あなたを思い出す恋の歌

青いひつじ

第1話


どこからか流れてきたピアノの音に、私はグラスを傾ける止めた。

カウンターでたそがれていた客も、女を口説く酔っ払いも、甘ったるいムードの恋人たちも、みなの視線が一箇所に集まった。

奏でていたのは、猫背気味で、上下白色のパジャマのような服装の青年だった。時々微笑みながら、頭を揺らし軽快に演奏を続けた。しかし、その表情はどこか寂しげでもあった。


「マスター、今日は珍しいね」


『えぇ。彼は一ヶ月前に突然やってきたんです。5分だけでいいから毎晩ここで演奏させてくれないかって。そこまでいうならと一曲弾いてもらったところ、なかなかの腕前でね。あのグランドピアノも随分と長い間ホコリをかぶっていましたから、ちょうどいいと思いまして。なんでも、趣味で曲を作っているそうですよ』


「へぇ。趣味でここまで弾けたらたいしたもんだ」


『そうですね。音楽プロダクションからちらほら声もかかっているとか』


「若くて才能があるなんて、素晴らしいね」


女に夢中の酔っ払いを除いて、客はみな彼の甘い音色と歌声に酔いしれた。私もそのひとりである。ぴったり5分の演奏を終え立ち上がる彼に品のある拍手が送られた。

この店に集うのは、一流企業の役員から政界の人間まで、世間ではエリートと呼ばれる人たちばかりである。生まれた時からある程度質の高いものに触れ、一流大学を卒業し、一流企業に就職する。

そんな店の真ん中で自作曲を演奏しろと言われれば、誰だって緊張するだろう。きっと並大抵の覚悟ではないのだと考え、私は演奏後の彼に声をかけた。


「いやぁ。素晴らしい演奏だったよ。君、名前はなんと言うんだい」


『ありがとうございます。僕はソラといいます。趣味でピアノを弾いていまして‥‥』


「あぁ、先ほどマスターから聞いたよ。趣味だけで終わらすにはもったいない才能だ。それに君の音楽には言葉では表現できない不思議な魅力がある」


『魅力‥‥ですか?』


「悲しい歌詞なのにリズムは明るくて、そのアンバランスな感じに私はたまらなく惹かれたよ」


『あぁ‥‥ありがとう、ございます。実は‥‥』


彼は視線を落とすと、別れた恋人のことを話し始めた。


『僕には、優しくて愛らしい恋人がいたんです。それはもう、僕にはもったいないくらいで、神様からのプレゼントだと思ったほどでした。でも、半年前に別れました。彼女が海外に引っ越すことになったんです。僕は、必ず成功して迎えに行くと約束し、彼女の背中を押しました。悔いはありません。本当です。ところが、今でも彼女のことが頭から離れず、どうしても涙が止まらないのです。夢でもいいから会えたら、なんて。この曲は、そんな情けない僕のことを書いた曲なのです』


その瞳にはうっすらと光が浮かんでいた。私は、彼の純粋な心になんと声をかけたらいいか分からなかった。

困っている私に気づき笑ってみせた彼に「応援しているよ」と手をとった。





彼との出会いからずいぶんと時は流れた。

あの夜以降、彼と出会したのは2回だけであった。彼は突然姿を消してしまった。

マスターの話によると、ある音楽プロダクションと契約し、アーティストとして活動を始めたらしい。彼はあの甘い歌声に加えて、なかなかのルックスだ。あれでピアノも弾けて、純粋な好青年とくれば有名になり人気が出るのも時間の問題であろう。擦れずに、あのままの彼でいてほしいと願うばかりだ。


私はというと、会社の役員に就任し、それなりに多忙な日々を送っている。

今日は金曜日。目的地のない会議を朝から晩まで走り続けた。さすがに疲れる。こんな夜はひとりでいたい。それか、静かな場所で溶けていく氷を眺め、時に人間観察しながら、マスターとたわいもない会話をするのがいい。会社を出るとネクタイを少しだけ緩め、私は久しぶりにバーへと足を運んだ。


カウンターの奥から3番目が私の定位置である。少し早い時間に来たせいか、席はほとんど空いていた。カウンターには私と、ふたつ隣に女性がひとり。



『お元気でしたか』


「えぇ、ここのところ忙しくて。いつもの、お願いします」


『はい』


少しして差し出されたグラス。きれいな丸い氷が透き通る茶色に浮かぶのをしばらく眺めていた。ふと隣の彼女に目を向けると、彼女は小さく息を吐き、肩を落とした。


「何かあったのですか?」


『え?』


「あ、突然声をかけてしまいすみません。なにか落ち込まれているようだったので」


『あぁ、たいしたことではないのです。‥‥前からライブに行きたいと思っていたアーティストがいたのですが、最近すごい人気みたいでチケットが全然取れなくて。‥‥これはもう神様から行くなと言われてるんですかね』


彼女は悲しそうに笑った。


「なんというアーティストの方ですか」


『彼はノーネームで活動しているんです。顔も名前も全て非公開で、話し声すら公開されていくて‥‥。変な話なんですが、なんとなく彼を知っているような感じがするのです。彼の音楽を聴くと懐かしく、切なくなってきて、涙が流れて、大好きな人のことを思い出すんです。‥‥やっと戻って来れたから、またどこかで会えたら、なんて。ずいぶんと都合がいいんですけど‥‥』


そう言うと、流れる小さな雫を拭った。


『でも、未練がましく追いかけるのは今日で最後にしようと思います。もうやめなさいって、そう言われている気がするので』



彼女はグラスのカクテルを飲み干すと、財布を取り出し会計を済ませ、『話を聞いてくださって、ありがとうございました』と足早に店を後にした。


私は視線を前に戻し、黄金色に薄まったグラスを眺めた。持ち上げるとグラスの氷がカランときれいな音をたてた。

静かな店内には、マスターの氷を削る音だけが小さく響いていた。



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