早川実里は優等生である。
玉村かこ
1.男子生徒1
「ずるい」
聞き間違いだと思った。この状況でそんな言葉を発するだろうか。周囲が屋上を見上げている中、僕はその横顔から目が離せなかった。
その日は一学期期末テストの最終日だった。テスト終了を告げるチャイムで僕たち学生はようやく解放された。テスト監督として教壇に立っていた副担任の「やめ。筆記用具置いて。」の声に、周囲から伸びをするような声が重なる。後ろの席に座るクラスメイトから回されてきた解答用紙を前の生徒に渡す。
前回の定期試験後に行われた席替えから僕の前の席になった男子生徒は、配布物を前から渡す時に後ろを振り向かないたちだ。何かを受け取るときも振り返らないものだから、僕はその男子生徒の肩越しに解答用紙を差し出し、相手の視界に入れ、手に取ってもらう。この渡し方ももう二か月ほど行っている。もう慣れたものだ、と考えながら少し浮かせた腰を椅子に落ち着かせると、なぜ僕がこんなに気を遣わなくてはならないのかと違和感を覚えた。口にはしない。角が立つから。もう高校一年目も半分が終わった。それくらいの分別はつく。
それに、担任の教師は定期試験ごとに席替えをするようである。もうこの慣れた渡し方もすることはなくなりそうだと思ったが、特に感慨はない。
ふと、最後の最後まで悩んでいた選択問題が間違っていたことに気が付いた。教科書のどこに答えが載っていたかまで頭に浮かんでいたのに、この瞬間までその内容は靄がかかったように思い出せなかった。反対に今となっては、その部分をどうやって教師が授業していたかさえ再現できそうだ。
どうしてこういうことってぎりぎりで思い出すのだろう。まだ全くわからないのであれば諦めがつくというのに。
ともあれ、これで夏休みまで、あと一週間を残すのみとなった。金曜日の今日はこの後授業も予定されていないし、来週は授業のほとんどがテスト返却に充てられるため楽なものだ。このあと図書委員の仕事で二時間ほど拘束されるが、どうせ早く帰っても本を読むだけであるし、ほとんど利用者のいない図書室で本を読むのと何も変わらない。
委員を決める際、担任教師が長時間拘束される可能性を示唆したこの委員は敬遠されていたことを思い出す。僕たちがこの高校の勝手のわからない入学したてであったこともよくなかった。僕が手をあげて立候補するとみんな安堵したような空気になったことを覚えている。所属しようとしていた文芸部は来たいときに来ればよいというスタンスであるようであったし、読書か勉強くらいしかやることのない僕にとって、拘束時間が長いだけの図書委員はむしろ好都合であった。
蓋を開けてみれば、隔週金曜日の放課後、二時間ほど図書室に拘束されるだけという内容で拍子抜けしたのだが、その時点ではクラスメイト全員が知らなかったので仕方がない。来年からは希望者が増えるかもしれない。他の委員会の仕事内容を知らないために何とも言えないが。
もう一人、じゃんけんで負けて不承不承といった具合で図書委員へと配属になった僕の相方である女子生徒は、当番三回目から来なくなった。初めの方は「用事があって」と教室で断りの言葉が伝えられていたが、最近はそれもなくなってきている。とはいっても、ほとんど決まった利用者しかいない本校の図書室では仕事量も少なく、一人であることに不都合を感じたことはなかった。
ただ一つ、夏休みにも当番があることは予想外であったけれど。
今日の本返却数は0冊であった。普段から返却数一桁であることがざらにあるため、テスト期間直後の今日、返却する生徒がいないことは想定の範囲内である。テスト期間終了を心待ちにしていたのか、それとも夏休みに入るからか、貸出手続きを求める利用者の数はやや多かった。それでも、貸出カウンターに列ができるほどではなく、時折利用者が来る程度である。更に、そのほとんどが今までの委員活動中に図書室で見たことのある生徒であり、互いに勝手知ったるやり取りだ。普段と違うのは、返却期限が夏休み明けの一週間までであることを伝えるくらいである。それもカウンターに置かれた紙を示しながら行うため、滞りない。普段貸出期限は二週間であるのだが、返却期限が夏休み中に重なる場合は全てこの対応になるらしい。想定外の出来事はなかった。
また、返却本がないということは、それらを本棚に戻す作業がないということである。場合によっては新着の本の装填など、突発的な仕事が生じることもある委員活動だが、今日はそれもない。いつも以上に仕事の少ない二時間を読書で過ごし、職員会議を終えた司書の先生から帰宅の許可をもらう。
この人は僕が一人でカウンターにいる様子を毎回見ているはずであるが、関心がないのか、干渉するつもりがないのか、もう僕の相方について問われたことはない。思い返してみれば、中学時代の司書の先生の名前が出てこない。平均以上に図書室へ通っていた僕ですらこうであるのだから、司書の先生というのは、積極的に生徒に関わらない存在なのかもしれない。いや、他のクラスの図書委員も一人でやっている場面を見かけたことがあるから、問題視していないのだろうか。わざわざ指摘しなくても、こうして図書委員の活動は回っているのだから。
読んだことのない作家で自分に合うかわからないまま購入したが、今回の本はあたりだった。まだ三割ほど残して読み終えていないものの、帰りに同じ作者の本を何冊か買って帰ろうか、などと考えながら正面玄関に向かって歩く。
一年生カラーである緑色の上履きから外履きに履き替えて外に出ると、夏の日差しが肌を差した。廊下も暑かったが、外はより一層暑い。セミの鳴き声を抜きにしても、冬に比べて夏の方が騒がしく感じるのは何故だろう。これを夏のざわめきとでもいうのかもしれない。
それにしても、何だか外が騒々しい。目線を向けると、校舎を沿うようにして人だかりができていた。僕は普段イベント事に参加することはほとんどない性分だ。しかし、参加せずともどんなイベント事が行われているのかは気になるものである。これが野次馬精神というのだろうか。
考えなしにそちらへ近づいていくと、皆が上の方へ視線を向けていることで気が付いた。屋上に人がいる。それも落下防止柵の外側に。
「もうこんな世界もう嫌だ!死んでやる!」
その女子生徒は人だかりに向かって大声で叫んでいた。この学校では上履きの色で学年を判断することが多いのだが、ここからでは見て取れない。同級生かどうかもわからないが、少なくとも、僕には見たことのない顔だった。屋上の彼女を見ながら歩いていると、野次馬たちのすぐ後ろまで来てしまっていた。運動部の練習着が多いことに気が付き、元々屋外にいた生徒が徐々に集まっているのだとわかる。
「私なんていらないんだ!もう死ぬから!」
僕の前の方、地上から誰かが大声で返事をしている。曰く「そんなことない。みんなあなたのこと好きだよ。危ないから一度柵の内側に戻って。」少しの間、屋上の女子生徒の叫びと地上からの声を聞いていたが、結局何が言いたいのかはわからなかった。とにかく「自分は誰にも必要とされていないから死にたい」らしい。こんな場面に遭遇することがあるのだなとあまり現実的に感じられず、ただ三階建ての屋上からで落ちて死ねるのかな、うちの学校って屋上に入れたのか、などと考えていたとき、隣から聞こえてきた。
「ずるい」
目線を向ける。二つ上の先輩、早川実里の姿があった。僕がここへ来たときには気が付かなかったから、僕よりも後に来たのだろう。
聞き間違いだと思った。この状況で「ずるい」などというだろうか。しかもあの早川実里が。聞き違えであることを確認したくて、どんなことを考えているのかと、彼女の横顔から視線が離せずにいた。
「あっ、早川さん!私たち屋上行くから、早川さんも一緒に来て!」
前方から女子生徒が慌てた様子でやってきた。玄関へ向かう途中で早川実里を見つけたためにちょうどよいといった具合である。彼女は言われるがままに手を引かれ、正面玄関に向かっていく。その瞬間にも屋上からは結局何が言いたいのかわからない女子生徒の叫びと地上とのやり取りが聞こえていたが、僕は早川実里の行方を目線で追いながら、あの横顔が何を考えていたのかだけに思考が持っていかれていた。
その後、状況の変化は随分と早く起こった。屋上の女子生徒が後ろを向き、誰かと一言二言やり取りをしたかと思えば、先ほどまで僕の隣にいた早川実里に支えながら柵の内側へ戻っていく。屋上での会話の内容はここからは聞き取れなかったけれど、おそらく話をしたのも早川実里であろう。
屋上の彼女が柵の内側に戻ったのを見とどけると、集まっていた生徒たちは安心感からか歓声と拍手を上げた。その後、ややあって僕を含めた野次馬たちはまばらに解散となった。
僕は予定通り今日読んだ本と同じ作者の文庫を二冊買って家に帰った。
夜、早川実里の言葉がやけに引っかかっていた。
「ずるい」
これがただ、誰に伝えるわけでなく不意に出てしまったものであるならば。
あのとき彼女はどのような思いで屋上を見ていたのだろう。
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