心的外傷

HY

心的外傷

 一.


 ……また、やった。やってしまった。なぜ、いつもこうなるのか。なぜ、何度も繰り返すのか。……なぜ、わたしはこの世に存在しているのか。なぜ、ナゼ……何故! 物心ついた頃からずっと考えている。だが、これといった答えが出た試しがない。よくある表現に、『先の見えないトンネルにいるみたいだ』というものがあるが、『先が見えないトンネル』ということは、見えないだけで『先が存在する』という可能性もあり得るのだろう? 手探りでも、前に進めるだけマシではないか。今の自分には『未来』なんてものは存在しない。ただただ、どうあがこうとも変わることのない『過去』があるだけである。


 私が何も考えずに飛び乗ったバスの車内には、私を含め四人の乗客がいた。行儀は悪いが、裸足になり膝を抱える。嗚呼、どうせ、誰も私のことなど見ていないのだ。窓の外を見やると、影に縁取られ、光を失った瞳と目が合った。いつから、こんなにも落ちぶれてしまったのだろうか。自分の人生を振り返ってみると、自分の不遇な人生は、既に子供のときから始まっていたように思われる。私の指向が他の人とは違うことには、その頃から薄々気が付いていた。周りの男子たちが同級生の可愛い女子たちに心をときめかしている頃、私は駆けっこの速い男子に目を奪われていた。周りとは違うことに気付いた私は、なるべく人と関わることを避けた。作り笑いを浮かべ、当たり障りないように世を渡っていくよりか、一人で生きていくことのほうが、私にはたいそう簡単で楽に思えた。端から見れば、私はさぞ面白みのない子供だったろう。口の端を上げることもなく、声の調子も変わらない。学生時代はそれでよかった。しかし、一度社会に出るとそうはいかなかった。嫌なこと、嫌な予感のするものから脱兎のごとく逃げていた私には、社会で生きるための能力が何一つ備わっていなかった。不適合者の烙印らくいんを押された私は、世間の荒波に押し出されるように作家の道に進んだ。決して、自分に特段文才があったというわけではない。小手先の技術を勉強する時間が、他の人よりもふんだんにあったというだけである。


 バスに乗り込んでから三十分ほどした頃、バスは停車した。そこから少年が一人乗ってきた。このような時間に子どもが一人で出歩くなど、なんと不用心な。世も末である。その子どもは、がらんどうの車内を見回したあと、あろうことか私のすぐ隣に座った。跳ねるように座席に座った少年は、バスが発車するとこちらに向き直り、私の目を覗き込んできた。


『お兄さんを迎えに来たよ。一緒に帰ろ?』


 ついぞ、私は気が狂ったか。天涯孤独のこの私に、子どもの知り合いなんぞ存在しない。一人として、だ。それに、到底私は『お兄さん』なんかに見えるわけがないだろう。こんなにもくたびれているのだから。きっと少年の人違いだろう。


『お兄さん、どうしたの? 次の駅で降りるよね?』


 少年が懲りずに話しかけてくる。少ないとはいえ他に乗客もいる。流石に体裁が悪いため、靴を履きながら質問する。


「君と私は知り合いじゃないだろう? 誰かと間違えてはいないかい?」


『ううん。お兄さんで合ってるよ。ほら、早く行こう。』


 少年は急に私の手を取って走り出した。いつの間にか停車していたらしいバスから、賃金も払わずに飛び降りる。途端に、私の身体は白い光に包まれた。


『ボクを助けて』


 私の手首を掴んでいた少年の手が離れる。助けて? 私にどうしろっていうのだ、待てよ。少年の手を掴もうとするが、如何せん光が強くて前が見えない。私の手は虚しく空を切った。助けてくれって言ったって、私は君のことを何も知らない。君は誰なんだ?


『ボク? 自分はもう捨てたから、わからない。』


 わからない?じゃあ、助けようがないじゃないか。




 二.


「あんたいつまで寝てるの! 早く出てきなさい!」


 台所からの大声で目が覚めた。毎朝のことだが、もう少し寝かせてくれてもいいと思う。だが、このまま反抗して寝続けると母の癇癪かんしゃくがドカンだ。朝食抜きになってしまう。仕方がない、おとなしく起きるとしよう。部屋を出ると、焼けたパンの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。


「ちゃちゃっと食べちゃいなさい。学校に遅れちゃうわよ。」


 学校?そうか、学校に行かなくてはならない。今日は夏休み明け最初の登校日だ。急いで朝食をかき込み、支度をささっと済ませた。母の「行ってらっしゃい」という声を背に家を出る。通学路には同じ中学校に向かう学生がちらほら見えた。


 四階の教室まで上がって座席に座ると同時に予鈴が鳴る。本鈴が鳴るまでまだ五分あるが、私にしては遅い登校時間だ。間に合ってよかった。新学期早々遅刻など、絶対目立ってしまう。カバンを机の横にかけ、体を机の上に伏せて周りをこっそり観察する。私が通っている桜町第三中学校は三つの校区がちょうど重なる位置にあるため、マンモス校で、単純計算三分の二は知らない生徒なわけだ。しかし、どこかぎこちなかった一学期の空気はいつの間にかなくなり、皆『いつもの』グループで楽しげにおしゃべりをしている。彼らの話題はもっぱら、夏休み中の旅行だの花火だのといった出来事についてである。夏休み中どこにも出かけておらず、おしゃべり出来るような『友達』などいない私には縁のない話だが。


「ギリギリセーフ! まだ本鈴鳴ってないよな。あっ、おはよう直樹!」


 いや、間違えた。学校で話せる人が全くいないというわけではない。腐れ縁の幼馴染ならいる。このバカでかい声で私に話しかけてくる奴が私の幼馴染、真鍋まなべ 健太けんただ。


「ああ、まだ鳴ってないぞ。今日も朝から慌ただしいな、君は。」


「お前も相変わらずだな。せめて元気いっぱいって言ってくれや。やっべ、先生来た。じゃあな!」


 幼少の頃から、ただ近所に住んでいるだけの何の面白みもない私に、奴は飽きもせず何度も話しかけてきた。誰ともかかわらないと決めていた私が絆されていったのも、無理のない話だろう。


「皆さんおはようございます。夏休みはしっかり羽を伸ばせましたか? 今日は人権講演会があるので、始業式が終わったらそのまま体育館に残っておいてください。」


 担任の言葉を聞いてクラスがざわめく。確かに、始業式の後の講演会は少し、いや、だいぶ面倒くさい。しかも人権講習会ときた。大切なのはわかっているのだが、如何せん眠たいのだ。


「大切なことなので、しっかり聞いて下さいね。それでは、移動を始めましょう。」


 クラスメイトたちはダラダラと席を立ち、ぞろぞろと廊下に出る。私もその列に続いて体育館へ向かった。私のちょっと前を、健太とその友達数人が団子になって歩いている。健太は社交的でいつもクラスの中心にいる。それなのに、陰気な私にいつも声をかけてくるのは何故なのだろうか。近所のよしみと言うには面倒見が良過ぎる気がする。


 当たり触りのない校長先生の話の後、部活の大会の表彰があって始業式は終了した。他の学年がはけるのを待つ間、前に座っていた健太がこちらを向いて話しかけてきた。


「直樹、夏休み明け初っ端から講演会ってだるいよな。」


「健太、ちょっと声のボリューム落とせ、先生に聞こえるぞ。でも、そうだな、正直だるいよ。」


「だよなぁ。」


 なぜだか、このくだりを前に一度やったことがある気がする。健太との馬鹿げたやり取りは日常茶飯事だから、何かと間違えただけだろうか。


 そうこうしているうちに、講演会が始まった。前に投影されたスライドには、大きな虹色の旗がはためいている。


「皆さんこんにちは。虹色広場支援員の佐々木です。今日は皆さんに私達の取り組みを交えながら、セクシュアリティについて知識を深めていただければと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。」


 今日は、セクシュアリティやLGBTQについての講演会のようだ。佐々木と名乗った壮年の男性と目が合った気がして、少しドキッとした。講演は粛々と進んでいった。睡魔に襲われてしまっている生徒も、ぽつぽつと見うけられたが。


「最後に、皆さんの中にも自分のセクシュアリティについて違和感を持ったり、疑問を持ったりしている人もいると思います。悩んでいたら、決して一人で抱え込まないでください。虹色広場のパンフレットをお配りします。いつでもご連絡をお待ちしています。」


 配られたパンフレットには見覚えがある。やっぱり知っている。覚えている。そうだ、それでこの後、健太が振り返って…。


「男が男を好きとか、正直ちょっと気持ち悪いよな。」


 脳裏に衝撃が走った。私は、タイムリープしている? 私を何かと気にかけてくれる健太に、私は淡い恋心を抱いていた。ただの依存だ、執着だ、と言われてしまえばそれまでなのだが、きっとこれは恋心だった。まあ、それも健太本人に打ち砕かれてしまった。それも二回。だが、健太を責めることはできない。健太は私の気持ちには気づいていなかっただろうが、私みたいなつまらない奴に想いを寄せられて、いい迷惑だったことだろう。それでも、私の想いは否定してほしくなかった。誰にも迷惑は掛けていない、私の内にあるこの想いは。意識が遠のいていく。遠くで私を心配する健太の声が聞こえた気がした。


 「あら、三島さん起きたのね。大丈夫? 気分が悪いとかないかしら?」


 目を開けると、私を覗き込む保健医と目が合った。私は、講演を聞いていて、そうしたら…そうか、私は倒れたのか。


「大丈夫です。」


「そう? 一応これ飲んでおいて。」


 渡されたスポーツドリンクを一気に飲み干す。状況を整理すると、夜のバスに乗っていた三十五歳の私は、謎の少年に連れ出されると光りに包まれ、中学生の頃にタイムリープしていた。自分で言っていて、意味がわからない。一体全体、私の身に何が起こったというのだ。考え込む私に保健医が話を切り出す。


「さっき、ひどくうなされていたのだけど、何か悩みがあるのだったら、私に話してみない? 話すだけでも、楽になることもあるのよ。」


 私の指向を誰かに打ち明けたことは今まで一度もなかった。しかし、健太の心無い言葉を聞くのも二回目である今は、悲しみよりも怒りが勝っている。何故人と違うからと言って私が閉じこもらなくてはいけないのか。この鬱憤うっぷんを誰かにぶつけたくなった。勢いに任せ、保健医にすべてを話してしまった。もちろんタイムリープしていることは言っていない。一時の感情に任せた整合性のない私の話を、保健医は頷きながら静かに聞いてくれた。


「三島さん、話してくれてありがとう。そうだ、今日講演会に来た虹色広場っていう支援団体、私の友達が運営してるの。でね、明日その交流会があるんだけど、参加してみない? 私が話を通しておくわ。気が向いたらでいいからね。はい、これ、交流会のパンフレット。」


 交流会…。前回とは違うことをしてみるのも、悪くないかもしれない。


 様子を見に来た担任に挨拶をして、保健室を後にした。帰宅すると、珍しく母と父が揃ってリビングに座っていた。


「直樹! 講演会の途中で倒れて保健室に行ったって学校から電話をもらったんだけど、大丈夫だったの? もうなんともない?」


 今までのことを思い出した今、母からの心配が少しくすぐったい。


「今は全然大丈夫。保健室でも見てもらったから。」


「今、なにもないのなら良かった。…何か悩みがあるなら、俺でも母さんでもいいから話すんだぞ。」


 父はこの頃から私の様子に何か思うことがあったのかもしれない。前回は助けを求めることもせず、自分の中に閉じこもって、父や母とも疎遠になったから気づかなかった。


 夕飯を全員で食べた後、一番風呂に入った。部屋に上がり、濡れた髪のままベッドに寝転がって、保健医からもらったパンフレットを眺める。私が何故過去に戻って人生をやり直しているのかはわからないが、これは惨めだった私の過去を変えるチャンスなのかもしれない。少年の「助けて」という言葉も気になる。いつの間にかまぶたは落ちていた。


 翌日、学校が終わって一旦家に帰ってから交流会の会場にやってきた。公民館の会議室みたいなところだった。やっぱり帰ろうか。ここに来て怖くなってきた。私は本当に社交性がないのだ。参加者と交流できる自信がまったくない。昨日振り絞ったはずのなけなしの勇気は、私の中から消え去っていた。


「君は…三島さんかい? 話は聞いているよ。よく来てくれたね。どうぞ、中へお入り。」


 目の前の扉から目尻の下がった優しそうな雰囲気の壮年の男性が出てきて、手招きをする。どこか見覚えのある男性だと思ったら、昨日の講演をしていた男性だと気付いた。今さら帰るなんて言えなくなってしまったため、ショルダーバッグの肩紐を握り込み、部屋に入る。予定時刻よりも大分早く着いてしまったみたいで、部屋には招き入れてくれた男性以外、誰もいなかった。床には毛の短い敷物が敷き詰められ、五、六脚の椅子が小さな円卓を囲んでいる。


「靴脱いだら、どこでもいいから座っておいて。今、お菓子を用意するからね。」


 もしかしたら、暗黙の指定席みたいなものがあるのかもしれない。だが、それだったら先の男性がなにか言うはずだろう。ぐだぐだ考えて結局、一番扉から遠い椅子に座った。お菓子を乗せたお盆を持った先程の男性が、私の向かいの椅子に座った。


「改めて自己紹介させてもらうね。私は、この虹色広場で支援員をしている佐々木 一朗と言います。この交流会は、君と同世代の同じような悩みを持つ子たちが集まって、楽しく過ごしましょうっていう会なんだ。おしゃべりを楽しんでくれたら大丈夫だから。言いたくないことは言わなくて大丈夫。なにか質問があれば遠慮なく話しかけてね。」


 佐々木さんは終始優しい口調で、この交流会を大切に思っているのが伝わってきた。


「あれ? 新メンバー?」


 扉が勢いよく開き、一人の青年が入ってきた。細身で手足が長く、ダボッとした服を着こなしている。交流会の参加者だろうか。


「ああ、あおいくん。いらっしゃい。」


「こ、こんにちは。はじめまして。三島と申します。」


「そんな緊張しなくていいよ。いつもお菓子食べて、後はみんなでしゃべってるだけだから。あっ、俺の名前も三島だから、下の名前で呼んで大丈夫?」


「そうなんですか、大丈夫です。下の名前は直樹です。」


「直樹ね、おっけー。さっきいっちゃんが呼んでたと思うけど、俺は蒼ね。あと、敬語も外しちゃって大丈夫だよ。まあ、無理にとは言わないけど。」


 距離の詰め方が上級者だ。これが真の社交性なのかと思わざるを得ない。それと、「いっちゃん」とは、誰のことだろうか。あぁ、佐々木さんのことか。伝えたいことを言い切った様子の蒼は私の隣りに座った。彼は、他のメンバーが揃うまで私に話題を振り続けてくれた。交流会が始まる頃には、すでに緊張はほぐれ、他のメンバーとも和やかに話すことができた。交流会では、終始ゆったりとした空気が流れ、純粋におしゃべりを楽しむことができた。会がお開きになった後、蒼が話しかけてきた。


「直樹って面白いね。同級生にはいない感じで、なんか大人っぽい。ねぇ、連絡先交換しない?」


 その後、彼とは何度も連絡を取り合い、交流会以外でも度々会った。近所の公園、喫茶店、テーマパーク…会うたびに私達は打ち解けていった。私が彼に恋心を抱くのも時間の問題だった。今では、彼とメッセージを交わすのは少し緊張する。送る前に何度も何度も推敲してしまう。彼は私の遅い返事を催促することなく待ってくれる。彼にとっては普通のことなのかもしれないが、私には特別なことだった。そして、彼にとっても特別であってほしかった。こんな思いが恋で、愛なのかもしれない。そんな酔狂なことを考えてしまうくらい、彼に溺れていた。私の凝り固まった心をあたたかく解かしてくれた彼に。ただ、交流会はそれぞれの事情を表立って聞くような雰囲気ではなく、気持ちが辛くなって話を聞いてほしい、何か解決策が欲しいといった場合には交流会とは別に相談会があった。そのため、私が同性愛者であることも話したことはないし、蒼のセクシュアリティについて聞いたことはなかった。もし蒼の恋愛対象に私が入っていなかったら、そう思うと、とてもじゃないが告白などはできそうにもなかった。ふと気づくと、私はもう過去のことを執拗に考えることがなくなっていた。蒼の傍にいるとき、頭に浮かぶのは未来のことばかりだった。


 彼に出逢ってから半年が経ったある日、蒼の誘いで、初めて蒼の家を訪れた。彼の両親は仕事に出かけていて不在だという。


「おもてなしっていうほどのことは出来ないけど、どうぞ。」


「お邪魔します」


 蒼の家は一軒家で、私の家と違ってきちんと整理されていた。招き入れられた蒼の部屋で私はビデオゲームをさせてもらった。私の母も父も古風な人で、昔からビデオゲームをすると頭が悪くなると言い張っていた。健太から話を聞いてゲームに憧れた幼少期の私は、ついぞ買ってもらうことは叶わなかった。蒼とゲームをしながら、小さい頃のアクションゲームの話になった。


「あのカセットどこ行ったかな…」


 蒼がクローゼットの下半分の引き出しを探っている時、ふと視線を上げると、Tシャツやパーカーといったオーバーサイズの服の中にセーラー服が混ざっていた。


「セーラー服? 蒼、妹さんでもいたっけ?」


「ああ、えっと…」


 蒼の様子がおかしい。私の記憶では、蒼は一人っ子なはずだ。あのセーラー服は蒼のものなのだろうか。深堀りしてほしくなさそうだったため、私は先程のゲームの話を切り出し、話をそらした。


 その後、いろいろな話題で話を続けるも、先程までの軽快さはなく、蒼の表情はどこかぎこちない。これまでまともに他者と関わりを持ってこなかったため、こんな時どうすれば正解なのかわからなく、私は明るい調子で話続けるしかなかった。

 蒼が突然居直って話を切り出した。


「直樹…気まずくしてごめん。直樹には、いつか話そうって思ってたから、ちょっと時期が早まっただけだし、今から話すけどいい? 聞くのが嫌だったら、いつでも話遮っていいから。」


 私は蒼の目をじっと見て頷いた。彼の目には決意の色が浮かんでいた。浅く息を吐いた後、蒼は話し始めた。


「俺、実は『女』なんだ。身体は『女』だけど、心は『男』。いわゆるトランスジェンダーってやつ。うちの校区の中学校は、セーラー服以外選べなくて、仕方なく着てる。ほんとは嫌なんだけど、三年間の我慢。幸い、両親は俺のことを受け入れてくれて、家では気楽に過ごせてるんだけどね。でも、学校では本当の自分を出す勇気もなくて、『女の子』を演じきることも出来なくて、俺はずっと孤立してた。小さい頃、周りと違うんだって悟ったときに自分を捨てたはずなんだけど、なんか胸のあたりがジクジクするときがあって。そんなときは、虹色広場に行くんだ。メンバーのみんなは暖かく迎えてくれて、俺は一人じゃないんだって、そう思えるから。直樹に初めて会ったとき、直樹も何か抱えてて、それが溢れ出そうになってるんだなって思った。それで、俺は話しかけた。昔の自分を見ているようだったから。話をするうちに、直樹の大人びたいつもの雰囲気と、ふと出てくる子供っぽいところのギャップが面白くて。仲良くなってからは、自分の意見をちゃんと持ってて、大人っぽい直樹にずっと救われてた。」


 私は衝撃を受けた。蒼の身体の性別が女性であったことにももちろん驚いたが、それ以上に私の愚かさに嫌気が差した。私は歩み寄ってくれる蒼に甘え、自分からは歩み寄ろうとはしなかったのだ。理解してほしいと思いながら、自分は行動しない。なんと傲慢なのだろうか。私だけが不幸なのだとずっと思いこんで生きてきた。そんなはずあるわけないのに。誰もが、それぞれの悩みを抱えながら生きている。不幸自慢をしてもきりがない。その人の感じる不安は数字では測れないからだ。自分を『捨てた』という蒼に、何か伝えなくてはという使命感のようなものが私の背中を押した。


「蒼、話してくれてありがとう。…私が周りと違うと自覚したのは小学校の時だ。その頃から幼馴染に好意を寄せていたのだが、その思いは中学に入って打ち砕かれた。そんなとき、虹色広場を知って、君に出逢った。君は私に救われたと言うが、私も君に救われた。ユーモアの欠片もないこんな俺に、いつも寄り添ってくれた蒼に。私は学校での君を知らないが、他人を思いやることの出来る君は尊敬に値する。私はずっと自己中心的だったのだと、君のおかげで気付くことが出来た。君自身が君を捨てたというのなら、私が君を拾い上げよう。君の存在意義は私だ。私が存在するために君が必要だ。」


 私は興奮気味に一息で言い切った。言い終えた後、告白まがいのことをしてしまったことに気付いた。きっと私は『男』だから、『女』だから恋愛感情を抱いたというわけではいないのだ。蒼だから好きになった。人間が恋愛をするとき、『性別』を好きになるのではなく、『人』を好きになるのだから。


 お互いに言い終えた後、私達はどこか気恥ずかしくなって、目を細めて顔を見合わせた。蒼と、今までよりずっと深くわかり合えた気がした。


「あっ、そうだ。これ、プレゼント。左腕貸して。」


 なんだろうかと思いながら左腕を差し出すと、蒼は何かを私の手首に結びつけた。


「この紐、ミサンガっていって、これが切れたら願い事が叶うんだって。まあ、ただの願掛けだけどね、俺と直樹の縁が切れないようにって願いを込めといた。直樹は、なんかふらっとどこかに消えちゃいそうだから、この世に結びつけとかないと。」


 私のことを見透かしたような言葉に少しドキッとした。左腕につけられたミサンガは、何種類かの青色の紐でしっかりと編み込まれていた。


「はい、今度はこのミサンガ、俺につけて。直樹が願い込めてね。」


 蒼に差し出されたミサンガを受け取る。願い事…。私が願うのは、蒼の幸福。私を変えてくれた蒼の幸せ。普段、神様なんてものは信じていないけれど、この願いは叶ってほしいと思う。入念に願いを込めながら、ミサンガを彼の左腕に結ぶ。彼の腕に結ばれた揃いのミサンガを見ると、だらしなく目尻が下がる。互いの視線が交わると、私達は自然と笑い合っていた。


 六時を知らせる町内放送に、幸せな時間は終わりを告げられた。


「もうこんな時間だな。そろそろ御暇しようか。…じゃあ、また今度、蒼。」


「ああ、またな、直樹。」


 見送りの蒼とともに玄関に向かった。ドアを開けると私の身体は、バスから降りたときと同様の強い光に包まれた。ああ、終わりなんだな。


『ありがとう、直樹。』


 こちらこそありがとう、蒼。



 三.


 目を開くと、私はバスの座席に座っていた。隣には誰もいない。今までのことが夢ではないかと自分の頭を疑った。しかし、これまでの出来事が私の空想の産物ではないことは、左腕にはめられたミサンガが証明していた。私は料金を支払ってバスを降りた。そこは、海の近くのバス停だった。地平線が橙色に染まった紫色の霞がかった空気の中に、私は一人立っていた。ポケットから手帳を取り出し、もうすっかり覚えてしまった蒼の番号を書き留める。締め切り間近の小説を書き終え、身なりをきちんと整えたら、この番号に電話をかけてみるつもりだ。彼はもうこの番号を使っていないかもしれないし、そもそも、今の私と彼に面識はない。それでも良かった。


 少年、君は蒼だったんだな。私は君を救うことが出来たのだろうか。


 …私? 大丈夫、私は今とても幸せだよ。








 【作中で使われる用語】


 ◯セクシュアリティ


 性のあり方のこと。性のあり方を構成する主な要素には、出生時に割り当てられた法律上の性別、性自認、性的指向、性表現の4つがある。


 ◯トランスジェンダー


 出生時の戸籍上の性と性自認が一致しない人のこと。

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心的外傷 HY @H-yuko

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