飛騨山脈異聞録

@RyojinY

霞沢岳異聞録

第1話 上高地

朝の上高地は、観光地らしい明るさで満ちていた。

河童橋には浴衣姿の観光客や家族連れが群がり、同じ角度で写真を撮っている。

バスターミナルでは人の声とザックのこすれる音が混ざり合っていた。


その端に、僕ら四人が立っていた。


ウサギは腕時計をちらりと見て、いきなり前へ飛び出した。ランナー特有の軽い足取りで、森の方へ吸い込まれていく。

「ちょっと速いよ!」

スズメが声を上げる。いや、声というよりピーピーと鳴いているようだった。本人は必死なのに、どこか小鳥めいて聞こえる。


オヤカタは落ち着いた調子で肩のベルトを締め直し、「焦らなくていい」と短く言った。その声が、これから始まる長い道の合図のように響いた。

カメラは足元に落ちた影を覗き込み、ファインダーを構えてシャッターを切る。四人の影が木道に重なり合っていた。写真に写ると、影は現実よりもきれいに整って見えた。


河童橋を過ぎると、靴底が砂利を踏む音がやけに大きく響いた。観光客の笑い声は後ろに遠ざかり、代わりに川の音と鳥の声が混じった。音の種類は増えたのに、全体の音量は下がっていく。不思議な静けさだった。


道端に古い案内板が立っていた。「徳本峠」と記されている。

オヤカタは足を止め、「ここは昔、上高地へ入る唯一の道だった」と説明した。

僕はその声を聞きながら、欄干に貼りついた紙切れを拾った。白く破れた断片に、数字が二つ並んでいる。5と5。

ただのゴミかもしれない。けれど僕はそれをポケットに入れた。なぜか捨てられなかった。


やがて最初の丸太橋が現れた。

ウサギは軽快に駆け抜け、オヤカタは落ち着いて渡った。

スズメは手前で立ち止まり、肩をすくめて「いやぁーー」と鳴いた。

「大丈夫、足を置く場所はある」オヤカタが声をかける。

彼女は顔をしかめながら、一歩、二歩、三歩と進み、最後にかすかに笑った。


明神が近づくころ、観光客の姿は消え、鳥の声だけが増えた。

森の奥で、足音が重く響く。

僕らは四人のはずだった。

だが、砂利道に返ってくる音は、五つあった。

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