テセウスの私

みそ

第1話

長年愛用してきた電気ケトルが壊れた。私が密かに煉獄さんと呼んで慕ってきた、電気ケトルが壊れてしまった。

大学生活をすることを機に一人暮らしを初めた。そのときにお父さんから一式買い揃えてもらった家具の中のひとつが、煉獄さんだった。

いや、煉獄さんと呼び始めたのは鬼滅の映画がバズった五年くらい前からなんだけど、ここは当時からその呼び方をしていたテイでいかせてもらう。だって、電気ケトルと呼んでもなんか味気ないから。煉獄さんと呼んだほうがその温かみや、頼もしさが伝わると思うから。

煉獄さんの生涯は十二年で幕を閉じた。人間年齢で考えるとあまりにも若すぎる悲劇の死だが、電気ケトル年齢で考えると十二年は大往生だ。グーグル先生で調べたら十年も使えればいいんじゃない、って感じのことが書いてあったから間違いない。

我が家の煉獄さんは、宿敵である猗窩座と戦い炭治郎を守ってその生命を散らすことなく、その寿命を全うしてくれた。


大学入学当初の若かった頃には、煉獄さんはカップ麺を食べるときにくらいしか出番がなかった。週に一二回、その滾る炎で湯を沸かしてくれていた。いや、実際には電気の力だけどここは煉獄さんということで炎ということにしておこう。イメージって大事だし。

寒い季節にも煉獄さんは大活躍してくれた。私が越した先は雪国ではないものの冬の寒さが尋常ではなく、最低気温がマイナスを超えることは当たり前な地域だった。そんな環境にあっては毎日温かいものが飲みたくなるのが人情というもの。煉獄さんはその炎を毎日燃やして、私に温かい緑茶やほうじ茶を淹れてくれた。いつでも手軽に必要な量のお湯を沸かしてくれる煉獄さんの頼もしさを、私はこのときようやく理解した。

そして二回生の時に出会った友人の影響で、私はお茶の類にハマった。コーヒー、紅茶、ハーブティーにチャイや柚子茶。暑い季節であっても寝起きや寝る前に飲む温かいお茶が習慣になり、煉獄さんは冬でなくとも毎日活躍するようになった。私が望んだ時にお湯を沸かしてくれる煉獄さんのなんて頼もしいこと。

学生生活の大詰めでは卒論や就活でヘトヘトになった私を、そのぬくもりでどれだけ慰めてくれたことだろうか。

やがて大学を卒業して引っ越すことになり、できるだけ荷物をコンパクトにまとめるためと自分好みの家具で買い揃えたいという欲求から、お父さんに買ってもらった実用性重視の家具の大半を処分した。

ちょっと迷ったけど煉獄さんは新天地へと連れて行った。私でも聞いたことのある有名なメーカーの製品だったし、その頃にはそれなりの愛着も湧いていたし。まだまだ煉獄さんのボディは真っ白で、私も若々しく、希望に満ち溢れていた。


社会人一年目は初めてのことの連続で、気の休まらない日々が過ぎていった。

家に帰り着くと疲れは限界を越えており、寝る前に飲むものはリラックス効果のあるハーブティーという軟弱なものではなくて、度数が高いだけが取り柄の強制的に眠りに付かせてくれるアルコールになった。煉獄さんが活躍するのはカップ麺やインスタントのスープを飲むときだけになった。

なかなか湯を沸かす機会のない日々に、煉獄さんは大層フラストレーションが溜まっていたことだろう。私もそうだった。

毎日仕事を辞めたいと思い、週に一度は死にたいと思っていた。そんなときには煉獄さんの丸っこいボディを撫でて、慰められたものだ。いつか余裕ができたら犬猫を飼いたいなと思いながら我慢したものだ。

社会人三年目になって仕事にも慣れてきたとき、私は当時付き合っていた彼氏と同棲することになった。ちなみに鬼滅の映画が公開されたのもこの年で、ここから電気ケトルは(私の中で)正式に煉獄さんを襲名し、友だちの少ない私のよき相談相手になっていった。

命の炎を燃やし尽くして炭治郎を守った煉獄さんに電気ケトルを重ねるなんてどうかしていると思わなくもなかったけど、私の中で重なってしまったのだからしょうがない。だってオタクはイメージの世界に生きているものだから。

家は(煉獄さんとは似ても似つかない)彼氏の住んでいた2DKに私が越していくことになり、人生で三度目の引っ越しをすることになった。彼氏の家には家具や家電の類が一通り揃っていたから、私が持っていくものは必要最低限のもので済んだ。その時に煉獄さんはどうしようかちょっと考えたけど、よもやのことに彼氏の家には電気ケトルがなかったので一緒にお引越しすることにした。

私、彼氏、煉獄さんの間で三角関係が勃発したらどうしようかとちょって心配ではあった。杞憂だった。

「へえ、電気ケトルって便利だな」

今までヤカンでお湯を沸かすという昭和みたいなことをしていた彼氏は、初めての電気ケトルの利便性に目を輝かせた。そんな姿も私の目に映ると、煉獄さんの侠気に彼氏が惚れ込んでいたように見えていた。

「電気ケトルじゃなくて、煉獄さんね」

「あっ、ああ、そうだったな。ごめんな、煉獄さん」

若干引きつつではあるけど、そういうのを切って捨てないで乗ってくれるところが好きだった。一緒に鬼滅を見に行ってボロ泣きした私が泣き止むのを背中をさすりながら待ってくれたところとかも好きだった。あとは、なんだろ。うん、まあ、そこそこ優しいところとかが好きだった。

けれど大半の男はそうであるように彼氏もお茶の類よりもお酒のほうが好きで、尽くす女の私もそれに合わせてお酒を飲むことが増えた。私もお酒は好きだから苦痛ではなかったが、たまにはちょっといいお茶が飲みたくなる日もあった。自由に使えるお金に余裕がある今なら、学生のころに泣く泣く諦めた高価な豆や茶葉、それにサイフォンやティーポットや素敵なカップの類も揃えられるのにと、ふつふつとお茶欲が湧いてきていた。

でも彼氏は本当にお茶の類に興味のない人だったから、泣く泣く最低限のもので我慢した。

結婚さえしてしまえばこっちのもんだと、思っていた。


彼氏との同棲開始から三年後、社会人六年目。私と彼氏との同棲は幕を閉じた。

「そろそろ三十路になろうっていうのに、電気ケトルを好きなアニメキャラの名前で呼ぶ人はちょっと…」

「馬鹿野郎お前!好きじゃなくて大好きじゃいっ!」

だいぶ温和にまとめると、そんな感じのやり取りの末によもやよもやの同棲解消と相成った。本当はもっと過激な言い争いや、互いの尊厳をすり減らすような喧嘩の日々があったけど、そんなの語ったところでしょうもないのでパス。思い出したくもないし。

人生で四度目の引っ越しは、これまでの引っ越しの中で一番エネルギーが必要だった。絶望に向けてというほどシリアスなものではないが、これまでの引っ越しはまだ新天地への希望があった。でも今回はまるでそんなものがなかった。

だってこのまま結婚するんだろうなあってぼんやり思っていたものが、よもやよもやの三十路を目前にしての放流。彼氏を何らかの罪に問えないものかとグーグル先生やYahoo知恵袋やChatGPTに相談してみたけど、返ってきたのは憐れむような同情と、泣き寝入りするしかないという厳しい現実だった。

必要最低限の家具しかない新居に引っ越してもぬけの殻のようになった私に、同じゼミの同期が一緒に仕事をしないかと声をかけてくれた。

これまでにやってきた仕事のノウハウを活かせるし、待遇も今いる会社よりも良くなる。でもこんなに心が干からびた状態で新天地に踏み出せるか、不安が強かった。

「ねえ煉獄さん、私どうすればいいかな?」

煉獄さんはシュゴオオオォォとお湯を沸かす音と、溢れ出す蒸気の熱で私に答えてくれた。

「そうだね煉獄さん!心を燃やさないとだねっ!」

バチッという完全にお湯が湧いたことを知らせる音で我に返った。

こんな一人芝居をしていなければ、私は彼氏と結婚できていたのかもしれない。まあ今さらどうでもいいか。かもしれないと推測を重ねて臆病になるのなんて、車の運転のときだけでお腹いっぱいだ。

今は新しい仕事に向けて、全集中だ。


それから二年後、新たなる戦いの日々にも慣れてきて、そろそろ趣味を充実させようとほくそ笑む三十路の私。

一緒にお茶を楽しむための大事な相棒にして心の師、煉獄さんが天寿を全うした。

全集中で繁忙期を乗り越えてヘトヘトに疲れて、煉獄さんに甘えるように湯を沸かしてもらってカップ麺を食べた。そしてゆっくりお風呂に入って、湯上がりにラベンダーティーを飲んで快眠しようと企んでいた。それなのに。

「あれっ?」

いつもならスイッチを入れるとカチッと音がして、指に重みを感じられるのにそれがない。スイッチをいくら押しても反応がなく、煉獄さんが全集中でお湯を沸かしてくれている証であるランプが点灯しない。

まるで、いくら呼びかけても反応してくれなくなった、私を私だとわからなくなってしまった、お父さんのように。

水はしっかり入っているし空焚き防止機能が働いているわけではない。コードだってしっかりコンセントに刺さっている。それなのに、どうして。

故障の類なのかグーグル先生に聞いてみて、その結果一番可能性が高そうに思えたものが、寿命だった。

「煉獄さん…」

丸っこいボディをそっと撫でると、まだほのかにあたたかかった。

お父さんに買ってもらったときは真っ白だったけど、一緒に過ごした歳月が積み重なっていくうちに黄ばみを帯びて黒ずんでもきた、その愛しいボディ。

何で拭いても落ちないその色合いは、煉獄さんが私のためにお湯を沸かし続けてきてくれた勲章だ。

私のために働いてきてくれたお父さんの、白髪やシワが増えていったのと同じように、私を守ってきてくれた証だ。

「今まで、ありがとう。ずっとずっと、ありがとう…」

胸に抱きしめるとぽちゃんと水の音がして、涙が溢れてきた。鬼滅の煉獄さんも、電気ケトルの煉獄さんも、お父さんも、ごっちゃになって、いろんな感情が沸騰したお湯のように湧き上がってきて、ただただた涙に変わった。

『老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ』

お父さんがくれた言葉を思い出そうとしたのに、思い出してしまったのは煉獄さんの名言で、親不孝な娘でごめんなさいと思う。

だけど、年老いて、私のことも忘れて、どんどんちっちゃくなっていったお父さんは、確かに儚くて、美しかった。炎に焼かれて、灰と骨だけになっても、涙が流れるくらい、儚くて、美しかった。

煉獄さんは手元に残った最後の、お父さんが私に買ってくれたものだ。今、私の周りにある煉獄さん以外のものはすべて、私が自分で稼いだお金で買ったものだ。

滑らかな曲線を描き、黄ばみや黒ずみが染み付いた煉獄さんのボディはどこか、最後に焼け残ったお父さんの骨に似て、やさしかった。

煉獄さんを手放して、私を囲むすべてのものが私の手で掴み取ったものになったそのとき。私はようやく、子どもから大人へとなれるのだろうか。

体のすべての細胞が入れ替わって、成長して、老いていくみたいに、内側にあるなにかも、変わってゆくのだろうか。

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テセウスの私 みそ @miso1213

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