trottage/浮き彫りにする

 3月も下旬になり、だいぶ穏やかで温かな気候になってきた。今日は土曜日だから、聡一郎と朔夜くんは佳乃さんのところに泊まりに行っている。だからオレはひとりでのんびり過ごしていた。


 明日は確か、19時ごろには帰ると言っていたっけ。そんなことを思いながら、レトルトのシチューを食べていたときだ。玄関のチャイムが鳴った。


 あたりまえだけれど、俊平くんはいない。朔夜くんたちがいないから、こんな時間にくるはずもない。時計を見ると17時をすこし過ぎているところだ。もちろん聡一郎たちが戻ってきたわけでもないだろう。仮に聡一郎だったとしても、俊平くんだったとしても、玄関の鍵を持っているのだから、出なくても構わない。


 とすると、来客か宅配便の可能性が高い。宅配便なら不在表を置いていくだろうし、来客だったとしても当の聡一郎はいないのだから、オレが出る必要はない。そう考えながらシチューをもう一口頬張り、すこし硬めのジャガイモを咀嚼していたら、またチャイムが鳴った。


 いつもは来客にも俊平くんが対応してくれるのに、残念なことに今日はいない。面倒くさいし、ごはん中だから知らないふりをしようと、またシチューを頬張る。2,3度チャイムを鳴らしても出なければ帰るだろう。そう思っていたが、少しの間を置いて、またチャイムが鳴った。


 えらくしつこく食い下がってくるものだ。もしかしてなにかの勧誘とかだろうか? 新聞とか、宗教とか、保険とかだったら余計でも面倒くさい。このまま知らないふりを決め込むのが得策だ。


 そうは思ったけれど、もし大事なことだったらいけないなと思って、オレはお茶を数口飲んだ後、渋々玄関に赴いた。


 ほんの数センチ開くか開かないかくらいの隙間を空けて、外の様子を見る。そこにはスーツを着た男の人が立っていた。


 片倉さんじゃないかと思ってどきりとした。でも片倉さんほど大きくない。オレは恐る恐る玄関のドアを少しだけ開いて、外にいる人物を観察していた。


「あの、園山さんはご在宅ですか?」


 オレがなにも言わないからだろう。どこか遠慮がちにその人が声を掛けてきた。


「る、留守です」


 早口でに言って、玄関のドアを閉める。そうしたら、外から慌てたような声がした。


「あ、あの、すみません。園山さんに渡して頂きたいものがあるんです」


 そう言われて、オレはまた渋々ドアを開けた。


 その人はどこかホッとしたように笑って、オレに封筒を差し出してきた。


「帰ってこられたら渡してください。檜木からといえば、分かると思います」


「‥‥はい」


 オレがあまり不審そうにじろじろ眺めるからだろう。檜木と名乗った男の人は苦笑を漏らした。


「園山さんから、『自分がいなかったら、家にいるのに渡しておいてくれ』と」


 やや戸惑ったように、檜木さん。聡一郎よりも背が低いうえに線が細いからか、どことなく頼りなさそうに見える。


「えっと、妹さん、ですか?」


 檜木さんの言葉に、オレは思わずムッとした。


「幼馴染です。書類は渡しておくので。失礼します」


 一息でそう言い切って、オレはやや乱暴にドアを閉めた。


 オレが聡一郎の妹だって? どこをどう見たらそう見えるんだ。だったらもっと背も高いし、堂々としているだろう。事実、聡一郎のお姉さんの美華(よしか)さんは背も高いし、顔だちも性格もはっきりしている。オレは背も低いし、童顔だからか、女性に間違われないほうが少ない。だからそのあたりは半ば諦めているけれど、聡一郎の妹と言われたことはなんとなく腹立たしい。聡一郎も、うちに誰がいるのかをあの人に説明するくらいのことをしておけばいいのにと心の中でぼやきながらリビングに戻って、封筒をテーブルの上に置いた。


 まったく、失礼極まりない。


 ぶつぶつ文句を言いながら、オレは聡一郎に『会社の人が書類持ってきた』とだけメールを打って、オレの気持ちとは対称的に、冷めてしまったシチューを頬張った。


 20時を過ぎた頃、朔夜くんが帰って来た。それも引率してきたのは俊平くんでも、聡一郎でもなく、知耀さんだった。


 今日は佳乃さんのところに泊まるものだとばかり思っていたのに。


 オレの――基、朔夜くんのベッドに座って、不満そうに唇を噛んでいる朔夜くんを横目に、オレは濡れた髪をそのままに、隣に腰を下ろした。


「どうかしたの?」


 そう訊ねると、朔夜くんは俯いたまま、ぶんぶんと首を横に振った。


 ドアのほうに視線をやると、困ったような顔をした知耀さんがいる。小声で『聡一郎とケンカしたの』と言って、肩を竦めた。


 昨日はあれだけ『ママのところにお泊り』ってはしゃいでいたのに。


 知耀さんがここにいるということは、聡一郎の仕事が忙しいわけではなさそうだ。


 聡一郎が怒るなんて、本当に珍しい。オレは朔夜くんにどうしたのかと訊ねもせず、濡れた髪を熊手クリップでまとめて、ブランケットを羽織った。


「知耀さん、帰ってもいいよ。オレがなんとかする」


 知耀さんに近付いて、小声でいう。知耀さんは意外そうな顔をした。


「珍しいわね、『厄介ごとを押し付けて』って怒るかと思ったのに」


「‥‥不満はあるよ。でも、聡一郎が怒るなんて、タダゴトじゃないのかと思って」


 そういうと、知耀さんが苦笑を漏らした。


「そうね、じゃあお言葉に甘えるわ」


 頼むわねと添えて、知耀さんが階段を降りていく。その後ろ姿を見送って、オレはベッドまで戻った。


 そしてオレがベッドに腰を下ろしたときだ。朔夜くんが大きな目に涙をいっぱいに浮かべて、オレに抱きついてきた。


「パパはママが嫌いなんだ」


 朔夜くんが、涙声で言った。


 随分一方的な見解だなと思う。愚痴とも、4歳故の率直な感想とも取れるものだ。


 佳乃さんと一緒に寝るとごねて強制送還を食らったか、それとも佳乃さんの具合が悪いのかは解らない。けれどこれは恐らく後者だろう。聡一郎のことだから『佳乃の隣に寝るのは俺だ』って頑として譲らなかった可能性も無きにしも非ずだけれど、過保護で親ばかの聡一郎が一緒に帰ってこないというのはありえないからだ。


 知耀さんと一緒に朔夜くんが帰って来たのも、佳乃さんのところに行ったのに朔夜くんが不機嫌なのも、きっとそうだ。


 それにしても、と思う。オレは聡一郎ほど家族を大事に慈しむ人はいないと思っているけれど、朔夜くんにとっては違うらしい。


 この状況が“あたりまえ”になっていると、それにすら疑問を抱くものなんだなと、4歳児にさえ皮肉を言いたくなる気持ちを飲み込んだ。


「朔夜くんは聡一郎のこと嫌いなの?」


 答えはわかっているのに、敢えて聞いてみた。


 ファミリードラマにありがちな薄っぺらいセリフを自分が使うはめになるとは思わなくて、顔の奥で苦笑する。


「だって、すごく怒るんだもん」


「ママのこと?」


 そう訊ねると、朔夜くんは大きく頷いて、顔を上げた。


「なおちゃんからも説得してよ。ママだって“早く帰りたい”って言ってたんだよ。だから言ったのに、――」


 そこまで言って、朔夜くんが言葉を飲み込んだ。


 たぶん、聡一郎にすごく怒られたのは初めてだったんだろう。


 きっと月曜日は、幼稚園に行かないだのごはん食べないだのごねるに違いない。月曜は出張で忙しいとぼやいていた聡一郎のメンタルに追い打ちを掛けるだろうからとわざわざ助け舟を出したけれど、それが間違いだったと後悔しても遅い。オレがよかれと思って動くと貧乏くじを引くはめになるらしい。


 めんどくさいなと思いながら朔夜くんの話に耳を傾ける。


「ママのことになると怒るんだ。暖かくなったらお泊りができるって言ったのは、病院の先生なんだよ」


 唇を尖らせながら、朔夜くんが言った。


 朔夜くんは佳乃さんの病気が悪化したときのことを知らない。まだ2歳になったばかりくらいだったから、覚えていないだろう。聡一郎のことだから、“余命”を4歳児に話しても理解できないだろうと、言っていないはずだ。


 いまでこそ症状は落ち着いているし、手術も成功して退院の方向に話が向かっているらしいけれど、去年くらいはそれはもう大変だった――と、話には聞いている。もちろんオレは仕事の合間を縫って朔夜くんのお守りをさせられたし、休日に朔夜くんを預かる事だって度々あった。


 「なおちゃんもそう思うでしょ?」と同意を求めてくる朔夜くんを一瞥して、オレは読みかけの小説を開いた。


 こどもというのは残酷だと思う。もしもオレが聡一郎の立場だったら、このストレートな発言は受け止めきれない。ついうっかり口を滑らせて、4歳児にしてアンビバレンスを抱えさせることになったかもしれない。『外泊はダメだ』と一蹴できる神経が素晴らしいと思う。知耀さんでさえ思わず動揺した歯切れの良さが、4歳児に『パパはママが嫌いなのかもしれない』という有り得ないことを想起させる原因になったわけだけれど。


「聡一郎を責めちゃだめだよ」


 小説を読みながら、朔夜くんに声をかける。朔夜くんはなにも言わなかったけれど、全身で『どうして?』と言っているように見えた。


「‥‥パパはわからずやなんだ」


「じゃあ、聡一郎は朔夜くんが分からず屋だと思っているかもしれないね」


「パパ、そう思ってるかな?」


「どうかな」


 朔夜くんの目にまた涙が滲むのが見えた。


「佳乃さんが早く帰りたいのも、聡一郎と朔夜くんが早く帰ってきて欲しいって思う気持ちも、両方分かるよ。


 だけどまだ寒いし、風邪ひいちゃったら入院がもっと延びるかも知れないし――って、聡一郎はいろんなこと考えてると思う」


「でもパパ、今日はお泊りもさせてくれなかった」


 まるでごねるように、朔夜くん。週に一度の楽しみを奪われたら、それも怒られて、まるで追い返されるようにして帰ってきたら、こんなふうに機嫌を損ねてしまうのは仕方がないと思う。


 聡一郎がそのあたりの加減をせず怒ったということは、やはり佳乃さんの体調が原因なんだろう。


「聡一郎はね、たぶん、早く佳乃さんをこの家に戻してあげたいって思っていると思うよ。ここは佳乃さんたちと一緒に住みたいからって建てた家だもの。そう思わないはずがないよ」


「‥‥あんなに怒ったのに?」


「それはたぶん、朔夜くんの聞き分けが悪かったからだと思う。


 佳乃さんが元気だったら、聡一郎も病院に泊まっていいって言っただろうし、家へのお泊りも許してくれたんじゃないかな」


「‥‥ほんと?」


「だって聡一郎は、佳乃さんのことも、朔夜くんのことも、大好きだもん。だからお仕事がんばってるんだよ。佳乃さんの病気がはやく治って、この家に帰ってこられるように」


 そう言ったら、朔夜くんは眉を下げて、寂しそうに頷いた。


 4歳ながらにわかっているのか、それとも納得がいかないのか。オレは別に朔夜くんの扱いに慣れているわけじゃないから、朔夜くんのこの表情がなにを物語っているのかが、よく解らなかった。


「聡一郎は佳乃さんと朔夜くんのためを思って、お仕事がんばってるでしょ? じゃあ、朔夜くんは? 朔夜くんは、なにをしたらいいと思う?」


 朔夜くんは眉間に寄せていた皺を緩めて、うーんと少し考える仕草をした。


 ふたりなりにいろいろ考えているのは分かる。佳乃さんがぽつりと言ったセリフでこんなケンカが繰り広げられているとは思いもしないだろうなと想像して、苦笑した。


 佳乃さんのことだ。『兄弟ゲンカみたいね』と笑って済ませてしまうかもしれない。


 佳乃さんの天然さと懐の深さは、周りに天然天然と言い続けられたオレでも呆れる節がある。なんせ“あの”聡一郎をここまでホレさせる人なんだから。


「おれは、ママが風邪ひかないようにする」


「そうだね。じゃあ、暖かくなるまで待てる?」


「待てる!」


 言って、朔夜くんが目を細めた。


 いままでこんなやりとりをしたことがあまりないから、なんだかむず痒い。朔夜くんの髪を撫でてまた小説に目を落とす。


 朔夜くんが嬉しそうになにかを話しているのをなんとなく聞いていると、玄関から物音がした。瞬間、朔夜くんがぱあっと笑顔を咲かせて、ベッドから飛び降りた。


 ドアをはり開けたかと思うと、そのままの勢いで階段から降りていく。なんて現金なんだと苦笑を漏らして、オレは朔夜くんが開けっ放しにして行ったドアを閉めた。


 きっと聡一郎が帰って来たんだろう。4歳児だからと言っても朔夜くんは侮れない。自分がワガママを言って聡一郎を怒らせたことを知っているから、さっきあんな顔をしていたんだろう。


 子どもの成長は著しいななんてしみじみ思いながら、オレは読みかけの小説に目を落とした。


 ふと時計を見たら、23時を回っていた。そろそろ眠たくなってきたなと小説を閉じたときだ。部屋のドアがノックされた。


 ノックした主はわかっている。聡一郎だ。オレがなにも言わないのにドアが開いたのを横目に見て、わざとらしく溜め息を吐いた。


「なんの用?」


 『いまから寝るんだけど』と、そでつき毛布を脱ぎながら。聡一郎は苦笑しながらオレに近づいてきて、ベッドの足元に腰を下ろした。


「ナオがいて助かったなーと思って」


「‥‥は?」


 訳が解らないという風に言い返す。敢えて、『オレはなにもしていない』アピールをしてみたけれど、聡一郎はオレが朔夜くんになにかを言ったことをお見通しだったらしい。


「帰った途端朔が謝ってきたよ。今日のことをフォローしてくれたんだろ?」


「4歳児とおんなし土台で怒る人をフォローする必要はないよね、大人げない」


 そう言ってやると、聡一郎は困ったように笑って、頭を掻いた。


「悪かったね、大人げなくて」


「そう思ってるなら朔夜くんに謝ればいいのに。どんな言い方をしたかは知らないけど、しょげる通り越して泣いてたよ」


「それはもう知耀に散々言われたよ。言い方考えてやれとか、いろいろ」


 そう言った聡一郎はうんざりしたような顔をしていた。本当に知耀さんから言われたんだろう。オレはその言葉に『ふうん』とだけ返して、ベッドに横になった。


「子どもってよくわからない生き物だな。へんなところだけ大人なんだ。アレだけ聞き分けなかったってのに、『ママが風邪ひいちゃったらパパが悲しむから、先生がいいって言うまで待つ』‥‥だとさ。ナオ、一体どうやって諭したんだよ?」


「べつに。事実をありのままに言っただけ」


「‥‥あ、そう」


 不満げな顔で、聡一郎。特別なことはなにも言っていない。子どもは話せば分かる。聡一郎が筋を徹して話してあげなかったからじゃないか。そう心の中でぼやいて、足元に座っていたら邪魔だと言わんばかりに聡一郎を蹴ると、『蹴るな』と苦笑しながらどいてくれた。


「そういえば、なにを読んでるんだ?」


 言われて、サイドテーブルに置いた本を一瞥する。


 聡一郎はこれでもかなりの読書家で、1ヶ月に20冊は本を読んでいるらしい。恋愛小説以外ならなんでもこいだと言っていた。


「“贖罪”って本」


「ショクザイ?」


「事故で恋人をなくした主人公が、恋人を水槽の中に入れてずっと鑑賞しているんだ。理科室にあるホルマリン漬けみたいな感じで。


 今日は少し表情が曇っているとか、今日は嬉しそうに笑っているとか。恋人は死んでいるんだから、本当は表情が変わるなんて有り得ないんだけどね。


 でも主人公には、日によって恋人の表情とか、懐いている感情が違うように見えるんだ。


 その恋人の観察から始まって、観察に終わる。その間に主人公の心が痛いほど伝わってくる。


 とても静かな内容なんだけど、最初から最後まで、償いの言葉しか出てこないんだ。恋人同士なのに好きだとも言わないんだよ。ただ傍にいられたら幸せ‥‥みたいな感じの」


 聡一郎はなにも言わなかった。ただ、オレを見つめている。不思議に思って名前を呼ぶと、はたと我に返ったように、頭を掻いた。


「どうしたの?」


「いや」


 随分と歯切れが悪い。なにか言い淀むように言葉尻を窄めたなと思い見上げると、聡一郎と視線がかち合った。


「やっぱり、なにかあったのか?」


「え?」


「気にはなっていたんだ。でも、ナオのことだから次の日には元に戻っていると思って、訊ねなかったが」


「‥‥なに?」


「自分の心理状態で選ぶ本や服の色が変わるっていうだろ。だから、そうなのかなって」


「だから、なにが?」


 煮え切らない聡一郎の言い方にだんだん焦れて来て、語気を強めた。すると聡一郎は、なにかを確信したかのように頷いた。


「なんか、随分前向きになったなーって、そう思っただけだよ」


 他意のなさそうな顔で、聡一郎が言う。


 オレが嗤笑すると、聡一郎は『だから言わなかったんだ』と少しむきなったように言い返してきた。


 前向きになった? オレが?


「べつに、変わらないと思うけど」


 そうだ、変わらない。


 オレはなにも変わっていない。


 ただ、周りの景色がモノクロからカラフルになっただけだ。


 『へんなことを言う』とそのセリフを一蹴して、ブランケットと布団を一気に被る。自分の寝心地が良いように身体を動かして、枕に横顔を埋めながら呟いた。


「変わりたくないって主人公の気持ち、すごく良く分かる」


 そんなふうに思うのは、聡一郎がいうとおり、オレが握った手をほんの少し緩めようとしている証拠だろう。


 けれど前向きになったとは思っていない。似たような表現だけれど、ニュアンスが微妙に違う。


 オレがそれ以上なにも言わなかっただろう。聡一郎は『やっぱり忘れろ』と言い残して、部屋を後にした。




 それから2日、朔夜くんは聡一郎とケンカした尾をひくことなく過ごしている。もしかするとすっかり忘れているんじゃないかと思うほどだった。


 じつの親子だからこそなのかもしれないけれど、この立ち直りの早さは如何やと言うべきか。聡一郎すら先日の落ち込みっぷりを忘れているかのようで、血は争えないとしみじみ思った。


 オレが聡一郎と喧嘩をしたら長い。必ず尾を引く。


 きっと聡一郎は数時間でけろっとしているんだろう。それを想像すると自分が怒っていることすらバカバカしくなって、つい喧嘩腰にだけど話しかけてしまう。


 聡一郎が本気で怒っていないことを知っているからできるのかもしれないが、そこに精神的な余裕があるかどうかで対応や行動がかなり変わってくるのも事実だ。


 今朝、朔夜くんと聡一郎が、いつもどおり出かけて行ったのを思い出したら、なんだか笑いが込み上げてきた。


 聡一郎たちが出かけてから夕方までは、一階のリビングがやけに静かだ。


 俊平くんがやってくる時間まで、オレはリビングで本を読んだり、ソメとぼんやりしていたり、自分の部屋でゴロゴロしていたりするのが日課になっていた。


 そういえば、土曜日に家にやってきた会社の人から書類を預かったことついて、聡一郎が驚いていたっけ。


 オレ自身なにも考えていなかったから、いわれて見れば怖いともなんとも思わなかった。やや逃げ腰にはなっていたかもしれないけれど。


 それは俊平くんが、オレをこちらの世界に引き戻したからなんだろうか。


 それとも、自分が意識しなければ、普通に誰かと話せるようになったんだろうか。


 謎だなと思いながら、外に視線をやる。今朝聡一郎が干していった洗濯物を取り込んでいる俊平くんがいた。


 オレはそんな俊平くんをガラス越しに眺めながら、ソメの背中を撫でていた。


 それだけで、まるで陽だまりに包まれているように暖かい気持ちになる。


 やっぱり聡一郎の高感度センサーは狂っていないらしい。


 ソメにそうぼやいて、小さく背伸びをしたとき、ガラス戸の開く音がした。


 俊平くんが、オレとソメを見て微笑しながら、洗濯物のバケツを廊下に置いた。スロープ式になっているほうの出入り口から上がってくる。


 その様子を眺めていて、ふと、いつもと違うことに気付いた。


「脚、痛いの?」


 ぽつりと呟いて、俊平くんを見る。


 俊平くんは少し間を置いて、首を横に振った。


「そうじゃないんですけど」


「‥‥でも、痛そうだよ」


 いつもより足を引きずっているように見えるのは、気のせいじゃないらしい。


 今朝少し寒かっただろうか。それとも、例のお家の方とケンカでもしたんだろうか。


「昨日ずっと立っていたからかな」


 苦笑混じりに、俊平くん。金曜の夜も忙しそうに帰っていったから、それが関係しているのかもしれない。


 オレはふうんとだけ相槌を打った。


 こうやって話していると、なんだか少し緊張が解れてくる。


 けれど次に話しかける言葉が見つからない。大丈夫? とか、洗濯物とりこむの手伝おうか? とか、掛ける言葉はたくさんあるのに。どうしようかと頭をフル回転させていると、俊平くんが時計を見上げて、言った。


「朔夜を迎えに行きませんか?」


「え?」


 唐突なセリフに、思わず聞き返した。


「もう幼稚園が休みだから、園山さんの後輩のうちにいるんですよ。


 このすぐ近くだし、気分転換になるかなと思って」


 そう言って、笑う。


 聡一郎の後輩と一口に言われても困る。きっとオレが知らない人なんだろう。


 面識のない人の前にでるとやっぱり緊張してしまうし、幼稚園にならまだしも知らない人のうちに行くなんて。


 ひそかにそう思ったのが解ったのか、俊平くんは楽しそうに笑って、継いだ。


「那珂さんもいるみたいだし、大丈夫ですよ」


「知耀さんが? でも、仕事は?」


「昼までだったそうですよ。朝会社に連れて行ったって聞きましたし」


「‥‥でも、なんで知耀さんだけ?」


「有休消化とかじゃないですか? 詳しいことは分かりませんが」


「そう、ですか」


 知耀さんのうちなら、本当にここから近い。俊平くん一人で言ってもよさそうなものなのに、わざわざオレに行けということはきっと、オレを外に連れ出せと聡一郎に言われたんだろう。


 そこまで考えて、頭を振る。仮にそうだったとしても、聡一郎も俊平くんも悪意があってやっているわけじゃない。


 オレがいつまでもうじうじ引きこもっているから、なにかきっかけを与えようとしてやっているだけに過ぎないんだ。


 そう考えを切り替えて、オレはうんうんと頷いた。


「ひ、ひとりじゃ、心もとないから‥‥」


「もちろん僕も一緒ですよ」


「え?」


「玖坂さんと一緒に迎えに行ったら朔夜も喜びますよ。那珂さんだってビックリすると思います」


「そ、そう、かな?」


「じゃあ、行ってみますか?」


「‥‥う、うん。がんばる」


 意志強く答えると、俊平くんがそっと微笑んだ。


 なんだか不思議だ。俊平くんの笑顔を見ると、いままで構えていたものすべてがばかばかしく思えてくる。


 本当になんでもないものに構えていたんだなと気付かされて、恥ずかしくなってしまうくらいに。


 もしも俊平くんに出会わなければ、聡一郎の家に連れてこられなければ、こんなふうに考えることもなくて、オレはいまだに落ち込んでいたかもしれない。


 そう思うと、オレは俊平くんと聡一郎には感謝してもし足りないくらいなんだろうな。


 俊平くんのあとに付いて玄関を出ながら、オレはそんなことを考えていた。




*****




 外に出て、怖いことは特になかった。


 ずっと俊平くんに引っ付いていたからだろう。外の景色もろくに見ていないから、寒かったというくらいしか、記憶にない。


 でも、知耀さんのうち――もとい、知耀さんの彼氏のうちに行くと、知耀さんも、朔夜くんも、とても驚いたような顔をした。


 俊平くんの言うとおり、朔夜くんはすごく喜んでいた。


 外に出ることも、誰かと話すことも、本当になんてことはなかった。気の持ちようとはよく言ったものだなと思いながら、すっかり綺麗になった部屋の窓を開けた。


 オレが下にいる間に、俊平くんが掃除をしてくれたんだろう。窓がピカピカだし、カーテンも新しくなっている。だからかしらないけれど、夕日が少し眩しい。


 オレンジ色のカーテンを閉めてベッドに戻ったら、聡一郎の声がした。


「外に出たんだって? 知耀が驚いてたぞ」


 言って、聡一郎がベッドに腰を下ろす。


「うん、出てみた」


「どうだった?」


「‥‥べつに、どうも」


「どうも、か」


「うん。案外、怖くないんだなーって思った」


「珍しいな。怒るかと思ったのに」


「なんで? いずれ外に出なきゃいけないし、オレはずっとこうしているわけにはいかないでしょ。一人で外に放り出されたわけでもあるまいし、怒る理由が見つからない」


 そう言ったら、聡一郎が楽しそうに笑った。


 怒るかと思ったと言われても仕方がない。いままでのオレなら余計なことをするなとかなんだとか怒っていただろう。


 でも、毎日ほんの数時間の間だけど俊平くんの言葉や気持ちに触れていたら、どうでもよくなった。人のぬくもりや厳しさを拒絶して自分の内に閉じこもってしまうことがよくないことだと気付いたからだ。


 オレの周りはこんなにも優しさに溢れていたのに、気付こうとしなかったのは、拒絶しようとしていたのはオレのほうだから。


「俊が下でごはん作ってるけど、食べる?」


「食べるっ」


「よし、じゃあ下に行こう」


 本当、いままでの気持ちはなんだったんだろうか。


 近付いてみれば、触れてみれば、それが当たり前になるくらい心地良いものだった。


 その理由と意味はいまだオレの胸だけに秘めている。あんな気持ちになりたくないという抵抗だったのも否めない。


 でも、それが周りの人まで傷付けているということまでは気付けなかった。


 俊平くんのセリフはまるであの人が言っているみたいで、それで余計にすうっと心に入ってきたのかもしれないな。


 もう少し桜が花開いたら、俊平くんについてきてもらって桜の絵でも描こうかな。そんなことを思いながら、一階に降りた。

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