周瑜と魯粛には忌々しかったはずだ」


「どこの袁家も同じだな」


 賈詡が苦笑する。

 袁紹を見限って曹操の許に仕えた荀彧と郭嘉のことを言っているのだろう。


「まったく、袁紹と袁術が才気のある人間だったら大陸の歴史が大きく変わってた」


「周瑜は孫伯符そんはくふの参謀として認識されているが、魯粛はこの二人の信頼を受けて軍策に関わっていたという。呉蜀同盟が結ばれた時も使者として蜀に赴いたのは魯粛だった」


「元々は何をしていた男なんです?」

あきないだ」


「商い。なるほどね。身が軽いわけだ。元々の生業が商人なら人の群れに紛れること、人を使って移動すること、情報を的確に使う方法、全て熟知しているな。

 周公瑾しゅうこうきんめ、自分の後任に商人を起用して来るとはやはり面白い奴だ。

 生粋の武官のような奴だったらそこまで長江全域に目は行き届かない。

 赤壁せきへき後の混沌とした大陸の勢力図を、魯粛ならば冷静に見極め、要所を見誤らず派兵出来ると見たのだろう。

 なるほど――貴方が合肥がっぴ荀攸じゅんゆうを置きたがる訳が分かった」


夏侯淵かこうえんの参謀として魯粛ろしゅくの動きを監視させる。細心な男だから、呉軍の動きには睨みを利かせるはずだ」


 卓上に広げられた地図を賈詡は眺める。

 少しずつだが、赤壁後の各国の動きが見えて来た。


(合肥に荀攸が着任するなら重みは増す。

 江陵には郭嘉が赴きその動向を探るなら、定軍山ていぐんざんの戦線も今は敢えて刺激を与えない方がいい。主戦派に綻びが見える呉が打って出て来るとは思わんし、当分呉は江陵と合肥の動向、長江域の守備に徹するはず)


 賈詡の視線は成都せいとに向いた。


「司馬懿殿。これはあくまでも私の個人的な依頼と思っていただきたいのですが」

「なんだ?」

「私も今までは涼州出身の降将と、何かと曹魏の涼州戦線では重宝がられて来ましたが、今回の遠征で龐令明ほうれいめいがこちらの陣容に加わる。

 蜀に合流した涼州騎馬隊相手では、恐らく龐徳ほうとくの方が私よりも役立つでしょう。

 奴は涼州騎馬隊や現在の涼州の地理にも精通しているし……。

 合肥に荀攸が入り、江陵に郭嘉が調査に入るなら【定軍山】は今は守りに入る時期と思われます。

 全ては曹丕そうひ殿下の判断となりますが、許しをいただけるなら私は今後は涼州からは手を引きたい。出来れば今後は涼州以外の土地でこの賈文和かぶんかを使って頂けたら光栄です。

 郭嘉が江陵から帰還するまで、少し間があるでしょう」


「恐らくな」


「その間、私もしばらく探索に入りたい。なに、諜報活動は慣れていますから護衛の者は勝手にこっちで用意します。

 ちなみに涼州に入りたての頃、郭嘉が貴方に成都せいとに行ってみたいなどと言って貴方は『馬鹿か』と返したようですが。この場合、私も同じように詰って頂けるのかな?」


 司馬懿は椅子の背もたれに深く身体を預けた。


「あの時はあいつが護衛も付けず数人の手勢で涼州騎馬隊の所在も不明な山岳地帯を南下し成都を見て来たいなどと言ったからだ。――どのくらいの時期を見ている?」


「郭嘉はダラダラとはやらない。ま、雪解けて春になる頃には殿下のご尊顔を拝しに私も長安ちょうあんに戻るようにします」


「構わん。祁山きざん築城は私で十分だ。好きな時期に探索に入れ。殿下には私から報告しておく」


「ありがとうございます」

 賈詡は立ち上がった。

「何か特別見てくるものがあれば、試みますが」

 司馬懿はしばし、考える。

「そうだな……」

 少し間があって、司馬懿は顔を上げた。


「成都に入るなら、孫家の姫の様子を見てこい」


 ふと、賈詡は司馬懿と目を合わせる。

「孫家の……呉蜀同盟が決裂した後も国に返されず人質になっていると聞きましたが」

「処刑を見送られたと聞いたが、今どのような扱いをなされているのか詳しく知りたい」


 孫権の妹である孫黎そんれいは赤壁で呉蜀同盟が決裂した時に成都に連れ戻され、劉備りゅうびの妻から虜囚の身となったと聞いている。

 膠着した戦況下で呉からの強い返還の要求も無く、また蜀の方も今は処刑などの処罰を避けていると賈詡は聞いていた。


 まだ若い姫なのでこのまま蜀に居座って劉備の子を産むようなことがあれば、少々厄介なのだ。

 しかしこの厄介の意味は複雑で、呉蜀が互いに再びの同盟を望まずとも縁が結ばれてしまうことに、扱いにくいところがあった。


 妹が劉備の子の母となれば、劉備から孫権を義弟であろうと言うことは出来るわけだが、孫権が遜って妹の子は劉備の血を継いでいると言うことも出来るわけで、双方がそれを望まない場合、この子供は双方にとって扱いに困る存在になる。


 賈詡の見立てではどちらかというと蜀の方が、利が無い。


 蜀は劉備の人徳で今ようやく形を保ってる部分がある。

 劉備を失えば、必ず後継や将来の在り方で揉めるはずだ。

 元々劉璋りゅうしょうに仕えていた者達は戦を嫌い、善政を求める。

 劉備の腹心達は逆臣曹操を討ちたいと望む。

 蜀に内紛が起これば、片方の勢力が孫家の姫の子を担ぎ出す可能性がある。

 

 孫権は妹を是非にも戻すようにと要求していないようなので、この兄妹仲は存外淡泊だ。

 妹の子とはいえ、成都の者達が内紛にこの子供を利用するなら、自らも大いに利用するだろうと思う。

 しかし蜀がこの子供を内紛の種になるからと呉に戻しても、呉が人質として魏にこの子供を送るようなことがあれば、また蜀としては厄介だった。


 劉備の血を引く子供が曹魏の手に渡れば、この子供を帝が取り立てた場合、何故子供にこのような恩恵を曹操そうそうが許しているのに父親が自分を討とうと画策するのだと劉備を討つ大義名分になりかねない。

 

 この子供は魏と呉すら結ばせる可能性があるため、非常に厄介と見るべきだ。


 その点を考慮するならば、虜囚の上にも虜囚の扱いを受けていなければおかしいことになる。

 以前のように劉備の妻として自由に側で暮らすなどという状況には無いはずだったが、彼女がまだそこにいる理由と未来に勢力図に関わって来る可能性が高いため、司馬懿としては色々と見定めておきたいのだろうと思う。


「承知いたしました。見て参りましょう。

 龐徳ほうとく将軍が涼州に留まるようならば、楽進がくしんをしばらく副官に付けていただきたい。

 歴戦の将軍ですから、側に付けるだけで若い楽進には学びも多いでしょう」


「分かった」


「ありがとうございます。では私は近日中に発つのでこれにて。

 失礼致します」


 一礼し、賈詡は出て行った。



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