殺害価値

@yunin

第1話

 卵が先か鶏が先か。私はこの哲学的疑問を思い出した。必要なのだ。私の恐怖を鎮めるために。友人の自殺は私を哲学者のような深い考えに陥りさせた。この話題、要は魂が先で体が後か、体が先で魂が後かそういう話だ。これになんの意味があるだろうと皆考える。察するに、魂に肉付けされ、魂に相応しい体へと仕上がるか、体に魂が運命的な出会いをするかなのかもしれない。簡単に言えば意味の無い問い。考える必要のない悩みの種である。しかし現代少し価値を見出す視点が現れた。それが自分殺害者。それが心と体どちらが真に大切か、そういう見方だ。まずは文化大革命真っ盛り、この時期中国では知識人は「反革命分子」や「ブルジョワ」として批判された。主に教授や作家等が自分の意識や心を守るために自害した。例えば老舎(ラオ・シェ)は紅衛兵に公開批判と屈辱を受けて自害へと至った。老舎がどうか私にはわからないが、彼等は磨き上げた知識や自分を構成する全てを死装束とした。今度は1960年代から80年のソビエト連邦の精神病棟収容の話をしよう。そこでは反体制的な行動を緩徐進行性統合失調症と診断し、精神病等へと収監された。精神病等のかなりの割合が政治犯だと推定される。この診断は「真実を求める闘争」「改革への妄想」などが症状とされた。この2つは全て頭がおかしいのだということだ。妄想を繰り返し現実へと行動する不審者として狂気ということだった。投獄の後自殺したと報告されていた。心はどこにあるだろうか。頭や脳が心の別名だろうか。心が壊れたのだろうか。私はこう言うだろう。「まだ心までは犯されていない」と。けれどそこでは心が病の元だろう。どれだけ論理的な行動をしようが。

 今現代、まだ前から人間の自殺はあった。何のために? 苦しい今から逃げ出すため? 怖い苦しい待ち受ける明日を遠ざけるために? その全て、苦痛を受けるのは体ではないかもしれない。結果的に受けたのは体なのだが、皆心を守るために必死なのだ。プライドなんてとうに禿げ、丸裸になった心を守る唯一の味方に凶器はなった。心を守れるのは魂がある自分だけだった。体なんてもういらないからと脱ぎ捨てたのだ。一見喉に詰まった「どうかしてる」は聞けば聞くほど、見れば見るほど正当だった。友人だと思っていた。首を宙に投げた友人は心では、頑張りでは、どうにもならないほどだった。今更「どうして」も、「なぜ」もなかった。私がかけていい言葉など「よく頑張った」だけであった。

 ここでは、今だけは全てが無意味に映る。過去も、死も生きる意味さえも。その上で生者は無意味なことをしたがるのだ。死者への手向けをしてみたり、たらればを口にする。何か声をかけてみる。すごく贅沢だと思わないか? 許しておくれ。口なしってやつだ。私は君を思い出しておきたい。

「なんで君は私を頼ってくれなかったんだ」涙を含みつつも枯れ上がった声が掠れていた。

 思い出せなかったのかもしれない、私のことが。死が魅力的すぎる。恒常的な絶望において。死が身近でない状況はあまりにも死へと手を伸ばしたくなる。伸ばした君に問いたい。「すっぱかったかい? それとも苦かったかい?」声にならなかった。聞けそうになかった。逃げた先が地獄であって欲しいなど言えない。けれど死ななければ何かあったと信じたい。私は宙吊りの君を抱きしめていた。酷い悪臭に顔を擦り付けぐちゃっとした感覚を腕をじわじわ侵食していた。

 私は友人からようやく手を離すと警察へ連絡をした。

「友人がコンセントで首を吊って亡くなっているのを発見したんですが。日数はちょっと経ってると思います」警察への声はハキハキとはいかずとも喋れていた。友人の死は私をロマンチックにした。魔法が解けたかのように、私は足に力が入らず尻餅をついた。ようやく現実味が帯びてきた。腕には黄ばんだ油のような汁が滲んでいた。私は気合を入れて立ち上がった。見回すと友人の部屋は散乱していた。コンビニの弁当のゴミ、空き缶が散らかっている。服はほとんど部屋になかった。長いこと私服を出していないのかもしれない。台所には水っけひとつなかった。

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