002

 片倉さんは約束どおり、17時にやってきた。いつものように高級スーツを身にまとい、腕にはフォーミュラの時計をしている。前は煙草の香りも纏っていたのに、不自然なほどその香りがしなかった。車に乗れと言われる前に玄関を入って左手側にある客間に案内した。客間に片倉さんと二人きりという状況下にあるせいか、居心地が悪くて、息が詰まりそうだ。


「三ヶ月ぶりだな」


 オレが押し黙っているからだろう。まるで沈黙を破るかのように、片倉さんが話しかけてくる。オレは窓の外を見たまま、なにも言わなかった。


 片倉さんの声と、俊平くんの声は、同じものなのに異質であるように感じる。ノイズの混ざったラジオのように聞き取りにくい。ここ最近はこんな感覚になったことがなかったというのに、どうしてなんだろう。


 片倉さんがなにかを話している。でもそれは、言葉としてオレの耳に入ってこない。ただ、意味を成さない音のように、流れて消えていくだけだ。


 オレが意識していないだけなのか、それとも聞きたくないからなのかはわからない。ただひとつ解っているのは、この空間が、想像以上に重苦しいものだということだけだ。


「由樹」


 不意に、片倉さんがオレを呼んだ。不思議なことに、今度はきちんと声としてはいってきた。さっきまでは、オレの周りにかかったフィルターに反射して、ハウリングしていたのに。


 言葉と同時に、片倉さんがオレの肩を叩いた。そんなのはいつものことだったのに、ぞわりと全身に寒気がはしる。ただ触れられただけだというのに、その変化にオレ自身戸惑った。


 これはどういうことなんだろう? 聡一郎や俊平くんに触れられたときはまったく違う。この人はオレの敵だと、全身が警告しているかのように、怖い。


 警戒するオレをよそに、片倉さんはへらりと笑って、ガラステーブルにA4サイズの封筒を置いた。


「これに目を通してもらえないか?」


「‥‥え?」


「由樹にアドバイスを貰おうと思って、持ってきた」


 言って、片倉さんは封筒をオレのほうに寄せた。


 片倉さんの考えていることはよく解らない。オレは3ヶ月も前にCJを退社している。後続のデザイナーだっているし、アドバイスなら専属のアドバイザーにでも頼めばいい。


3ヶ月も前線から離れていたオレに、今更なにができるというんだろうか。そう思ったら、胃がきりりと痛んだ。


 もしもここでオレが頷いたとしても、社員規則にうるさい社長がオレの息がかかったケースを受容するはずがない。企画室室長だからといって、そこまでの権限もないだろうに。


 本当、この人はなにがしたいんだろう。最早なにも言うまいと黙っていたら、片倉さんはそれをいいことに勝手に話し始めた。


「園山のところで働く前に、ひとつだけ協力して欲しいんだ。園山にも許可を取ろうと思ってる」


 『尤も、園山が許可をくれそうにないから、直接ここへ頼みに来たわけだが』と、片倉さんが苦笑を漏らした。


「由樹が嫌なら別の人に頼んでもいい。けど、俺は由樹を推したい」


 オレが嫌だというのも、聡一郎がオレと話す許可をくれないのも、すべてわかった上でこの人はここに来ているらしい。


 本当、食えない人だと思う。


 オレが嫌だと言えば、簡単に引き下がるんだろうか。


 片倉さんがオレを推すと言っても、オレはもう辞めた人間だし、関係ない。外部のデザイナーとして、外部のアドバイザーとして口添えするつもりは毛頭ないし、きっとあの社長が認めないだろう。


 ただでさえオレは片倉さんの“お節介”のせいで肩身の狭い思いをしていたというのに、まだオレに面倒なことを押し付けるつもりらしい。


「昔、由樹がアトリエを造った子がいたろ? 飛海くん――だったかな。あのレイアウトを使わせて欲しいんだ」


 ふうんと心の中で相槌を打つ。


 飛海さんのアトリエのことは、偶然にも俊平くんの一件でレジュメを見たから、すぐにでもレイアウトを書き起こすことができる。でも、またああいう現場に関わるのは、苦痛でしかない。


 片倉さんは、単純に仕事の話をしに来ただけだ。それ以外に他意はない。


 解っているのに、そう思って接するよう心掛けているのに、オレは心とはまったく逆の行動をとることしか出来なかった。


 片倉さんと話すのが怖い。こうして話を聞いているだけでも身体が震えているというのに、まともに話せるはずがなかった。


 ごくりと生唾を飲み込んで、震える手をなんとか落ち着かせようと、ぎゅっと腕を掴む。オレが俯いたままなにも言わないからなのか、片倉さんの焦れたような声が聞こえた。


「由樹、話を聞いてるのか?」


 片倉さんの声が少し尖った。表情こそわからないが、この口調も、声も、不満そうなものにしか思えない。


「‥‥すみません」


 漸く搾り出した自分の声は、まるで乾いた筆をキャンバスに走らせたかのように、かすれていた。


「それは、話を聞いていなかったことに対して?」


 オレはなにも返さなかった。


 どんなふうに言えば体よく断ることができるのか解らなかったし、俊平くんや聡一郎と話すとき以上に息苦しくなってきたからだ。


 ほんの少しの沈黙を破ったのは、片倉さんの溜息だった。


「働きたくないってことに対して、かな。この場合は」


「‥‥もう、いいですか? これ以上、話す意味がないと思う」


 自然と息が上がってくる。


 狭い空間に二人きりというのはオレにとってかなりのストレスなんだろう。頭が少し痛い。


「由樹、なにかあったのか? 今日ひさしぶりに会ってから、一度も俺を見ていないな」


「‥‥べつに、なにも」


「嘘つくなよ。前はもっと表情だってあったし、こういうケースには進んで協力してくれたろ。


 人の目は見ない、話は聞いていない、そんなんで前と変わらないと言うほうがおかしい」


 言いながら、片倉さんがオレの肩を掴む。片倉さんのほうに身体ごと向けられたのが解ったけれど、オレは敢えて顔を見ないよう目を逸らした。


 片倉さんは仕事上様々な人を見ているからか、妙に鋭いときがある。オレに対しては半年だけパートナーだったことがあるだけだから、そこまでではないと思っていた。でも、それは誤算だった。会いたくないと思ったのは、片倉さんから逃げていたのは、強ち外れてはいなかったらしい。


 なにがあったなんて、こんなストレートに訊ねてくるのは片倉さんらしいと思う。


 だけど、もしオレがなにかを抱えていると仮定して、それを片倉さんに相談するはずがない。


 ずっとオレと人との間には壁があって、それをどうにかしようという気がオレにはないのだから。いままでも、これからも。


 もし、自分の中のモヤモヤを処理できなくなったればほかのものに投影して発散する。


 いままではそうしてきた。絵を描いたり、なにかを作ることで紛らわせていた。“それでも”のときの方法に、片倉さんも聡一郎もいない。


 そう思った時、不意に俊平くんの顔が浮かんだ。


 オレがどうして欲しいか、どうしたいかのなかに答えがある。解ってはいるけれど、その一言に口を出すのもイヤで逃げてきた。


 答えの一歩手前にいるのに、誰かが答えをくれるのを待っているだけだった。このままじゃいけない。そう思った時だった。


「俺を避けているのは、もしかして前のことが関係してる?」


 オレがなんのことか訊ねようとしたとき、片倉さんが俺の腕を掴んだ。力が強い。オレがきちんと話を聞こうとしていないからだろう。自分に意識を向けさせようとしている。利己的な片倉さんがよくやる手だ。


 前のことというのもよく解らない。そのままの状態でぼんやり考えていたオレの上で、片倉さんが口元だけで笑った。


「由樹が辞める一ヶ月くらい前に、俺の家で飲んだときのことを覚えているか? 俺はあの時由樹に付き合おうって言ったけど、その答えは返ってこなかった」


 片倉さんのセリフに、そういえばそんなことを言われたなと思い出した。


 だけど片倉さんは既婚者だし、男だし、半分冗談だと思って受け流していた。


 でも、帰り際に半ば無理矢理キスされて、それに腹が立って思いきりグーで殴ってやった。まさかオレがそんな行動に出るとは思っていなかったらしい。放心している片倉さんを尻目に、そのまま家に帰ったと思う。


 それから一ヶ月、片倉さんとギスギスした状態が続いて、結局和解しないままにオレの契約が切れて、退社した。


 もしかして、片倉さんはそのせいでオレが辞めたと思っているんだろうか? だとしたらお門違いだし、自信過剰すぎる。オレがそんなことくらいで辞めるようなタイプじゃないと知っているはずだろう。女の子じゃあるまいし。


「手、離して。痛い」


「あのときのことが原因じゃないなら、なんだよ? なんで園山のうちにいる?」


 この状況も、片倉さんの言っている意味も、よく解らない。片倉さんの手を振りほどこうとしたけれど、力を緩めてくれる素振りはない。


「自分の家はどうした? 部屋の前まで行ってみたけど、ポストに入りきらないくらいの手紙が入ってたぞ。何ヶ月帰ってない?」


 片倉さんは本気だ。かなり機嫌も悪い。


「園山とはどういう関係なんだよ? ただの幼馴染にしては仲良さ過ぎだろ」


 随分的外れなことを言うと思う。片倉さんを睨む。強い目だ。強い目がこちらを向いている。


「なに、それ」


「大阪に帰ったなんて嘘まで吐かせてたろ」


 片倉さんの言っている意味が解らない。


 もしかしてこの人は、オレと聡一郎になにかがあると勘違いしているのか?


「園山はまだ24だろ? ヤりたい盛りなのに奥さんいないんじゃなにも出来ないしな。


 その点由樹を囲ってるならヤりたい放題だろ。お前ほどかわいけりゃ、男でも女でも関係ないし、ヤれさえすればそれでいいだろうし」


 したり顔で片倉さんが言う。その言い方にも、考え方にも、態度にも腹が立った。


「実際そうだったらどうするんですか?」


 片倉さんが一瞬力を抜いた。その間に腕を払いのけ、ソファーに落ち着く。強く掴まれていた腕が痛い。


「貴方もそう思ってたんですね」


 以前オレが会社でそういう噂を立てられたときに真っ先にかばってくれたのは片倉さんだった。CDと懇意にしているのは園山と関係があるからだとか、シセローネの社長と近しい関係にあるからだとか、オレが二課から企画室に移動になった時点で実しやかに囁かれていた。実際そんなことがあるはずがない。そう言って怒ったのは片倉さんだったじゃないか。


「オレはもうCJとは関係ないんだから、そういう噂をばら撒けばいいじゃないですか。貴方はメンツをつぶされた腹いせにオレに嫌がらせをしに来たんですか?」


「嫌がらせ? 少々脅迫まがいの商談ってところだろう。俺がここまで言わなきゃお前は俺の話を聞こうともしなかったはずだ」


 片倉さんの言い草に苛立ちが増した。


「オレが話を聞くように仕向けるためには、誰を馬鹿にしてもいいっていうんですか?」


「人の話を聞こうともしなかったくせによく言う。話を聞かないというのは相手を馬鹿にしているも同義だ」


「オレが痛いと言っているのを聞かなかった貴方だっておなじです」


 イライラする。自分の呼吸が忙しなくなるのを感じながら口元を押さえた。頭が痛い。


「そもそも、オレはもう、会社とは関係ない。蒸し返さないでください」


「CJを裏切って、園山に加担するんだろ? 関係なくはない、寧ろ大ありだ」


 加担? この人はなにを言っているんだろうか。意味が分からない。そもそも裏切るなんていう表現を使われる筋合いはない。


「そもそも契約を破ったのはそっちですよ。オレは二課にいることを選んだ。それなのに、貴方が俺を企画室に移動させた。仕事の時間だって増えたし、負担も増えた。確かに事情は話さなかったかもしれない。だけどそれは個人的な事情だったから、――」


「その個人的な事情がどうであれ、こちらのやり口を知っているお前がCDに協力すると困るんだ。


 お前さえ頷けばこちらに戻ってこられるように計らうつもりでいる。二課がいいなら二課でも構わない」


「オレが二課に戻りたいと言った時、聞き入れもしなかったくせに、今更?」


 今更そんなことを言われても遅い。戻るつもりもない。自分が今どうすればいいのかもわからないのに、そんな先のことを言われたって把握できるわけがない。


「そんな話をいま持ってこられたって、困る。オレにはできないし、CJにも戻らない」


「じゃあ戻らなくてもいい、協力をしてくれ」


「協、力?」


「上からの命令でね。最近話題の新人画家のアトリエを手掛けたおまえのネームバリューとうちのネームバリューを併せて打ち出したい企画があるそうだ。名前を貸してくれるだけでも構わない。それだけで価値が上がる」


 片倉さんの言っている意味が全く解らなかった。話を整理しようとしても纏まらない。戸惑うだけの俺を前に、片倉さんは少し苛立ったような面持ちでA4サイズの書類をこちらに突き出した。


「上にしてみれば、こっちの事情なんてどうでもいいんだよ。おまえが辞めて以来上が業績のことでうるさくてね、悪いがこっちもおまえの事情を酌んで、ゆっくり待ってやれる余裕がない」


 オレは首を横に振った。やらない。できない。片倉さんがそれに気付かないわけがない。自分がオレに思ったのと違ったと言ったんだ。オレにこの仕事ができないことくらい、片倉さんならわかっているはずだ。それなのに、今更こんなものを持ってきて、協力しろなんて。


「言ったろ、名前さえあればいい。お前に出来る出来ないは関係ない」


「いやです」


 だって、もう関わりたくない。いやでも思い出してしまう。いやでも目に入ってしまう。あの時の状況と被らないとは限らない。そう言ったってこの人に通じるわけがない。この人はなにも知らない。オレの事情なんて、なにも知らないんだ。落ち着けと自分に言い聞かせて、肩を抱く。落ち着いて対処しなければ、弱みを握らせることになる。


「じゃあおまえはCJを裏切り、園山につくんだな?」


 片倉さんの強い声がした。


「代表がいない間にCDの業績悪化を招いたら、園山はいまの立場ではいられなくなる」


「どうして? 園山さんは関係ない」


「おまえな、うちがCDのせいでどれだけ業績が下がったか、知らないわけじゃないだろう? 園山をフォローするために本社から派遣されたアドバイザーも今月いっぱいで大阪に戻る。その状況でうちが本気でCDを潰しにかかったら、どうなると思う?」


 意地の悪い笑みだ。オレを揺さぶろうとしている。


「これはあくまでも妥協案だ。おまえがこちらに協力をするというのなら、CDとはこのまま良好な関係作りを続けるよ。でもそうでなく、おまえが園山につくつもりなら、俺はどんな卑怯な手を使ってでも、園山を引きずり下ろすぞ」


 そう言われた瞬間、オレの中でなにかが切れた音がした。


「ふざけんな!」


 言葉と同時に、ソファの横に置かれていた片倉さんのプリュス鞄を、思いきり投げつけた。


「どこまで人の神経を逆撫でしたら気が済むんですか!? オレが会社を辞めた理由も、ここにいる理由も、なにひとつ知らないくせに、勝手なことばかり‥‥!」


「ちょっ、落ち着けよ由樹!」


「飛海さんのアトリエだって、好きでレイアウトしたんじゃない! 断りきれなくて仕方なく協力したのに、オレの気持ちなんて関係なく周りが勝手に囃し立てて、大袈裟に騒いでいただけなのに!


 なのに、どうして!? 片倉さんには、もうあんな仕事はしたくないって、出来ないって、ちゃんと言ったじゃないですか!」


 片倉さんの驚いたような顔が目に入る。でも、一度堰を切った言葉と感情は、抑えようにも抑えられなかった。


 テーブルに置かれていた封筒を半分に、また半分に破いた。呆気にとられたような顔をしている片倉さんを客間から無理矢理押し出して、床に転がっていたプリュス鞄と封筒の残骸を投げつけた。


「帰って下さい!」


 ぐいぐいと片倉さんの身体を押して、玄関先まで追いやった。片倉さんの表情なんて見る余裕はない。ただ一刻も早く出て行って欲しい。その一心だった。


「由樹、落ち着けって!」


「うるさい! もうあなたの顔なんて見たくない、帰れ!」


 自分でも聞いた事のないくらい、余裕のない、切羽詰った声だった。


 オレははあはあと肩で息をしながら、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。


 遠くで、ドアが閉まるような音がした。


 その音に引き寄せられるように、意識が現実に戻る。気が付いたら、片倉さんはいなくなっていた。さっきの音は、片倉さんが出て行った音なんだろう。


 一瞬冷静になって、自分がなにを言ったのか、なにをしたのか、思い返す。


 いままで誰にも言わなかったことを、どうして片倉さんに言ってしまったのか。そう思ったら、目の前が青くなった。


 飛海さんのアトリエのことも、そのときに自分の気持ちが置いてけぼりにされたようでとても虚しかったことも、いままで誰にも言ったことがなかったのに。


 そう思ったら急に力が抜けて、オレはその場にへたり込んでいた。


「大丈夫ですか?」


 突然、俊平くんの声がした。


 振り向くと、俊平くんがいた。さっきのを聞かれたんだろうか。なんだかとても複雑な表情をしている。


 心配そうに差し伸べられたその手を、オレは咄嗟に振り払った。


「どうしてそこにいるの?」


「すみません、すごい声がしたので、なにかあったのかと思って」


「なにかあったとしても、貴方には関係ない。子どもには無縁な話です。


 こんなことをしていないで、ちゃんと学校でも行ったらどうですか?」


 片倉さんに向けていたはずの、収まりつつあったそれが、また沸々と蘇ってくる。


 急激に込み上げてきた怒りにも似た感情は、オレの頭を徐々に濃淡のない赤で染めていった。


「学校、行っていないんです」


 俊平くんの声に、言葉に、オレは驚きを禁じ得なかった。


 いままで聞いたことがない、静かな声だ。


 弾かれたように顔を上げたオレの目に映ったのは、いつもと違って、少し困ったような、寂しげな表情を携えている俊平くんだった。


 マジメの塊のような子が学校に行っていないとか、信じられない。


「地元じゃないので知り合いも少ないから、ここのバイトは条件がいいんです」


 取り返しのつかないことを、彼にとって古傷を抉るようなことを言ってしまったんじゃないか。


 そう思ったら二の句を告げなくて、オレはただ、言葉にならない声を飲みこむことしかできなかった。


「学校に行けって言われるのも、こういうバイトは辞めろって言われるのも慣れているので」


 投げ遣りでも、不機嫌そうでもない、しっかりとした声で、俊平くんが言った。


 オレは頭のなかが真っ白だった。


 謝ったほうがいいんだろうか? そう思ったけれど、言葉が出て行かない。それどころか、慣れていると言ったじゃないかと思う自分がいた。


 最低だ。自分よりも年下の子を傷つけるようなことを平気でいうなんて。しかもそれを正当化しようとするなんて。虫の居所が悪かったとか、そんな理由では済まされない。


 自分が言ってしまったことを後悔して、でもそのことをどう切り出そうかと考えていたら、家の電話が鳴った。


 電話を取るために、俊平くんはリビングに帰ってしまった。


 きっとオレのことを心配してきてくれたんだろう。自分でも驚くくらい大きな声を出したし、暴れたから。それなのに、その気持ちを無視してあんなひどいことを言ってしまうなんて。


 勢いだったとはいえ、許されるはずがない。


 オレはリビングから漏れてくる俊平くんの声を聞くのが辛くなって、急いで自分の部屋へと戻った。




 その日の夜、23時を回っても聡一郎は帰ってこなかった。


 相談したいことがあったのにと心の中でぼやきながら、隣の部屋の様子を窺う。


 泣きそうな声の朔夜くんを宥める俊平くんの声が聞こえてくる。壁を隔てた向こう側にいるというのに、やけにクリアに。


 つい数時間前、片倉さんのことで八つ当たりしてしまったこともあって、さすがに罰が悪くて朔夜くんを宥めに行く気にもなれない。オレがもっと素直な性格だったらよかったのに。


 俊平くんの声を聞いていると、まるで自分が慰められているかのような気分になった。


 目を閉じているからか、すぐ傍に彼がいるかのような錯覚に見舞われる。


 俊平くんがここにいるということは、きっと聡一郎からなんの連絡もないんだろう。さりげなく携帯を見てみるけれど、届いているのは携帯の提携会社からのフリーメールだけだ。


 いつもなら連絡のひとつくらいよこして遅くなるというのに、今日はなにかあったんだろうか?


 なんだか不安になってきて、自分の部屋のドアの前をうろうろしていたときだ。


「遅くなってごめんなさいね、送るわ」


 聴き慣れたはきはきとした喋り声がする。知耀さんだ。


「大丈夫でしょうか、園山さん」


 彼が声を曇らせる。本当になにかがあったんだろうかと不安になったオレの心配を跳ね除けるかのように、知耀さんが笑った。


「心配ないって。わたしもさっき様子を見てきたけど、佳乃はただ少し風邪気味なだけなのにって言っていたわ。まあ、病気が病気だけに用心したってところでしょう。


 聡一郎は今日病院に泊まるそうだから、朔夜はわたしが面倒見るわ。悪かったわね、連絡ができなくて」


「いえ、大丈夫です」


「じゃあ、先に下に行っていてくれる? わたしから由樹に事情を説明しておくから」


 知耀さんの言葉を受けて、彼は快く返事をする。オレはマズイと思って、急いでベッドに戻った。


「由樹、開けるわよ」


 オレがベッドに戻って頭まで布団を被ったのと、知耀さんがそう声をかけてきたのは、ほぼ同時だった。


「そういう理由らしいから、わたしが俊を送ってくるまで朔夜の面倒見てなさいよ」


 寝たふりをしているオレに、知耀さんがそう言ってのける。オレがいま起きたと言わんばかりに顔を覗かせると、含み笑いをしながらオレに近付いてきた。


「無駄よ、あんたの足音筒抜けだったし」


 『話を聞いてないふりをするなら足音まで気を配りなさいよね』と付け加えて、笑う。


 オレが知耀さんたちの会話を聞いていた上で寝たふりをしようとしていたことまでバレバレだったらしい。


 仕方がないから身体を起こして布団から出た。


 知耀さんは昔と変わらない温容だった。元々茶色がかった髪にゆるいウェーブを掛けているくらいで、ほかはあまり変わらない。相変わらずきりりとした芯の通った目をしている。本当、オレとは大違いだ。


「佳乃さん、どうかしたの?」


「大したことない‥‥っていいたいところだけど、ここ最近の寒波のせいで調子が悪いらしいの。


 意識消失があったとかで聡一郎が呼ばれたんだけど、一過性のものだったしそんな大したことないって本人は言うんだけどね。


 ほら、聡一郎って佳乃のことアホほどかわいいっていうか、ベタぼれでしょ。マタタビ貰った猫みたいになるのがデフォルトなくらい」


「‥‥それ、聡一郎の前で言ったら怒られるよ」


 『否定はしないけど』と付け加えると、知耀さんは楽しそうに笑って、ベッドに腰を下ろした。


「聡一郎ね、病院から連絡が来たらすぐに飛んで行って、佳乃の状態が解ったらすぐに会社に戻ってきて、仕事を全部終わらせたと思ったら、慌てて病院に戻っちゃった。


 周りへのフォローも忘れるくらい聡一郎が焦燥に駆られてるのは久しぶりに見たわ」


「佳乃さん、大丈夫かな?」


「そんな顔しないの。‥‥っとに、アンタがそんなんだから、聡一郎がいつまで経っても気にするんでしょうが。とっとと聡一郎断ちしなさいよ、いつまで甘えていれば気が済むのかしらね」


 言って、知耀さんがオレの顔をちらりと見た。


 なんだか無言のプレッシャーを掛けられているような気がする。


 べつにオレは聡一郎に依存なんかしていない。そう言ってみると、知耀さんは意外そうな顔をして、笑った。


「まあ、由樹と聡一郎は兄弟みたいなものだもんね。


 そういえば、由樹の携帯に何度電話しても繋がらなかったわよ。俊も携帯持ってきていなかったみたいだし」


「オレの? ‥‥さっき確認したけど、着信なかったよ」


「あんた新しいアドレスと番号をわたしたちに教えてないでしょ?」


「‥‥あ」


 そういえば、仕事を辞める前に携帯を変えたんだった。そう呟いたら、知耀さんがバカねと一笑に付した。


 夕方、家の電話がなったのは、どうやら聡一郎か知耀さんからだったらしい。オレが謝るタイミングを逃したと思うべきなのか、あの状況から逃げる口実になったと思うべきなのか。どちらも間違っているとわかっている。オレがあんな余計なことを、赤に準えて言わなければ良かっただけの話なのだから。


「俊の帰りが遅くなるのはこれが3回目だから、そろそろ保護者が黙っていなさそうな気がするわ」


「聡一郎も言っていたけど、お家の方ってそんなに怖いの?」


 『そうね』と、知耀さんがすこし考えるような仕草を見せる。


「機嫌悪かったら蹴りの一発や二発ははいるんじゃないかしら? そうでなければ笑顔で嫌味を言われるくらいだろうけど」


「‥‥結構バイオレンスなんだね」


「だから聡一郎も気を遣っているのよ。せっかく俊がやる気を出しているんだし、横槍を入れさせたくないんじゃないかしら」


 そこまで言うと、知耀さんは『俊を送ってくる』とオレに言い残して、部屋を出て行った。


 俊平くんがやる気を出しているというところに引っ掛かった。


 なんだか腑に落ちない。俊平くんは前向きで、あまり物事をネガティブに考えないようなタイプに見える。オレと正反対だろうと思っていた。


 人は見かけによらないな。そんなことを思いながら、オレは知耀さんに言われたとおり、朔夜くんがいる隣の部屋へと向かった。


 朔夜くんはオレを見るなり、走ってきて、抱きついてきた。ぐすんと鼻を啜って涙を拭う。オレがポンポンと背中を叩くと、ぎゅっとおなかのあたりに顔を埋めた。


「パパ、戻ってこないの」


「‥‥うん。仕事、忙しいみたいだから」


 そう言ったら、朔夜くんはぶんぶんと首を横に振った。


「ママになにかあったの?」


 朔夜くんの大きな目には、涙が浮かんでいる。一生懸命堪えているのが分かる。オレは朔夜くんをベッドに誘導して座らせた後、朔夜くんの前に腰を下ろした。


「朔夜くん。朔夜くんのママは、どうして入院しているか、分かる?」


 そう尋ねると、朔夜くんは少し唇をとがらせて、頷いた。


「ビョウキ、だから」


「うん。すごく、大変な病気なんだ。でもその病気を治すために、一生懸命頑張ってるの。聡一郎もだよ。佳乃さんの病気を治すためと、朔夜くんにごはんを食べさせるために、仕事をしないといけないの。聡一郎が仕事をして、頑張ってくれてるから、だから朔夜くんは幼稚園にも行けるし、ここに住めているんだよ。わかる?」


 朔夜くんは少し考えた後、小さく頷く。そしてオレにぎゅっと抱きついてくると、ぐすんと鼻を啜った。


「だからパパ、帰ってこないの?」


「今の仕事が、忙しいんだって。聡一郎がいないと、どうにもならないんだ。


 聡一郎も早く帰ってきたいだろうし、朔夜くんのことを心配してるよ、きっと。だけど、もしも聡一郎が、朔夜くんのために帰ってきてしまったら、次の仕事がなくなっちゃうかもしれない。それは、困るよね」


「‥‥ママがビョウキ治せないかもしれないから?」


「うん。それに、朔夜くんもごはんを食べられなくなるかもしれない。だから、寂しいのは解るけど、いまは我慢。ね?」


 オレがいるからと、朔夜くんをぎゅっと抱きしめる。すると朔夜くんはまた鼻を啜った後、オレの言葉に答えるかのように、抱きついてきた。


「ママが元気にならなかったらやだ。でも、パパと会えないのもやだ」


 鼻声で朔夜くんが言う。自分で言った後寂しくなったのか、朔夜くんはオレに抱きついたまま泣きはじめた。オレは朔夜くんの背中をポンポンと叩いて、なだめることにした。


「そうだね。聡一郎も、朔夜くんと会えないのは寂しいんじゃないかな」


「‥‥パパも?」


「うん。こうやって、朔夜くんが泣いているんじゃないかって、心配していると思う」


 聡一郎は放任主義に見えてとても過保護だ。昔から、朔夜くんのことは目に入れても痛くないというくらい猫かわいがりしているから、寂しがらないわけがない。いつだったか、一週間くらい仙台に出張に行くことになった時、朔夜くんに一週間も会えないのは拷問だとぼやいていたからだ。


 オレがそれを朔夜くんに言ったら、朔夜くんはぐすんと鼻を啜った後、笑った。


「オレ、覚えてるよ。パパが風邪ひいちゃって、俊兄のところにお泊りしたの」


「そうなの? ‥‥そういえば、珍しくインフルエンザにかかって、大変だったね」


 あそこまで完全にダウンした聡一郎を初めて見たなあと思い出しながら苦笑する。朔夜くんはオレから離れた後、ぐしぐしと目を擦った。


「明日はパパ、戻ってくるかな?」


「きっと戻ってくるよ」


 朔夜くんは鼻を啜りながら、まるで自分に言い聞かせるように頷いた。朔夜くんの頭をそっと撫でて、寝る前になにか読んであげようかと言うと、朔夜くんは満面の笑顔を浮かべて、頷いた。

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