コハネ

鐘町文華

コハネ

「この世は溺れそうだから、夢の中だけで呼吸できる生き物になりたいの」

 コハネは微笑んだ。厚い雲の隙間から、光が差していて。艶のある長い髪が風に揺れて。シャボンの香りが私まで届いて。肌がざわついて。息が詰まって。彼女から目が離せなかった。


 同じクラスのコハネ。前からヘンな子ってウワサがあった。たまたま席替えで私ととなりになって、仲良くなってみても、やっぱり彼女は不思議な子だった。

「このパック牛乳も、私の未来と同じかも。終わりがどこか見えないから」

「塩素のにおいって素敵。きっと人生は、こういうことを思い出しては忘れながら続いていくんだろうなって思う」

「この世界の綺麗な部分を切り取って、言葉っていう永遠にしたいの」

 なにがなんだかよく分からない。ただ、彼女は花のような容姿で。小鳥のような声だから。ヘンなセリフも画になって、見蕩れてしまうから悔しかった。


 放課後。帰る準備をする私の顔をのぞきこんで、彼女はこうささやいた。

「ね、ユズキ。これを見て」

 使い込まれた風合いのある、1冊のノートだった。花と鳥で彩られた表紙をめくると、コハネの細い筆跡で、文字が綴られている。これは、詩?

 それを読んでいて、やっと分かった。コハネは詩を書く人に憧れているんだ。

「来て。空に近いところで、詩集を読もう」

 彼女の白い手に誘われると、抗うことができない。ふらふらとついて行った先は校舎の屋上だった。

 扉を開け、ふたりで屋上に出る。風が強い。髪を押さえながら、コハネの方に目を向けた。彼女は強風を気にしていないように、ただ凛と立って、詩集のページをめくる。赤く色づいた唇から、美しい言葉たちが流れ出ていた。声は鳥のさえずりのように可憐で、それでいて蠱惑的で。思わず息が止まる。ずっとこれを、見て、聴いていたい、なんて思ってしまう。

「ね。素敵でしょ?」

 詩集をぱたりと閉じて、コハネは私を見つめた。その頬は上気していて、瞳は潤んでいて。彼女の表情に、心臓を掴まれた気がした。

「この世は溺れそうだから、夢の中だけで呼吸できる生き物になりたいの」

「コハネ。詩人になりたいの?」

「思うがままに生きていて、おかしいって後ろ指さされるくらいなら、夢で息ができる生き物でいたいんだ。――ユズキは、どうなの? 呼吸、できてる?」

 なんてこと言うの。いままさに、あなたのせいで、息ができないでいるのに。

「瞳で分かるんだ。あなたもこの世界を、言葉で切り取っているんでしょ。ねぇ、ユズキ。夢の中だけで呼吸できる生き物に、なろうよ。ふたりで」

 ――違うよ、コハネ。私が言葉で切り取ってるのは、世界なんて大それたものじゃなくて。あなたひとりだけなんだ。

 でも、そんなこと言えるわけなくて。代わりに出たのはこんな言葉だった。

「いいよ。私もこの世に溺れてる。コハネがとなりにいるのなら、夢で息する生き物になりたい」

 コハネは満足気に目を細める。

「世界に溺れないように、夢で息継ぎしようね」

 私が溺れているのはコハネ。言葉で切り取っているのもコハネ。夢でとなりにいるのもコハネ。

 夢でも息できないかもね。いつか窒息して死ぬのかも。それでもいいか。コハネに切り取られる、世界の一部になれるのなら。

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コハネ 鐘町文華 @fumika_kanenone

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