恋のキューピッドは恋愛を知らない

ふたわぐさ

プロローグ ショートボブ


 あー。

 彼女のハンドクリームのキャップにこびりついた固形物を人肌で溶かして使ってみたいなあ。

 彼女は自動販売機で買った飲み物を何口で飲み終わることが多いのか、統計を取ってみたいなあ。

 彼女は指に付いたお菓子の粉をめるのか、それともティッシュで拭き取るのか、どっちなんだろうなあ――。


 ⭐︎

 

 高校生活8日目。

 提出した書類に不備があって呼び出された帰りの廊下で、ひとりの女の子に行く手を阻まれた。


「あの、前木まえき君。訊きたいことがあるんだけど、いいかな……?」


 真剣な表情の彼女を俺は知っている。

 男子たちの親睦の深め方はいたってシンプルであり低俗だ。開口一番「このクラスで誰がかわいいと思う?」なんてニヤニヤ顔で話し掛ければ、すぐに砕けた表情を伝播でんぱさせられる。

 もちろん俺も仲間はずれにはなるまいと品のない輪に参加してはみたが、高校生活に慣れることで精一杯だったがゆえに、相づちを打つだけの澄まし顔しかできなかった。

 ただ、そのときに名前が挙がった女の子をなんとなく覚えておくことはできた。

 つまり、目の前にいる活力が風貌からあふれ出ていて、いかにも運動部っぽい彼女がそのうちのひとり、羽白告美はしろつぐみである。

 肩に届かない長さでそろえられた髪は、おそらく高い金を払ってお願いした美容師の手によって、抜け感のある女子高生らしい可憐かれんさが演出されている。

 そしてなにより印象的なのは、眼輪筋の動きだけで感情の変化を顕著に表してしまうほどの大きな目元だ。

 これに見つめられたら、勘違いをする男子は容易に生まれるであろう。

 ちなみに胸に関してはそこそこ。でもこれは俺の評価じゃない。

 一部の男子が「あれで胸がもっと大きければ」などと、とても本人には聞かせられない願望を漏らしていたのを思い出しただけだ。

 そんな、よくも悪くも話に花を咲かせるだけの容姿を持った羽白さんが、わざわざえない俺に会いに来たわけで、おまけにすれ違う人をチラチラと気にするようすを見せている。

 ――これはただごとじゃない。


「いいけど……場所変える?」


 職員室の近くとだけあって、行き交いの激しい廊下のど真ん中は会話には不向きである。

 羽白さんは素直に首を縦に振った。

 

「じゃあ、こっち行こっ」


 早足で先導する彼女に連れられた場所は、大学のパンフレットだったり、受験に関する資料がずらっと並べられたスペースだった。今の時期に立ち寄る人はまずいないだろう。

 いざ人気ひとけのない場所で向き合ってみると、クラスメイトとはいえ、関係値は皆無に等しいので結構気まずい。

 どうやら羽白さんも切り出し方に迷っているようだ。

 俺は助け舟を出すつもりでふと湧いた小さな疑問をぶつけてみる。


「……羽白さん。なんで俺の名前覚えてるの?」

「え、そんなの同じクラスなんだから普通覚えるでしょ。それに覚えやすい名前だし」


 さも当然のことのように答えた羽白さんは、一拍置いてから目を細める。


「そっちだって私の名前覚えてるじゃん」


 あ、まっず。

 羽白さんの名前を覚えた経緯なんて正直に言えるわけがない。


「いやそれは、たまたまで……」

「私だってたまたまだよ」


 彼女の表情はどんどん険しくなっていく。それがただただ怖い。

 俺なんかにアイスブレイクは10年早かった。とっとと本題に入ろう。

 あと男女が隠れて「たまたま」を言い合うのもあまりよくないし。


「そ、それで羽白さん。訊きたいことってなに」

「あーごめん。そうだよね」


 彼女の唇が小さな円を描き、ゆっくりとかわいらしい表情に戻っていった。

 

「前木君さ、B組の影近かげちか君と仲いいでしょ。昨日廊下で話してたし」

「え……?」


 予想だにしない問いに一瞬思考が止まる。

 入学式の日に昇降口で張り出されたクラス分けを見たときの薄い記憶が正しければ、B組の影近はひとりしかいないはず。

 となれば、彼女が言っているのは、小学校の登校班が一緒だったことがきっかけでよく遊ぶようになった、あの影近元臣かげちかもとおみで間違いない。

 でもなんで羽白さんがそんなことを気にするんだ?


「まあ小学生のとき、よく遊んでたよ。中学は別々だけど」


 包み隠さず求めていそうなことだけ答える。

 

「ふーん。そうなんだ、そっかそっか」


 なぜかはわからないが、俺の教えたわずかな情報は存分に彼女の頬を緩ませた。

 いくら顔がかわいいからって気味が悪い。

 羽白さんはそこから深呼吸を1回し、緩んだ口元をキュッと引き締めた。


「……あのね、誰にも言わないでほしいんだけどね……私、その、影近君のことが好きなの」


 伏し目のまましてきた告白。もっとも俺の頭では到底理解できない。

 たしかに影近は昔からモテる。根っからのサッカー男子で運動神経がいいし、顔だってシュッとしていてカッコいい。おまけに今は身長も高い。

 ただ、なぜそれを俺に言ってきたんだ? 別に俺を倒さなくても影近は攻略しに行けるぞ。


「えーっと……話がぜんぜん見えないんだけど」

「だからね、私の恋愛に、その、前木君が協力してくれないかなって……」

「は? 協力!? なんで俺が」

「え、ダメかな」

「うんダメ。めんどくさい」


 そもそも人とお付き合いをしたことがない俺にとって、その大役はあまりにも荷が重すぎる。

 セールで安くなっていた恋愛シミュレーションゲームを多少たしなんだ程度の戦力だぞ。

 最悪の場合、めちゃくちゃにかき回したせいでその恋は散り、話を聞いた羽白さんの友だちからいじめられる可能性だってある。


「そこをなんとか!」

「無理だって。そもそもなんで俺なんだよ。影近と仲いいヤツなんてたぶんいっぱいいるぞ」

「だって、ほかの人には返せるものがないから……」

「俺にはあるってこと……?」

「うん」


 彼女の顔は変わらず真剣で、とてもその場限りの嘘をついているとは思えない。

 でも俺に返せるものってなんだ……?

 お菓子とかジュースとかだったら、たとえクラスの男子から人気を得ている相手だろうと怒るぞ。


「今日の昼休み――」


 礼物がなんなのか確かめようとする前に、先に羽白さんの口が開いていた。


「前木君、なにしてた?」


 ん? 急になんだ?


「普通に弁当ってたけど」

「そうじゃなくて、そのあと。廊下の窓の辺りにひとりでいたよね」


 それは明らかに答えを知っていて、最後のピースをあえて俺の指にくくりつけるような問い掛け。

 

「……窓の外の景色を眺めてただけだよ」

「じゃあ昨日CALL教室から帰るとき、急に振り返ったのはなんで?」

「……覚えてない。そんなことしたっけ」

「したよ! 私そのとき真後ろにいたんだよ。だからね、わかっちゃったの。今日の昼休みも、昨日の移動教室の帰りも、前木君、おんなじ先輩のこと見てたよね」


 なんかお腹痛くなってきたな。

 かなうことなら、すぐにでも羽白さんの口がポロッと取れてほしい。ホラーが苦手な俺でも今なら許容できる。

 しかし、そんな心の内の願いは届くはずもなく、彼女の白い歯が見えた。


「好きなの? はるちゃんのこと」


 春ちゃん!? た、たしかに俺は2年のニノ久保にのくぼはる先輩のことをずっと想っている。けど、春ちゃんってなんだ。まさか知り合いなのか? だとしたらまずい。

 とりあえず、ここは黙秘権を行使しよう。


「なんか言ってよ。ちなみに私、春ちゃんと同じ中学で同じ部活だったんだよ」

「……だからなんだよ」

「協力してくれないなら、気持ち悪いニヤつき顔で見てたこと、春ちゃんにチクろっかなあ」

「うわっ性格わる」


 つい後先考えずに暴言がポロッと出てしまった。でもこの女が全面的に悪い。

 

「なんとでも言えばいいよ、悪魔でもブスでも。その代わり、協力はしてもらうけどね」

「いやいや断られたら即脅迫って、切羽詰まりすぎだろ。どうせ返せるものがあるってのも嘘なんだろ」

「嘘じゃないよ! ……もう察し悪いなあ。もし前木君が承諾してくれたら、前木君の恋愛は私が手伝うよって言いたかったの」


 なるほど、そうきたか。まあうまい話ではある。


「……ちょっと考えさせて」

「え、そのシンキングタイム必要? 前木君にとって嬉しい提案じゃないの?」

「それはそうなんだけど。その、羽白さんのことがまだ信用できないというか……」

「あーーそゆことね。そうだよね」


 羽白さんはその場でくるっと半回転した。


「はあ、めんどくさ。じゃあ一生のぞきやっとけよ」

「おい、聞こえてんぞ」


 ぼそっと悪口を言った彼女はすぐに向き直る。

 

「聞こえるように言ったのっ!」

「……ならなんで1回背を向けたんだよ」


 なんかだんだん化けの皮が剥がれてきたな。

 滞る今の状況に苛立いらだちを隠せないのか、羽白さんは自分の側頭部に手を当て、髪をくしゃくしゃさせる。


「もおー! じゃあなにすればいいのー。土下座とか? 絶対やだね」


 待て待て。まだなにも言ってないぞ。


「そもそも協力なんかいるのか?」

「なに、恋愛は自分の力でやれとか言う思想強めの人?」

「いやそうじゃなくて、その、羽白さん、か、かわいいしさ、中学のときとか彼氏できたことあるだろ……」


 「かわいい」あたりから、ごにょごにょと話してしまい、なおのこと恥ずかしくなる。

 おそるおそる羽白さんの反応をうかがってみると、キモがられる予想と反してきょとんとした顔になっていた。


「へ? え、今なんて言った?」

「いや……」

「かわいいって言った? 言ったよね!」


 抜け落ちてしまいそうなくらい目を見開いた彼女は、グッと1歩近づき、顔を寄せてくる。

 さすがに澄まし顔ではやり過ごせない距離だ。

 

「言った言った! 言ったから、少し離れてっ!」


 俺は顔の前で咄嗟とっさに両手を広げて防波堤をつくると、興奮気味の羽白さんはハッとした表情とともに後退していった。

 すげえ肌綺麗きれいだったな……。


「そっかそっかー。私もついに同級生から、かわいいと思われるようになったのかー」


 ンフフと鼻を鳴らす羽白さんは、涙袋をぷくっと膨らませる。

 

「じゃあなに、私の名前をノートの端に書いたり消したりとかしてる感じ? かわいいなあもう」

「してねえよ。そんなに自信があるんなら、なおさら俺いらないだろ」

「それはいるって!」

「なんでだよ!」

「だって私、恋愛経験ないもん」


 は? その顔で恋愛経験がない!? もしやこいつ、理想高めか?

 

「でも今までモテはしただろ?」

「ううん。1回も告白されなかったよ」


 すると、なぜかこのタイミングで彼女はスマホをいじりだし、指を数回スライドさせたあと、画面を見せてきた。


「見て、ちょうど2年前の私」


 それはテーマパークと思わしき場所でふたりの女の子が仲よさげにポーズをとっている写真。

 ひとりはまったく知らない顔。だとすると、隣で笑っているのが羽白さんってことになる。

 ただ、その人は風呂上がりのドライヤーがたったの1分で終わりそうな長さの短髪少女だった。


「え、これが羽白さん?」

「そうだよ。めちゃくちゃ短いでしょ」


 そう言いながらまたスマホの画面を動かして、ほかの写真も見せてくれる。

 

「このときは髪なんて部活の邪魔としか思ってなかったの。ほんと、どうかしてた」

「別に変ではないと思うけど。ボーイッシュって感じで……」

「いいよ、無理に褒めなくても……」


 羽白さんはため息をつき、スマホをブレザーのポケットにしまう。


「まあこれで恋愛経験がない理由がわかったでしょ。あーでもやっとかわいいって言ってもらえたなあ。努力自慢する気はないけどさ、いろいろがんばったんだよ」

「そ、そうなんだ」


 どう反応すればいいかまったくわからないので、とりあえず毒にも薬にもならなそうな言葉を返す。

 おそらく口ぶりからして、変わったのは髪の毛の長さだけではないらしい。


「あ、そうだ。見てこれ」


 俺のおざなりな返事には気にもしていない彼女は再びスマホの画面をこちらに向けてきた。

 うーーわ! かわいっ!

 そこには俺が愛してやまないニノ久保先輩の姿があった。

 バスケのユニフォーム。汗で束になった前髪。かすかに赤く染まった頬。そして、くしゃっとした笑顔。

 体育館にしてはやたら多くの人が写っていることから、部活の大会かなにかで勝ったあとに撮られた写真だと推測できる。

 ああ、もし俺の倫理観終わっていたら、今すぐにでも羽白さんのスマホを奪って、校外まで逃走しただろうに。

 自分の誠実さが憎い。


「……贅沢ぜいたくは言いません。その写真ください」

「え、やだよ。勝手に送るのはマナー違反だし」


 ちっ、こいつおいしそうなスイーツを買ったら、あげるつもりもないのに見せびらかしてくるタイプか……くだらん。


「でもまあ、協力してくれるんなら、今まで春ちゃんと撮った写真を見せてあげることはできるよ。どうする?」


 ぐぬぬ、やりおる。

 かなりの交渉上手であられたか。


「べ、別に学校行けば見れるし……」

「クリスマスパーティーのときのなんかサンタコスだよ、かわいいよお」


 サンタコスぅ!?

 そ、それって、かわいらしさとエロさをフィフティフィフティでブレンドしたあの伝説の赤と白のコスチュームのことか!?

 ミニスカートで生脚をさらして、腕も出して、物によっては胸の谷間とかおへそまで剥き出し――なのにエロすぎない。

 いや待てよ。ニノ久保先輩だったら露出に抵抗があって、ひとりだけプレゼントを届ける気のあるサンタコスを選んでいそう。

 まあどっちにしてもどうせかわいいんだ。見せてもらったときのお楽しみにしよう!

 俺はなるべく失礼のないよう背筋を正し、紳士な声を出すための準備としてせき払いし、そして――


「羽白さん」

「はい、なんでしょうか」

「これから一緒にがんばろうな」


 それを受けた彼女は笑顔で言った。

 

「きっしょ」


 ……お前が釣った魚だからな、それ。

 

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