第2話 ナギ

「河部さんって、川が似合いますね」


 佐藤がそう言ったのは、三度目の昼休みを一緒に過ごした帰り道だった。

 冗談めかして笑っていたけれど、僕は少しだけ胸が熱くなった。


「名前が“河部”だからね。川に呼ばれてるのかも」


「じゃあ、猫は“川辺の番人”ってとこですかね」


 僕たちは笑いながら会社へ戻った。 その日、仕事は相変わらず忙しかったけれど、心の奥に静かな流れがあった。


 数日後、猫はベンチの下で丸くなっていた。

 僕はそっと隣に座り、ツナパンをちぎって差し出した。

 猫はゆっくり顔を上げ、僕の手からパンを食べた。


「君には名前、あるのかな」


 猫は答えない。

 でも、ふとした瞬間、僕の中に言葉が浮かんだ。


「…“ナギ”ってどうかな。風が止まって、水面が静かになる時の名前」


 猫は目を細めて、僕の膝に前足を乗せた。

 それが肯定なのか、ただの気まぐれなのかはわからない。

 でも、その午後、僕は初めて猫に名前を呼びかけた。


「ナギ、また来るよ」


それから、佐藤にもその名前を伝えた。


「ナギか…いいですね。静かで、優しい響きだ」


 昼休みの川辺は、少しずつ変わっていった。

 僕と佐藤だけでなく、通りすがりの人が猫にパンを差し出したり、写真を撮ったり。

 誰もが、ほんの少しだけ立ち止まって、静けさに触れていた。


 河部聡という名前が、川辺で生まれ変わっていくような気がした。

 仕事に追われる日々の中でも、僕には「ナギ」と過ごす午後がある。 それがあるだけで、少しだけ優しくなれる。




「最近、河部さん、雰囲気変わりましたよね」


 会議の後、後輩の田島がぽつりとそう言った。


「前より、なんか…話しかけやすいっていうか」


 僕は少し驚いた。

 自分では何も変わっていないつもりだったけれど、ナギとの時間が、知らず知らずのうちに僕の表情や声の調子を変えていたのかもしれない。


 昼休み、佐藤と田島を連れて、川辺へ向かった。

 ナギは草むらの奥で丸くなっていたけれど、僕たちの気配に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。


「ナギ、今日は新しい人が来たよ」


 田島は少し緊張しながら、パンを差し出した。

 ナギは警戒するでもなく、自然にそれを受け取った。


「…すごいですね。なんか、見透かされてるみたい」


「そうだね。ナギは、言葉じゃなくて空気で人を見てる気がする」


 三人でベンチに座り、川の音を聞きながらパンを分け合った。

 仕事の話もしたけれど、それは愚痴ではなく、ただの「共有」だった。

 誰かに話すことで、少しだけ軽くなる。 そんな感覚を、僕は久しぶりに思い出していた。


 その日、会社に戻る途中で田島が言った。


「河部さん、こういう時間って、もっと必要ですよね。  仕事ばっかりで、心が乾いてた気がします」


僕はうなずいた。

 ナギとの時間が、僕だけじゃなく、誰かの心にも静かな波を起こしている。それがうれしかった。


 その夜、僕は初めて自分の机に「昼休み:川辺」と書いたメモを貼った。

 誰かがそれを見て、少しでも気になってくれたらいい。

 そして、ナギに会いに来てくれたら――それだけで、十分だ。


「河部、お前、最近昼休みにいないこと多いな。サボってるんじゃないだろうな」


 部長の言葉は冗談交じりだったけれど、僕の胸には少し刺さった。

 昼休みに川へ行くことが、誰かにとっては『逃げ』に見えるのかもしれない。

 でも、僕にとっては、あの時間があるからこそ、仕事に向き合えている。


 その日、ナギはベンチの上で丸くなっていた。

 僕は隣に座り、パンをちぎりながら、ぽつりとつぶやいた。


「このままでいいのかな、って思うことがあるんだ」


 ナギは目を細めて、風の音に耳を澄ませているようだった。

 僕は続けた。


「数字ばかり追いかけて、誰かの評価ばかり気にして…  でも、君とここにいると、もっと大事なものがある気がするんだ」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあったもやが少し晴れた。

 僕は、ただ疲れていたんじゃない。

 何かを見失っていたんだ。


 数日後、僕は会社の人事部に異動希望を出した。 営業の最前線ではなく、人の話を聞き、働き方を支える側へ。

 それは大きな決断だったけれど、ナギとの時間が背中を押してくれた。


 佐藤は驚いていたけれど、すぐに笑って言った。


「河部さんらしいですね。川の流れに逆らわず、でもちゃんと進んでる」


 異動が決まった日、僕はナギに報告した。


「少しだけ、流れを変えてみるよ。君のおかげで、見えたんだ」


 ナギは何も言わない。でも、その沈黙が、僕には十分だった。



 人事部の仕事は、営業とはまるで違った。

 数字よりも、言葉。 結果よりも、過程。 誰かの悩みや迷いに耳を傾けることが、僕の新しい役割だった。


 最初は戸惑った。

 相談に来る社員の言葉に、どう返せばいいのかわからないことも多かった。

 でも、僕は気づいた。

 ナギと過ごした川辺の午後が、すでに僕に「聞く力」をくれていたことに。


 誰かが黙っているとき、無理に言葉を引き出さなくてもいい。

 ただ隣にいて、静けさを共有するだけで、心は少しずつほどけていく。 それを、僕はナギから教わっていた。


 昼休みには、変わらず川へ通った。

 ナギは相変わらず気まぐれで、いる日もいない日もある。

 でも、ベンチに座って川の音を聞くだけで、僕の中の芯が整っていく気がした。


 ある日、相談に来た若い社員がぽつりとつぶやいた。


「河部さんって、なんか…話しやすいですね。  言葉にしなくても、わかってくれる気がする」


 僕は笑って答えた。


「それ、猫に教わったんだよ。川辺で、静かに座ってるだけの猫にね」


 その言葉に、彼は不思議そうな顔をしたけれど、少しだけ笑った。


 ナギは、何も語らない。

 でも、僕の中には、あの午後の静けさがずっと流れている。

 それが、誰かの心に届くなら――僕は、今の仕事を選んでよかったと思える。

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