drawing/線画、製図

 月曜日の夕方。ソファーでうたた寝をしていて目が覚めたら16時を過ぎていた。朔夜くんと家政夫さんがいつ戻ってくるかは分からない。リビングのエアコンの電源を切り、そそくさと部屋に戻った。


 聡一郎が用意していたチョコプリンと、梅味のお粥をお昼に食べた。あまりにおいしくてその余韻に浸るかのようにソファーに寝転んでいたら、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。部屋のドアを閉め、ふらふらとベッドに向かった。


 ベッドに突っ伏し、ごそごそと布団をかぶる。家政夫さんと朔夜くんが戻ってくる前に目が覚めてよかった。そう思ったのもつかの間、小さな足音が階段を駆け上がる音が聞こえてきた。


「なおちゃん、ただいまーっ!」


 勢いよくドアを張りあけ、朔夜くんが入ってきた。やけに元気のよい声に、思わず苦笑する。よかった、本当に間一髪だったらしい。お帰りと返しながら体を起こすと、勢いよく飛びつかれた。


「なおちゃん、いいにおいがする」


 ぐりぐりとオレの胸に顔を埋めながら、朔夜くんが言う。いいにおいもなにも、お風呂に入った以外は、ココアを飲んだのと、チョコプリンを食べたくらいしかしていない。もしかして、甘いものを食べすぎて体臭が甘くなっているんだろうか? なんてあほなことを考えながら、朔夜くんの背中をポンポンと叩いた。


「あんまり聡一郎を困らせちゃだめだよ」


 オレが言うと、朔夜くんはきょとんとしたあと、眉を顰めた。


「なおちゃんだって。パパ、心配してたよ。熱が下がらないし、どっか行っちゃうし。なおちゃんまでビョウキになっちゃったら、パパが泣いちゃうよ」


 まるでオレに言い聞かせるかのように、朔夜くん。ビョウキという単語がナチュラルに出てくるのは、佳乃さんのことがあるからだろう。4歳児なりに佳乃さんのことは理解しているんだなと思いながら、オレは鼻で笑った。


「大人はそう簡単に泣かないものなんだよ」


 そう言ったら、朔夜くんは「そうなの?」と不思議そうな顔をしたけれど、すぐに満面の笑顔を浮かべた。


「なおちゃんが元気になったから、パパが嬉しそうだったよ。漸くごはん食べてくれたって言ってた」


 「いっぱい食べて、もっと大きくならなきゃ」と言いながら、朔夜くんがぎゅうっと抱きついてくる。これ以上大きくなるわけがない。横になら別だけどと思いながらも、「なるべく食べる」と言うだけにとどめた。朔夜くんに食欲がないだなんだと言ったところで、そんなんじゃだめだとまともに返されるだけだからだ。


 幼稚園に持っていくリュックサックを背負っているからか、いつも以上にずっしりと重い。小さい頃と比べると本当に大きくなったなあと思う。


 朔夜くんはどちらかというと、佳乃さんに似ていて、小柄なほうだ。色だって白いし、目鼻立ちは佳乃さんの遺伝子が強い。ただ、ふとしたときの表情や、意志の強い目は聡一郎の小さい頃そのものだ。


 聡一郎は小さい頃、本当にガキ大将という感じだった。優等生だけど、いつも元気いっぱいで、生傷が絶えなかった印象がある。オレはそれを教室の窓から眺めるだけだった。そんなオレを誘いに来ては、遊びに連れ出してくれる。オレは一人で本を読んだり、絵を描いたりするほうが好きだったけれど、聡一郎はオレが独りにならないようにいつも気を遣ってくれていた。帰り道が一緒だったから、そしてクラスが同じだったから、だから一緒にいてくれたのかと小さいころは思っていたけれど、そうじゃないことくらい、いまはわかる。


 朔夜くんもそうだ。朔夜くんは見た目だけならおとなしそうだし、本当に子どもらしくて可愛らしい。でも、聡一郎の遺伝子は強いようで、やけに鋭いくせにアバウトなところがよく似ている。オレが居心地が悪そうにしていると、ナチュラルにフォローしてくれるのは、小さい頃の聡一郎そのものだからだ。


 少し伸びた、茶色い髪を撫でて、ずり落ちそうになる身体を抱えなおす。こんな小さな子にまで心配させるなんて、情けない。そう思いながらもう一度朔夜くんの背中をなでた時、朔夜くんがなにかを思い出したように顔を上げた。


「そうだ! なおちゃん、桜もち好き?」


「え?」


「えっとね、さくらの葉っぱで包んである、おもちみたいなの。俊兄が作ってくれたんだ」


「しゅ、しゅん、にい?」


「知らないの? 俊兄は俊兄だよ」


 言いながら、朔夜くんがきょとんとする。うーんと考えながら朔夜くんを床におろした。


 俊兄? オレの知り合いにそんな人いただろうか?


 オレがなにかを考えているのに気付いたのか、朔夜くんが「俊平くんだから俊兄だよ」と教えてくれる。俊平くんといわれても、ぴんとこない。オレの知り合いにそんな名前の人はいなかったように思うけれど。


 そう思っていたら、朔夜くんが急におれの腕を引っ張り始めた。


「行こう、なおちゃん」


「えっ!? ちょ、ちょっと、待ってっ!」


 慌てて朔夜くんを制止したら、ものすごく不満そうな顔をされた。よっぽどその俊平くんが好きなのか、早く桜もちを食べたいのか、朔夜くんのこんな表情は久しぶりに見る。


「なんで嫌なの? 俊兄、優しいのに」


「だって‥‥。ほ、ほら、オレ、パジャマ、だし」


「そんなの関係ないよ、オレだってパパだってパジャマのままのことあるし。なおちゃんは風邪ひきさんなんだから、気にしなくていいの」


「き、気にするよっ。それにオレ、お、おなかすいてないし‥‥。そ、そういえば、風邪がうつっちゃダメだから、部屋から出ちゃだめって、聡一郎から言われた気が‥‥」


「嘘ばっかり。パパはいつも言ってるよ、なおちゃんを部屋から引きずり出すには甘いものしかないって」


 くそう、聡一郎め。


 咄嗟に嘘をついたのに、朔夜くんから一蹴されて、なす術がなくなってしまった。オレの手を引っ張る朔夜くんに抵抗していたときだ。急に朔夜くんがオレの手を離した。


「オレと一緒に降りたら怖くないよ。俊兄は優しいし、ほかに誰もいないから」


「で、でも‥‥」


「大丈夫だよ」


 『面倒だ』と継ごうとしたのに、その言葉は朔夜くんの屈託のない満面の笑顔に飲み込まれてしまった。


 前言撤回。どんなに人見知りな部分があっても、やっぱし朔夜くんは聡一郎の子どもだ。この強引さとポジティブシンキングとお節介っぷりも、小学生の頃の聡一郎そっくりとしか言いようがなかった。




* * * * *




 結局オレは朔夜くんのゴリ押しに負けて、一階のリビングに降りていた。パジャマだからとか寝起きだからなんていう言い訳が幼稚園児に通用するはずがない。相手が聡一郎だったら、きっと見逃してくれていただろう。こんなみっともない姿で人前に出るなんて、いままでのオレだったら考えられないくらいだから。


 寝たふりをしておけばよかった。そう自責しながらオレは黙って彼が入れたお茶を飲んでいた。


 すごく居心地が悪くて、どうしようもない。そんな気持ちになる自分を想像していたというのに、ふわりとあまい香りのするお茶のせいなのか、ちっともそんな感情がでてこなかった。むしろ、なんともない。口当たりのいい、優しい味のほうじ茶を少しずつ啜っていると、朔夜くんが“俊平くん”に、オレのことを説明し始めた。


「なおちゃんっていうの。パパの友達で、幼稚園の時からずっと仲がいいんだって」


 オレの気持ちなんて露程も知らず、まるで自分の友達を紹介するような具合でオレのことを説明していく。“パパの友達”以外の“引き篭もり”や“人が怖い病”(たぶん対人恐怖症と言いたいんだろう)には敢えて言及しない。聡一郎がオレによく言うことだから、それで記憶しているんだろう。好きで引きこもりや対人恐怖症になっているわけではないけれど、事実は事実だ。


 その間にも視線を感じたので、ちらりと彼を盗み見る。そうしたらビックリするくらい視線がかち合って、オレは思わず目を逸らした。


 朔夜くんが懐くだけはあるというべきだろうか。視線ひとつにさえ穏やかさを感じる。表情や仕草が優しさに溢れているし、育ちのよさが動作や言葉の端々から滲み出ている。それが女性的だと形容するのが正しいのかはわからないし、決して彼が女性っぽいというわけではない。けれど何気ない空間を円かな雰囲気に変えてしまうところが、懐の広さを感じさせた。


 そもそも桜もちや和菓子には緑茶のほうが適していると思うけれど、敢えてほうじ茶を出しているのは朔夜くんがじつはあまりおなかが強くないのも、幼児にはカフェインのような刺激物をあまり与えてはいけないと言われているからだと思う。キッチンのキャビネットの中には、オレ用のココアのほかに、ノンカフェインのココアや紅茶なんてものも揃っている。それは聡一郎が揃えたわけじゃないと断言できる。聡一郎は凝り性で細かいけれど、そこまで気を回す繊細さは持ち合わせていない。


 こんなふうに冷静に分析できても、話しかけようとは思わない。オレは彼について特に知りたいことがあるわけでもないし、朔夜くんに言われて仕方なくここにいるだけなのだから。だから、話しかける意味なんてない。むしろオレが“他人”と空間を共有していることだけでもビックリしているのに、それ以上のことをナチュラルにアクションできるはずがなかった。


 なんとなく緊張するけれど、それ以上ではない。けれどそんな自分に落ち着かなくて、ブランケットを掛けてみたり、座り変えたりして、そわそわしていた。


「あのね、なおちゃん。俊兄はお料理すっごく上手なんだよ。パパのもおいしかったけど、俊兄のはもっとおいしいんだ」


 オレが彼とおなじ空間にいるのがよほど嬉しいらしい。そうでなければ、朔夜くんにとっても、彼はお気に入りなのだろう。ややそっけなく、『そう』と返して、ほうじ茶を啜る。


「そういえば、ナオちゃんは俊兄と会うの、初めてじゃないんだよね?」


「え?」


 オレと、彼の声がシンクロした。


「玄関に置いてあるの、俊兄の傘でしょ?」


 朔夜くんがきょとんとしながら、オレに訊ねてきた。


 玄関の傘が、誰のだって?


 ぽかんとして朔夜くんを見ると、朔夜くんは小首を傾げて、家政夫さんのほうを見た。


「俊兄がなおちゃんに傘を貸したから、うちにあるんじゃないの?」


 きょとんとして、朔夜くんが言う。


「あれ、俊兄のでしょ? あのねこちゃん、柾兄がつけたって言ってたよね?」


 彼はなんだか複雑そうに笑って、頬を掻いた。


「あの猫のマスコットも、傘も、コンビニに売ってあるものだから、もしかしたら似ているものがあるだけかもしれないなって‥‥」


 そう言って苦笑する表情も、その声も、不思議と初めて触れたものではないように感じた。


「似てるんじゃなくて、俊兄のだってば」


 彼の言葉を遮って、朔夜くんが焦れたように言った。


「あの傘は、なおちゃんが公園で借りたんだって」


 なんだか急にドキドキしてきた。オレはお湯呑みをテーブルに置いて、もう一度彼を見た。


 癖のない、ストレートの黒髪。穏やかな、少し茶色がかった瞳。女性受けしそうな優しげで、幼さを残す顔立ち。明るいところで見るのと、暗いところで見るのとでは印象が違うから、正直よくわからない。あの日はかなりの雨が降っていたし、数秒しか顔を見ていない。


 きっとあの人の歩き方が普通の歩き方だったら、オレはどんな人に傘を借りたかすら覚えていないと思う。そう思った時、また、彼と目が合った。


「どうかされました?」


 彼が尋ねてくる。


「い、いえっ、あのっ」


 慌ててしまって、声がひっくり返った。穏やかに微笑みながら、朔夜くんのお茶を運んでくる。その足音。歩き方。そして優しげな笑みをまじまじと見た時、オレの頭の中でごちゃごちゃになっていたパズルのピースがはまった。


「あ、あのっ!」


 言葉と同時に、勢いよく立ち上がってしまった。朔夜くんと彼が、ビックリしたようにオレを見ている。


「おっ、オレですっ、傘借りたのっ!」


 勢いよく言ったはいいけれど、なんだか急に恥ずかしくなってきて、俯いた。


 彼はなにも言わない。朔夜くんが「やっぱり」と誇らしげにいう声が聞こえる。


「本当はすぐに返そうと思ってたんですけど、あ、あの、風邪、ひいちゃってて‥‥」


 しどろもどろになりながら、慌てて言葉を紡ぐ。途中から、どうしてこんなに必死になっているんだろうと冷静になる自分がいた。


 彼はきっと返って来る保証もなく貸したのかもしれないのだ。じゃあオレがこんな弁解をする必要だってないんじゃないか。そう思ったときだ。


「玖坂、さん?」


 彼が、驚きを隠せないような声色で、オレを呼んだ。


 どうしてオレの名前を知っているのだろう? 朔夜くんは、オレのことをなおちゃんとしか言っていないはずだ。


「本当に、玖坂さんなんですか?」


 驚いたような表情の彼を前に、なにも言えなかった。ただいぶかしげに眉をひそめることしかできない。直視するならまだしも、視線をそらしたままなにも言わないなんて、とても感じが悪いと思う。


 玖坂というのは、オレの名字だ。けれどだいたいみんなナオとか由樹と呼ぶ。前の会社に勤めていた時、別の漢字でくさかという人が二人ほどいたから、呼び分けをするためにそうなった。だから名字で呼ばれるのはどことなくくすぐったい。そうですけどと、ぼそぼそと告げる。彼がオレの名字を知っていることには疑問を抱くが、オレがくさか姓なのは確かだ。


「お元気そうでよかった」


 彼の言葉を受けて、オレはますます戸惑った。オレの名字を知っているということは知り合いなのだろうか? 不意に思ったけれど、何処で出会ったのか、何故知り合ったのか、まったく覚えていない。あの公園以外で出会った記憶など微塵も無いのだ。この雰囲気には懐かしさを感じるけれど、見当がつかなかった。自分の記憶力のなさがここまでだと思わなくて、なんだかげんなりする。


「ぜんぜん元気じゃないよ」


 桜もちを飲み込んで、朔夜くんが横槍を入れてくる。


「だってなおちゃん、二日くらいお熱で、ずっと寝てたんだよ」


 『俊兄も来てくれないから、しばらくごはんがお粥さんだったんだから』と、朔夜くんが不満げに言った。


 会話の流れから察するに、いつもは彼が夕食を作っているようだ。ということは、オレに傘を貸してから今日まで、ここに来なかったということになる。


「も、もしかして、風邪、ひいちゃった?」


 恐る恐る彼に尋ねる。彼はきょとんとしたあと、穏やかな笑みを浮かべて、小さく首を横に振った。


「いいえ。週末はすこし忙しくて、こちらに顔を出せなかったんです」


「そ、そう、ですか」


「でも、驚きました。まさかとは思っていたけど、ご本人だったなんて」


 言って、彼がオレのお湯呑みにほうじ茶を注ぐ。独特の香りだ。まるで彼を形容しているかのように、素朴で、柔らかい。


 オレがなにも言わずにいたからだろう。彼はどこか困ったように笑った。


「なんだか、却って戸惑わせてしまったみたいですね」


「い、いえっ、そんなことは‥‥」


「よかったね、ナオちゃん。これでパパに怒られないね」


 朔夜くんが満面の笑顔で言う。


 確かに、聡一郎からちくちく文句を言われてはいた。意外にもきっちりした性格だから、誰かに物を借りて返さないのは有り得ないというのが聡一郎だ。誰に借りたのかも覚えていないし、名前も知らないのだから返しようがない、貰っておけばいいと言ってみたら、心底呆れたような顔で『お前のそういうアバウトさは改善すべきだ』と言われたくらいだから。


 朔夜くんに『怒られはしないけど』と言って、もう一度彼の顔を見る。


 あの日、桜の木の前で見た彼と、いまオレの目の前にいる彼は、やはり同一人物らしい。無邪気な朔夜くんを見る優しげな眼差しが物語っていた。


「あ、あの‥‥」


「俊平くん」


「しゅ、俊平、くん」


 なんだかしどろもどろすぎて、鸚鵡返しにもならない。たどたどしく彼を呼んで、オレは意を決して、話しかけた。


「どこかで、お会いしました?」


「え?」


「あ、ち、ちがっ‥‥。ど、どこで、お会いしたのかなあってっ。


 お、オレ、すごく物覚え悪くてっ‥‥。でも、俊平くんみたいな雰囲気のある人、忘れるわけがないと思うんだけど、覚えてなくてっ‥‥、ごめんなさい」


 ただ単純に『物覚えが悪いから、どこで出会ったのかを覚えていない』と言いたいだけなのに、上手く言葉にならない。


 開発したてのロボットのほうがスムーズにしゃべれるんじゃないかというほど、たどたどしい。


 なんだか罰が悪くなってきて、どう弁解しようかと思っていると、彼――俊平くんが、そっと笑った。


「気にしないで下さい、少し出会ったことがあるだけですから」


 覚えていなくても仕方がないというようなその言い草に、ちくりと胸が痛んだ。


「で、でも」


「それより、もう体調は大丈夫なんですか?」


 なんだかすこし悲しげな表情だったように思えたのに、彼はすぐに表情をすり替えて、そう訊ねてきた。


「は、はい。だいぶ、食欲もでてきました」


「そうですか。よかった」


 言って、俊平くんが笑う。あの時とおなじ、やわらかな笑顔だ。


 それを見ていたら、なんだかホッとする。自分の中にある歪みが、少しずつ元に戻っていくような感覚だ。誰かの顔を見たり、声を聞いたりしてホッとするように感じるなんて、何ヶ月ぶりだろう。


「あ、た、タオル、持ってきます」


 これ以上ここにいたら、傘のことも、それから“壁”のことも忘れてしまいそうで、オレは急いで席を立った。


「桜もち、おいしかったです」


 そう付け加えて、リビングを出る。


 オレは朔夜くんの部屋に戻って、俊平くんから借りたタオルを手に取った。


 洗濯をされたはずのそれは、あの日とおなじでふんわりとやわらかい。


 あの笑顔に見覚えがあったのは、本当にどこかで出会っていたからなんだろうか?


 もしそうなら、どこで? いつ?


 自分の記憶が曖昧になっているのは仕方がないにしても、こうまで記憶が引き出せないのは不安になる。


 このタオルは、オレがこちらの世界にいるのだと核心付けるものでもあったから、手放してしまうと、またあちらの世界に戻ってしまうんじゃないかと錯覚してしまう。


 本当、不思議だ。あの公園で彼に、俊平くんに出会うまでは、オレはあちらの世界に戻りたいと思っていたのに。戻り方が解らなくて、ずっとあそこで待っていたのに。


 それなのにいまは、戻りたくないと思っている。


 あちらの世界の扉が開くのを、期待しなくなったわけじゃない。それでも、――。


 オレはそのタオルの感触を確かめるように握り締めながら、部屋を後にした。




* * * * *




 23時を回るころ、聡一郎が戻ってきた。


 聡一郎はいつも帰ってくると、オレが寝ている隣の部屋に鞄を置いて、普段着に着替えてからリビングに降りる。オレはその、部屋から出てきたタイミングを見計らって、部屋のドアを開けた。


「おお、お、おかえり」


「ただいま」


 ものすごいどもりながら言うと、聡一郎が笑いを堪えながら返事をした。


 そして、オレが話しかけたことの意味に気付いてくれたらしい。聡一郎はなにも言わずに朔夜くんの部屋に入って、ベッドに腰を下ろした。


「どうした?」


「あ、あの、家政夫さんの、こと」


 そう言ったら、聡一郎は「ああ」と軽く相槌を打って、足を組んだ。


「朔に聞いた。一緒に桜もち食ったんだって?」


「う、うん」


「それで?」


「あ、あの傘とタオル、家政夫さんのだった」


 そう言ったら、聡一郎はものすごく納得したような顔で、「だから見覚えがあったのか」と呟いた。


 どうやら朔夜くんの言っていることが正しかったらしい。そう言ったら、聡一郎が苦笑を漏らした。


「こんな偶然もあるんだな」


 聡一郎がどこか感慨深そうに眼を細めて言った。


「俊はうちの家政夫だろ? だから、わざわざ公園で張り込む必要がなくなったわけじゃないか」


「そう、だけど」


 オレがこんな時間まで起きているからだろう。聡一郎は言いながら、笑いを噛み殺すようにしている。


 なんとなく、ムッとする。ただ単に部屋の電気を消しているだけで、寝ているようで寝ているわけじゃない。そう言ってやろうかと思ったけれど、言わなかった。


「それが言いたかっただけだから」


「もしかして、そのために俺の帰りを待っていたのか?」


 いつもオレに意地の悪いことを言ってくるときのように、口元が笑っている。


 そんなわけがない、とか、うぬぼれているの? とか、皮肉でも言ってやりたくなるような表情だ。


 けれど、否定する気になれなかったオレは、少しの間を置いて、頷いた。


「聞きたいことが、あって」


「聞きたいこと?」


 不思議そうにオレを眺めてくる聡一郎を見上げて、頷く。


「オレ、生きてるよね?」


 オレにとっては、至極大事なことだ。これからのことを左右しかねない。


 ほかの誰にも分からないだろうけれど、オレはまだ、こちらの世界にいるのか、それとも向こうの世界に戻っているのか、時々理解ができなくなる。


 だから訊ねたというのに、聡一郎は一瞬ぽかんとした顔をして、大きな溜め息をついた。


「試してやる」


 言って、聡一郎が、サイドテーブルに置いてあった新聞紙を丸めて、オレの頭を思いきり叩いた。


「いたいっ、なにするの!?」


「痛いってことは生きてる証拠だろ。良かったじゃないか、生きてて」


 嫌味っぽく聡一郎が言ってくる。けれどその顔が、目が、少しも笑っていないことに気付いて、オレは反論の言葉を飲み込んだ。


「お前ね、冗談でもそういうことは言うな。生きてなきゃ、ここにいるはずがない。


 そもそもマジで、ガチで死に掛けた人間の言っていいセリフじゃないだろうが」


 言いながら、聡一郎がオレの頬を思いきり引っ張ってくる。痛い痛いと抵抗してもきちんと言葉にならないからか、聡一郎がやめてくれる気配はない。


 自分の言ったことを後悔した。聡一郎なら、適切でなくてもそれに近い答えを返してくれると思ったからたずねたというのに。まさかこんな表情をさせてしまうだなんて思わなくて、なんだか罪悪感が込み上げてくる。


 丁度、聡一郎の手が、オレの頬から離れていく。ヒリヒリする両方の頬を撫でながら、恨めしそうに聡一郎を見ると、また大きな溜息をついて、前髪を掻き上げた。


「‥‥ご、ごめん、ね」


 なにかを言いたげな、それでいて、敢えて言葉を飲み込んでいるような、複雑な表情の聡一郎に。


 聡一郎はオレに視線を寄越さず、溜息をついた。


「ホントだよ。俺がどれだけ心配したと思ってやがる、この鈍亀」


「ご、ごめんって言ってるじゃない」


「うるさい。謝って済む問題なら怒るか」


「‥‥じゃ、じゃあ、どうすればいい?」


 なんだか本当に怒っているらしい。小さい頃からそうだけれど、聡一郎は普段怒らない分、怒ったら怖い。それに、オレはどちらかというとコミュニケーションをとるのがヘタなほうだから、どうやったら聡一郎の機嫌が直るかなんてわからない。


 べつに、聡一郎と口を聞かなくたって、どうせオレはいつも部屋に閉じこもっているんだから、支障はないじゃないか。一瞬そう思ったけれど、オレは惰性を貪る心の中の自分のセリフを一蹴した。


 聡一郎はなにも言ってくれない。ただ、オレの隣にいるだけだ。


 ピリピリした空気が伝わってくる。そのせいかなんだか窮屈さを感じてきて、オレはベッドヘッドに身体を預けた。


 オレと聡一郎の間には、完全に沈黙だけが流れていた。


「1日1回、リビングに降りて来い」


 突然、聡一郎が言った。


 どのくらいの間無言だっただろうか? 実際にはほんの数分だったかもしれない。けれど、オレにはかなりの時間に思えた。


 聡一郎の言葉に身体を起こす。すると、聡一郎はいつもの余裕を携えた笑みを口元に浮かべ、オレを見た。


「で、朝、昼、夕のどれでもいい。必ず一食食え」


「‥‥欲しくないときは?」


「それでもいい、とりあえず降りて来い」


 そう言って、聡一郎が立ち上がった。


 さっきの沈黙は怒っていたわけじゃなくて、オレへのペナルティを考えていただけなんだろうか? それならそれで、言ってくれればいいのに。怒らせたかと思って、本気でうろたえそうになったじゃないか。


 視線だけで訴えていると、聡一郎がニヤリと口元を上げた。


「降りてこなかったら‥‥そうだな。1週間俊のうちにレンタルしよう」


「ええっ!?」


「あそこの保護者は怖いぞ。好かれればいいが、嫌いな人間にはとことん辛辣な上、沈黙を貫き通すからな。


 それにあそこじゃ保護者のいうことが絶対だし、ナオがなにも食べないとかふざけたことをぬかしたら、無理矢理にでも口の中に押し込んでくるだろう。俊が荒れていた時期も、実際二言三言で黙らせた経歴のあるヤツだしな」


 『お前にゃいい薬だ』と、聡一郎。そんな怖い人と俊平くんは一緒に生活しているのか。それならあんなに礼儀正しくもなるなと心の中で呟く。


 聡一郎は本気なのか冗談なのかわからないことを真顔も笑顔でも言う人だけれど、これはきっと本気だ。オレからどうすれば許してくれるのか訊ねているわけだから、こういう答えが返って来ても文句は言えない。


 オレは眉を顰めたまま聡一郎を見上げて、言った。


「き、気をつける」


「そうしてくれ。俊には事情を話しておくからな」


 『せいぜい気をつけるこった』と言い残して、聡一郎が部屋を後にした。


 ああ、勢いとはいえ、なんていう約束をしてしまったんだろう。


 聡一郎のことだ。もし約束を破ったら、問答無用で部屋から引きずり出されるんだろうな。


 けれど、聡一郎があんな顔をするほど心配をかけていたのは事実だ。


 1日1回リビングに‥‥が、毎日続くとなると、俊平くんとも顔を合わせることになるのだろうか。


 俊平くんのことは嫌いじゃない。だけど、いまはまだ、あまり顔を合わせたくはなかった。誰かと話したい気分ではないし、どちらかというと、放っておいてほしい。


 そう思ったけれど、オレはふと思いついた。そういえば、聡一郎は時間の指定をしていない。だから、リビングに降りるなら、聡一郎がバタバタしている朝か、無人になる昼間がベストだろう。時間の指定はなかったし、パッとリビングに降りてパッと部屋に上がればいい。もし聡一郎に時間が短いと突っ込まれたら、『何分以上とは言われなかった』としれっと言ってやろう。そう算段しながら、オレは飲みかけのココアを飲み干した。

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