精神鑑定報告書(証拠不採用)

精神鑑定書

(事件番号 永劫歴第40劫(冥)第61号)


【付記】

本鑑定は、被告人ウルスラ・ヨアンナ・グラウエンリヒト13世の精神状態を明らかにするため、審判王の命により執行されたものである。

しかし、その記載の一部には冥府の治安維持、人口政策、対外均衡に直結する極めて機微な事項が含まれており、これを公開すれば冥府の秩序に甚大な混乱を引き起こす危険がある。


このため大審院合議の全会一致の決定により、本鑑定は公判証拠としては不採用とされた。

ただし弁護側の防御権を尊重し、限定的な閲覧のみを許可する。


※ 厳重警告 ※

本鑑定の内容を審理場外において一言一句たりとも漏洩してはならない。

違反した者は、当事者・弁護人・傍聴人を問わず、即刻 地獄下層における果てなき労働刑に処され、労働を終えた後にはコキュートスの穴へと投下され、転生の望みも無く魂ごと抹消される。


——インフェルヌム大審院 第一冥刑部



***


鑑定主文

永劫歴第841劫疫病の月12日、インフェルニア地獄高等裁判所 第三刑事部裁判官より、被告人ウルスラ・ヨアンナ・グラウエンリヒト13世に関する下記事項の鑑定を命ぜられた。


鑑定事項

一、被告人の性格および本件行動との関連、特に行為時の精神状態について

二、被告人の処遇上考慮すべき精神医学的所見について


鑑定経過

鑑定人らは同日より鑑定を開始した。被告人との面接調査、各種心理検査、知能検査、ならびに親族証言記録を照合し、人間界でのあらゆる行動記録を参照した。


鑑定人


ハインリヒ・ゴーリング(プルートニア医科大学 精神医学教室 教授)


エルンスト・リューディン(インフェルニア市立医科大学 精神病理学講座 教授)


ドロレス・マリア・リー(ステュクス精神分析研究所 主任研究員)



なお、インフェルニア市立医科大学ヘンリー・コットン准教授については鑑定人候補に挙げられたが、複数の反対意見により参加は見送られた。



***



第一章 生育歴


被告人 ウルスラ・ヨアンナ・グラウエンリヒト13世は、永劫歴第12劫嘆きの月24日、インフェルニア市において出生した。


被告人 ウルスラ・ヨアンナ・グラウエンリヒト13世は、幼少期からきわめて聡明で、記憶力・計算力に優れていたことが報告されている。WAIS知能検査の結果も、全体的に常人を大きく超える数値を示している。


しかし情緒的な愛着形成には乏しく、本人は「家は居心地の悪い牢獄のようであった」と述懐している。乳母や召使に囲まれて育ったが、本人は彼らとの関わりも必要最小限にとどめ、自らの遊びや空想の世界に耽る傾向が強かった。


学齢期に入ると、母親の勧めでインフェルニア王立学院に入学したが、被告人は規律や集団行動を軽視し授業に出席しないことが多く、屋上や廃墟に一人で籠もる姿がしばしば目撃されている。268年に及ぶ留年の末、卒業には至らなかった。


同校時代の証言としては「悪気なく気さくだが、何を考えているか分からない」「違和感を与える性格」というものが多く、他人と打ち解けることが難しい性格だった。

また、「私は天才である。教師から得るものはない」と公言し、時に教師を皮肉や詭弁で煙に巻いた。この傾向は、被告人が他者を欺き支配する能力の持ち主とも解釈できる。


ただし例外的に、生物学教師が受け持っていた倫理学の授業にのみ関心を示し、倫理や哲学について積極的に学んでいた。この倫理学への強い関心が、本事件の背景にあることは言うまでもない。


その後、父の強い勧めによりアケロン士官学校に入学。座学・実技ともに優秀であり、学長賞を受けるほどであったが、突如として退学。以後は定職を持たず、浮浪者に近い生活を送った。


精神医学的観点からは、本人の成育歴は一貫して「知的能力の高さ」と「情緒的結びつきの欠如」という二つの要素によって特徴づけられている。これらは今に至るまでの被告人の「軽薄に見える態度」「他者を煙に巻く言動」といった行動傾向につながっていると考えられる。



***



第二章 家族歴・生活歴


被告人の家庭は、地獄軍総司令官コンラート・グラウエンリヒトと、著名な数学者であるエロイーズ・マリブラン(現グラウエンリヒト)を両親とする名門貴族である。


父コンラートについて


コンラートは軍人として冷徹かつ規律に厳しく、同様の態度で幼少時から被告人と接した。感情表現は乏しく、娘に対しても弱さを許さぬ態度を徹底した。被告人に士官学校への入学を強制したことも、その一環と考えられる。父親の冷酷な態度は、被告人の「感情を隠す」「弱音を吐かない」という性格傾向を形成した要因の一つと推察される。


被告人は父との関係について「尊敬というより、終始監視されているようだった」と述べている。コンラートは、娘に軍人としての資質を求め、たびたび強制的に士官教育を施そうとした。とりわけアケロン士官学校への入学は父の意向によるものであった。


士官学校での被告人は、学業成績においては優秀であり、座学・戦術ともに首席を取った。被告人は、同級生の証言によれば「皮肉屋で人をからかい、軽薄な態度を崩さないが、いざ集団を率いるとなると不思議と協調的でカリスマ性を発揮する」人物で、奇妙な二面性を持っていたと記憶されている。


だが、突如として退学し消息を絶つ。この行動を父は「家名への裏切り」と捉え、部下に探索を命じた。その結果、被告人は煉獄地区のスワンソング・ホテルに潜伏しているところを発見された。直後に、父の政治的な思惑のもと、ルシファー王との政略結婚が取り決められたとされる。



母エロイーズについて


エロイーズは山羊の悪魔であり、ステュクス高等学院で教鞭をとる数学者である。研究一筋である一方、家庭への関心は乏しく、被告人は「母におぶられた記憶がない」と述べている。被告人は幼少時、母親から面と向かって「あなたはわたしの研究の邪魔だ」と言われたことを鮮明に記憶しており、この体験が被告人にとって強いトラウマになっている。母性の欠如は本人の情緒的発達に大きく影響し、他者への信頼形成を著しく困難にした。

母は被告人を「落ち着きのない干渉因子」と評し、育児的関心をほとんど示さなかったが、その反面、学問的能力を高く評価し、被告人をインフェルニア王立学院に入学させたのは母の意向であった。


母娘の関係は冷淡であったが、被告人ののんびりとした気質や独自性は母の性質を色濃く受け継いでいる。家庭において母から愛情を受け取った記憶は希薄であるが、精神鑑定的にみれば「親からの情緒的承認が欠如したこと」が、被告人の孤立性や他者への無関心を形成したと考えられる。



家族関係の総合的評価


父の冷酷と母の無関心、この二重の剥奪こそが被告人の情緒形成を決定づけた。

被告人は規律や権力を表面上は従順に受け入れながらも、内心では徹底して侮蔑し、反発を蓄積するという態度を示す。士官学校でのリーダーシップも、体制への忠誠ではなく「権威を逆手に取って利用する」行為にすぎなかったと解される。


本件に至ったのも、単なる偶発的な衝動ではなく、幼少期より積み重ねられた権力への嫌悪と不信感が最終的に爆発した結果であると理解できる。


生活歴


家庭から離れ一人暮らしを始めて以降、被告人はますます両親と疎遠になった。学業を軽視し、カジノや酒場に出入りするなど奔放な生活を送りつつ、唯一の安住の場を スワンソング・ホテルに見出した。また違法薬物を嗜むようになったのもこの頃である。


このような生活歴は人間社会では逸脱的に見えるが、地獄においては「力ある家門に生まれた者の典型的逸脱」として認識されており、とりたてて異常とは評価されない。むしろ「父の規律と母の放縦」という両極端な家庭環境が、被告人に独特の気質と自由奔放さを形成したと解釈される。



***



第三章 生活態度および事件に至る経緯


一般的生活態度


被告人は、幼少期より「のんびりとしたマイペースさ」と「他者を煙に巻く軽薄さ」を併せ持つ性格傾向を示してきた。王立学校時代のクラスメイトからは「走っているところを見たことがない」と証言される一方で、士官学校の軍事訓練下では驚くべき集中力とリーダーシップを発揮するなど、環境に応じて態度を変化させる柔軟性が見られる。


本人は「努力しているように見られるのは嫌い」と述べ、実際には高度な知性と技能を有しながらも、それを軽く披露することで、あたかも凡人として周囲に受け取らせる傾向がある。


また被告人は、他者を欺いたり、軽く傷つけたりすることに対して罪悪感を抱かない。これは人間社会においては「反社会的」と診断され得るが、地獄においては、悪魔として当然の規範であり文化的に正常な行動と解釈される。



事件に至る経緯


被告人は士官学校退学後も自由気ままな生活を続け、しばしばスワンソング・ホテルを拠点とした。

その後、政略によりルシファー王の第一夫人となるが、夫婦としての交流は皆無であり、王妃の立場を「名ばかり」と見なしていた。


転機は 「自殺部隊スーサイド・スクワッド政策」 に従い人間界へ派遣されたことである。このは本人にとっても寝耳に水であり、身の回りの準備をする暇もなく現世へ送り込まれた。


人間界で被告人は、自殺志願者との交流を活発に行なった結果、従来の「悪魔的規範」とは異なる感受性を示し始めた。その結果、本事件を企てるようになった。



精神医学的所見と診断名


鑑定に基づき、以下の診断が妥当と考えられる。


1. 自閉スペクトラム症傾向

 幼少期より他者との交わりを避け、孤立を当然視。母親の影響もあり、独自のリズムで生活する傾向が強い。


2. 反社会性人格特性

 他者を欺き傷つけても罪悪感がなく、それを「当然」とみなす。これは地獄文化における適応的行動であり、異常とは言い難い。


3. 存在論的不安に基づく抑うつ症候群

 人間界での体験により「生の意味」「運命」「永遠の苦しみ」といった哲学的問題にとらわれ、抑うつ的傾向を呈する。これは悪魔にとっては異例であり、今回の裁判における核心的要素と考えられる。


総合的にみて、被告人は 自閉スペクトラム症傾向と反社会性人格特性を基盤に、存在論的不安による抑うつ状態を併発していると診断される。



***



第四章 本件犯行時の精神状態


本章では、被告人ウルスラ・ヨアンナ・グラウエンリヒト13世に対し行った問診の記録を示す。



第一節 事件直前の精神状態


〈人間界に派遣されると告げられたのはいつか〉

姦淫の月の中旬ごろ。

〈それについてどう思ったか〉

なぜ? と思った。私は人間界について詳しくなかったし、自殺部隊スーサイド・スクワッド政策についてもあまり知らなかった。私より適任がいるはずなのに、私が選ばれたので、なにか大きなことに巻き込まれているような気がした。

〈大きなこととは、親か。夫か〉

両方。私は誰にとっても邪魔な存在だったから。政策は結局のところ、私を地獄から追放するための方便だと思った。

〈両親や夫に対しての不満があったか〉

あるにはある。

〈それでなにか事件を起こそうと考えたか〉

復讐のために?それはない。

〈憎悪の気持ちはないと言えるか〉

両親に対して、ないとは言えない。でも夫は……そもそも会ったことがない。どんな人か知らないし、興味もない。だから事件とは関係がない。

〈つまり他者は無関係だと〉

はい。私が自分で考えて自分でやったこと。子供の頃親に甘えられなかったとかは、今言うことはないと思う。


死神協会のこと

〈はじめて自殺を目撃したのは〉

人間界に行って数週間後……早い時期だった。自殺が多い場所がいいだろうと思って、ニナと一緒に日本という国に行った。

〈ニナと二人だけ〉

いや。ニナの住むドイツから日本へ移動するとき、ユリィに会った。

〈ユリィとは〉

死神協会の一員で、東アジア地区の担当。それで、この政策は死神協会を怒らせるだろうし、協会に話を通していないかもしれない、と不安になった。

〈つまり自殺部隊スーサイド・スクワッド政策は冥府が独断で行っていると〉

私が迂闊だった。ユリィに会って、特に考えもせず政策のことや私のことを伝えたら、明らかに様子が変だった。まずいことになったと思った。

〈まずいこととは〉

死者の魂は最後の審判の時までは死神協会の管轄で管理されている。しかし政策は、死神協会を無視して、自殺者を増やそうとしている。こんなことは天国も承知していないだろうし、私は自分がをしているという自覚がなかった。それでユリィはその場で協会に問い合わせ、そんなことは悪魔にも天使にも許されていないと言われた。


※以下、機密保持のため本文削除



***


第五章 処遇上の考慮事項


被告人ウルスラは、問診の過程において本来地獄政府の管轄を逸脱する存在の役割に繰り返し言及した。具体的には、地獄政府の政策が本来は死神協会の管轄に属する領域を迂回して行われようとしていること、またその事実を彼女が認識していたことが示唆される。


この証言は、現下の地獄政府にとってきわめて政治的・外交的に繊細な内容を含むものであり、もし裁判においてそのまま提示された場合、地獄と死神協会との間に深刻な摩擦を引き起こしかねない。


したがって、本鑑定書は下記の留保を明記する。


1. 本書に記された死神に関する発言は、あくまで被告人の主観的言及にとどまり、事実関係の裏付けは存在しない。


2. 裁判資料として用いる場合、該当部分は編集または秘匿されるべきである。


3. 当鑑定団としては、当該情報が外部に漏洩することの危険性を強調し、厳重に管理されることを求める。



結論として、本鑑定書は被告人の精神状態を明らかにする上で有用であるが、生者の魂の管轄問題に関する部分を含む限り、公判における証拠採用には重大な制約が生じる。この点を十分考慮の上で、使用可否を決定されたい。


永劫歴 第40劫 裏切りの月8日



ヘンリーへ

結局、原本の写しをもらうことができなかった。それに、内容を考えれば裁判でこれを証拠に使うことはできないでしょうね。

ウルスラは利用された。こんなに卑劣なやつらが大勢いるなんて、本当に地獄のような場所よ。(これは、ジョーク……はは。)

あなたをこれ以上巻き込みたくない。多くを知ってしまったら、あなたも罰を与えられる。だから、協力してほしいとは言わないわ。ええ……精神科医たちすら逃げ出したようなありさまなのだからね。なにもかも冗談のような事態だわ……

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