試合当日 14:45 探偵松本の嘆き
第四審判がアディショナルタイムを示すボードを持ってセンターラインの手前まで歩く様子を目の端に捉えながら、バックスタンドの芝生を踏みしめた。隣には依頼人が手にコーラのペットボトルをぶら下げて歩いている。話しかけ難い緊張感を感じているのは私の気分の問題だろうか。
あと三歩という距離でもう一人の依頼人はこちらを向いた。彼は器用にも一瞬のうちに驚き、苦虫を噛み、そして笑って見せた。
「報酬はいくら払えば良いのかな?」
私に異常な報酬を提示した依頼人は、静かに問いかけてからまたピッチに視線を戻した。ここに遥が居てこのチームには負ける理由もなくなったのに、あと五分で何かが起こると思っているのだろうか。だがピッチに向ける視線の穏やかさは負けを望んでいる様には見えない。一体何を考えているのだという気持ちも込めて、彼の問いに答える。
「誰を犯人と言うのかによるけど、一千万」
ボトリと音が隣から聞こえてコーラが緩やかな芝生の斜面を転がった。驚きすぎじゃないか。その金額はこのブラコンが考える遥の価値だ。遥は自分を周囲がどう思っているかもっと考えたほうが良い。それを語るべき人間が語っていないという問題もあると思うが。
依頼人である遥の兄貴の隣に並んで私もピッチを眺める。いつの間にか雲の無くなった空は青く、けれど晩秋の風は未だ止んでいない。私にユニフォームを渡したあのサポーターは半袖で拳を振り上げ、太鼓を叩いている。話を聞いた時と同じ様にピッチ全体に視線を走らせながら。
隣に立った遥の兄貴の視線はピッチをゆっくりと動き土肥を追っている。高校時代に潰した筈の土肥が楽しそうにボール蹴ってるのがそんなに不満か?あのサポーターくらいに視野が広ければ、この兄弟はもっと違う所、この兄貴が望む所に居られたのではないかと思う。
「その金額を請求するってことは、犯人も確保してきたわけだね?」
「昨晩、遥と一緒に居たのは可愛らしい女性でしたよ。その女性を犯人と言うべきか、相変わらず女に弱いコイツの責任と言うべきかは悩ましい話ですが」
こちらを向かないままに尋ねられる言葉は平坦で、その声からも感情や思考を読めない。真相をどれくらい知っているのか、察しているのか。
ピッチ内ではヤケクソの様な相手のミドルを古川がパンチングで防いだ。転がったコーラを拾ってから私の隣に立った遥がそれを見て口をへの字に曲げた。まぁ、あれはキャッチしてほしいよな。
「女性だからとかじゃなくて、具合の悪い人を助けるのは当然でしょう」
横から抗議の言葉を述べた遥の手元から、プシュッと音がした。いや、転がってすぐのコーラを開けるなって。ほら吹き出してる。誰だ、遥のことを視野が広くて気遣いが凄いって評価したのは。
「あぁ、そう言えば、練習中に倒れたサポーターを助けた事があるんだよね?練習を放って」
ふと思い出したサポーターの話を言葉にすれば、遥の兄貴はビュンと首を回して遥を見て驚いた顔をした後、遥の手元を見てピシリと固まった。これはどこから話すべきだろうか?
ピッチの中ではコーナーキックを古川が今度はちゃんとキャッチしていた。まぁ、それでも危なっかしいよな。試合勘とか経験がプレーの質に重要だとよくわかる光景だ。
「練習中の話は置いといて、犯人どう判断します?昨晩からさっきまで看病の依頼って名目で遥を拘束してた女性を犯人と見做すなら連れてきますよ」
「具合の悪い女性を助けてた、か。遥は監禁されていた訳じゃなく、頼まれたのを断れなかっただけなのだから、そこは遥の自己責任だな。だが、脅迫状の犯人ってのがいるだろう?そっちは解ったのか?」
私が話しかければ、再び視線をピッチへと向けた。私や遥の顔をまともに見れないのか。この人は一体何を考えているのだろう。リードしてアディショナルタイムに入ったのに攻撃を緩めないチームに穏やかな視線を向けているけれど、それはどんな心境なんだろうか。
遥は私の影から自分の兄貴の顔をじっと眺めている。遥の方も何を考えているのか読めない。この静かな兄弟喧嘩は一体いつから始まっていたのか。
「この事件を順を追って整理しましょうか。要因はもっと古い事かもしれませんが、私が把握している事の起こりは昨日の昼です。練習後に遥は土肥から『相談したい事がある』昼食に誘われた。そして、大西さんの定食屋に行ったそうです」
風が吹き同時にホイッスルが響く。スタジアム全体に大きな歓声が湧いた。歓声に釣られてピッチに目を向ければ死力を尽くした選手たちが仰向けに倒れている。スタンドには立ち上がってガッツポーズをしている人が何人も見えた。
遥の兄貴は未だピッチに視線を向けたままだ。少しは遥の顔を見てやってくれないだろうか。試合も終わったし、この無駄な兄弟喧嘩も終わらせて欲しい。
「定食屋で土肥は八年前の事を話したそうです。遥の方が気にしすぎだと。それから遥に『女性には気をつけろ』と言ったそうです。そして二人で店を出た所で女性が蹲っていて遥に助けを求めたそうです」
「見ず知らずの女性を昨日の昼からずっと看病してたのか?俺のラインも無視して?」
遥の兄貴が覗き込むように遥の顔を見て言った。相も変わらず何を考えているか解らない無表情で。遥曰く兄貴の喜怒哀楽は分かりやすいらしいが、私が初めて会った時にはもう無表情な人だったと思う。
「見ず知らずじゃなかったからね。チームメイトの妹が道端で震えてたら助けてあげて当然でしょ?俺の部屋になんで松本の名刺があったと思う?兄さん。俺もいつまでも何も知らない馬鹿じゃないよ」
遥の言葉に、ハッとしたように目を見開いて、口元がヒクヒクと震えだした。ようやく、弟が全てを悟っていることに気づいたのだろう。その震えが怒りなのか恐怖なのか、それ以外の感情なのか私には分からない。
けれど遥にはやっぱり解ったのだろう。困ったようにヘラリと笑いながらおそるおそるとコーラのペットボトルの蓋を開けて、グイッと一口飲んだ。
「昔は、兄さんと一緒によく飲んだよね。何年ぶりかなぁ」
その声は、いつもよりも少しだけ幼い気がした。スタジアム内は歓声に包まれていて、遥のチームメイト達がゴール前でラインダンスをしている。あの歓喜に満ちた光景を見ながら、話すような事ではないと思いながら私は遥の兄に向き合った。
「井上さん。チームに脅迫状を送り、遥にハニートラップで一晩の足止めを仕掛けた犯人の事、遥はとっくに知ってましたよ。一月前に貴方が古川美晴さんに会いに行ったあの日からその計画を知っていたんですよ」
遥が振り向いてピッチに背を向け手すりにもたれ掛かった。遥が見上げる空は雲一つなく清々しい青色で、遥の横顔もどこかこの空のようなさっぱりとした印象に見える。後は兄弟で解決してほしくて、私はピッチの方を向いたまま、遥に語るのを任せた。
「このチームは良いチームだったよ。真剣に楽しくサッカーができた。昇格っていう目標もあった。多少のモチベーションの違いはあっても、それぞれに上手くなりたくて練習をしてたし、俺はそんなチームで役に立ててて充実した日々だったよ」
午前中にも聞いていたけど、全部過去形で語る言葉にその決意が現れている。いつもよりも明るくて軽いトーンで話しているけど、兄弟ならそれでも気持ちは伝わるものなのだろうか。そう言えば遥は昔から声に感情が出ないタイプだったか。
「お前は、こんな田舎のアマチュアチームで燻っている様な選手じゃないだろう?こんな所で充実感を感じてる場合じゃないだろう?」
「兄さんが俺のために色々してくれたのは感謝してる。でもね、それは俺が本当に望んでいたことだったと思う? ストイックに体を鍛え、栄養をコントロールされた食事…もちろん、プロを目指すなら必要なことかもしれない。でも、俺はもうそんな事は興味なかったんだよ」
ピッチを挟んだ向こう側のスタンド、ちょうど真ん中辺りにいる彼女に左手を振って、出番なしの合図を送る。この拗らせ兄弟の冷戦に巻き込まれて、災難だったとも言えるけど、彼女ももっと自分の兄を信じてやれば良かったのにとも思う。
一つしかないポジションを争う選手の家族というのは、チームメイトを罠にはめてでも試合に出したいのだろうか。古川はそんな事は望んでなかったと遥に謝罪を繰り返していたが、彼女は兄の気持ちをきちんと聞けるだろうか。
私の合図に気づいた女性がペコリと頭を下げて、スタンドの最前列に駆け下りていく。彼女の前で背番号二十一番が立ち止まった。その表情は見えないけれど、今くらいは素直に喜んでいていて欲しい。
私が対岸の兄妹を観ている間、こちらの兄弟は沈黙していた。遥の告白はこのブラコンにとって言葉を失う程の衝撃だったのだろう。沈黙に耐えかねたのか遥が柵から背中を離して歩いた。
「兄さんは案外と女々しいよね。いつまでもあんな昔のこと引きずって。俺に対するそれは罪悪感?あの面倒な食事の用意は贖罪のつもり?兄さんが、俺を上のチームに行かせたいって気持ちは兄さんの夢であって、俺の夢じゃないんだ。それに、こんなことをしてまで…もう、疲れたんだ。昔みたいに、好きなものを好きなだけ食べる生活に戻りたい」
遥が言う昔の事はどれの事だろう。高校に入学した直後にライバルキーパーだった土肥に仕掛けた嫌がらせの事か。いや、この言い方なら高校卒業時の進路に口を出した事のほうか。案外と海外移籍を勧めた時の事を指しているかもしれない。
「兄さん。俺、サッカー辞めるよ。このチームは俺がいなくても戦えるチームだって証明された。俺が居ない方が伸び伸びしてる奴もいる。後輩が育ったのも見れたし、俺は十分役割を果たしたと思うんだ」
「このチームでの役割を果たしたとしても、もっとお前の力を必要としてる、お前の能力を発揮できる、お前に相応しいチームを探せば良いじゃないか」
「もう疲れたんだよ。兄さんの夢に付き合うの。それに、俺やりたいこと見つけたんだよ」
「やりたい事ってなんだ?」
「俺、探偵になろうと思う。松本、助手からでいいから、雇ってくれ」
はるか?何も聞いてないぞ?いや、そこのブラコン兄貴も、睨んでないで言葉にして止めてくれよ。
ゴールキーパー誘拐事件 徳﨑文音 @tokuzaki_2309
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