横浜ブルー・ノート
はらいず
第1話 出会いの季節
港の風は、ノートの端をやさしくめくる。四月の横浜、潮のにおいに混じって、新学期の気配が街の角ごとに残っていた。
田嶋拓人——タクトは、横浜駅東口のカフェでアイスティーのストローを噛みながら、テーブルに広げた英単語帳へ視線を落としていた。今日から家庭教師が始まる。学校の先生じゃない、個人契約の家庭教師。紹介してくれたのは母で、母の同僚の姉にあたる人らしい。名前は——きょうこ。年齢は四十二。
数字の想像だけが先を走る。四十二歳の人って、どんな感じだろう。厳しいだろうか。やさしいだろうか。そもそも、自分は「教えられる側」でちゃんといられるのか。胸の奥で小さな波が立っては砕け、また立つ。
「田嶋拓人くん?」
澄んだ声が、背後から。振り向くと、黒髪を低い位置でひとつに結んだ女性が立っていた。白いブラウスに紺のカーディガン、淡いグレーのスラックス。派手さはないのに、視線がその人の輪郭を自然となぞる。
「は、はい。タクトです」
「きょうこです。今日からよろしくね」
差し出された名刺には、簡素なロゴと『学習サポート・横浜』の文字。彼女は席に腰を下ろすと、店内の明るさを確かめるように一度だけ窓の外へ視線を泳がせた。観覧車の頂点が、ビルの谷間に小さく見える。
「ここ、初回の面談にいいかなと思って。駅から近いし、うるさすぎないから」
「はい」
「まずは、タクトくんがどこへ行きたいのか、何をしたいのか、聞かせてくれる?」
彼女の声は、よく通るのに柔らかい。板書のように押しつけがましくなく、耳に入るとそのまま意味が胸に落ちる。
「……大学に行きたいです。教育学部か、心理学部。将来、家庭教師をやってみたくて」
「家庭教師?」
「はい。塾よりも、その人のペースに合わせて、じっくり一緒に勉強できる気がして。……なんか、かっこいいなって思って」
「かっこいい、ね」
きょうこは小さく笑って、アイスティーにストローを差し込んだ。氷が軽い音を立てる。
「じゃあ今日は、いくつかの『現在地』を一緒に見てみようか。英語、国語、数学……志望校のレベル感。それから生活リズム。タクトくんの“得意な勉強の仕方”を探すのが、最初の仕事かな」
面談は三十分の予定だったのに、気づけば一時間が過ぎていた。
彼女はノートに表をさっと引き、模試の判定データを書き写し、そこに色鉛筆で細いラインを重ねていく。上から見ると、線はそれぞれ違う傾きで、ゴールの手前で揃うように伸びていた。
「これは?」
「タクトくんの“伸びしろの地図”。今のままの勉強習慣で行くと、ここで頭打ちになりそう。逆に、こうすると——」
ペン先が別の軌道を示す。
「秋の模試で、英語の長文が楽になるはず。リスニングじゃなくて、構文と語彙の積み上げを“短時間・高頻度”で。毎日十五分でもいい。塾みたいに時間で量るより、回数で体に入れるイメージ」
「回数で、体に」
「うん。音楽の練習と似てるよ。メトロノームを刻むみたいに、短くても毎日」
支払いのとき、きょうこは「じゃあ次は、日曜の午後でどう?」と言って、名刺の裏に住所を書き添えた。
「うちでやろう。教材もあるし、静かだから。初回は体験だから、今日は面談だけで充分」
「ありがとうございます」
「それと」
彼女はほんの一瞬、目を細めた。
「タクトくんは、考える前に少しだけ言葉が走るね。まっすぐで、いい癖だと思う。でも受験では、その“まっすぐ”を答案の枠に通す練習も必要。そこを一緒にやろう」
外へ出ると、春の光がいっそう透き通っていた。地上に上がるエスカレーターの手すりは暖かく、風が頬を撫でる。
タクトは名刺を胸ポケットにしまい、心の中にまだ余熱のようなものが残っているのを感じた。家庭教師という仕事を「かっこいい」と思った気持ちが、輪郭を持って立ち上がる。誰かの目の前で、ペンの線を未来へ伸ばしていく仕事。今、目の前にいた人は、それを軽々とやって見せた。
日曜日。
港北の住宅街は、桜の名残がアスファルトの隅に集まり、風が吹くとさらさらと流れた。伝えられた住所の前でインターホンを押すと、ガラス越しに白い犬が尻尾を振るのが見えた。
「どうぞ」
玄関はすっきりしていて、木の香りがした。廊下の壁には、横浜の古い写真が額装されている。港のクレーン、氷川丸の甲板、まだ低かったビル群。
「おばのコレクションなの。昔の横浜、好きでね」
リビングの窓が大きい。遠くにみなとみらいの観覧車の輪郭が霞んでいるような気がした。
「ここ、いいですね」
「夕方になるともっときれいだよ。さて、今日は英語から始めようか」
彼女の机は、余計なものがなかった。ペン立て、ノート、教材。タクトが座ると、きょうこは一冊の単語帳を差し出した。
「これね、“一周十五分”で回せるように設計されてる。やることは簡単。“知ってる”と“知らない”を分けること。知ってるのに時間をかけない。知らないものにだけ丁寧になる。ほら、やってみて」
タイマーはきっちり十五分にセットされた。タクトはページをめくり、一語ずつ目で追い、口の中で音を作る。知らない単語が出てきたら、蛍光ペンで小さく印をつけ、意味を確認して先へ進む。
十五分が終わると、彼女は笑うでもなく、眉をしかめるでもなく、ただタイマーを止めた。
「どう?」
「……思ったより、頭に残る感じがします」
「それはね、今“できた”ことを確認したから。できた瞬間に“できた”と言葉にするのは、脳へ確認スタンプを押すのと一緒。次の周回が楽になる」
「確認スタンプ」
「そう。じゃあ、次は長文を一段」
その日の授業は、静かなリズムで進んだ。
音読→構文把握→段落要旨→設問。
やるべき順序を決めると、長文はただの長い道に変わる。タクトは、つい勢いで読み抜けてしまう癖を一度立ち止まらせ、文の骨格を薄い鉛筆線で撫でるように下線を引く。
「タクトくん、ここわかる?」
彼女のペン先が指したのは、接続詞の“however”だった。
「逆接ですね」
「そう。じゃあ、逆接の前後で筆者の“本音”はどっち?」
タクトは数秒考え、前半の本文に軽く指を置く。
「後半じゃなくて、こっち。前半が著者の立ち位置。本音。後半は、一般論や反対意見を踏まえた調整。でも、この段落は——」
「“一般論”で先に入って、“however”で本音が来る」
「そう。だからここを強く読む」
小さな発見が、春の光に粒を増やしていく。
休憩時間、彼女はコーヒーを淹れ、タクトはキッチンのカウンター越しにそれを眺めた。ドリッパーから落ちる雫の色が濃く、湯気はやわらかい。
「コーヒー、飲める?」
「少しなら」
「砂糖は?」
「……そのままで大丈夫です」
湯気の向こうの彼女の横顔は、学校の先生とは違う距離にいた。距離はあるのに、遠くない。不思議な位置。
「タクトくんは、どうして“家庭教師をやりたい”と思ったの?」
カップを受け取るとき、彼女はもう一歩、言葉のほうから近づいてきた。
「中学のとき、数学が苦手で。塾では質問しづらくて、そのまま置いていかれたんです。でも、クラスの友達が放課後にちょっとだけ教えてくれて、そのときに、ふっと霧が晴れた感じがして。なんていうか、世界が解像される感じ。あれを、誰かに返せたらって」
「世界が、解像される」
彼女はその言い回しを気に入ったようで、カップの縁に笑みを残した。
「いい言葉だね。じゃあ、その“解像”の瞬間を、これからたくさん作ろう。タクトくんのために。そして、未来の生徒のために」
夕方、窓の外の光が陰り始める。
その日の最後に、彼女は一枚の紙を差し出した。
「『習慣設計シート』。勉強を“頑張る”じゃなくて“続ける”ための装置。毎日十五分の単語、二十行の音読、寝る前に一問の数学。どれも“短く、具体的”。やるかやらないかで差が出るのは、こういう小さなことだよ」
「はい」
「それと、週に一度の“振り返り”。私と一緒にやるけど、その前に自分でも書いておいて。良かったこと、つまづいたこと、来週の微調整。——微調整、大事だからね」
微調整、という言葉は、彼女の生活そのものに刻まれているように見えた。リビングの配置、教材の置き方、湯の温度。無駄がないのに、温かい。
帰り際、靴を履きながら、タクトは言った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。来週も同じ時間で大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、また日曜に。——あ、タクトくん」
彼女は何か思い出したように、指を軽く上げた。
「『禁断』って言葉、知ってる?」
「え?」
「高校生のとき、私の友達がね。英語の先生に憧れて、すごく勉強を頑張ったの。いい話だよ。ただ、その“憧れ”の形は、勉強の力にもなるし、ときどき心を怪我させもする。だから、気をつけようねって話」
その言い方は、冗談めいているのに、たしかな温度を持っていた。
「……はい」
「私たちは『勉強のチーム』。それを一番大事にしよう」
春が深まるほど、タクトの毎日は軽くなっていった。
朝、駅までの道で単語を口の中で転がし、昼休みは教室の隅で音読をし、帰宅後は数学の一問に小さな時間を置く。シートにチェックを付けるたび、紙の上の小さな四角が埋まる。埋まった四角は、昨日より先へ行くための踏み石だ。
クラスメートの会話は相変わらずで、誰かの笑い声はいつもどこかで弾んでいる。部活から帰る汗のにおい、昇降口の埃っぽい夕暮れ。そこに、新しい規則が滑り込んで、タクトの生活は“続くための形”を手に入れた。
次の日曜、英語の授業のあと、彼女は久しぶりに外での課題を提案した。
「みなとみらいを歩こう。長文の“要旨”って、街角にも転がってるから」
二人は桜木町で降り、汽車道を海風の中ゆっくり歩いた。
水面には小さな波が立ち、観覧車のゴンドラがゆっくりと空の粒を拾い上げていく。赤レンガ倉庫へ向かう人の列は、休日の色だった。
「この景色、どう要約する?」
「え?」
「要旨、だよ。百五十字で」
突然の課題に、タクトは笑うしかなかった。
「えっと——“古いものと新しいものが、海風で同じ速度になる場所”。違う時間の建物が同居してるけど、同じ潮のにおいでまとめられてる、みたいな」
「いいね。“同じ速度”って表現、好き」
彼女はスマホのメモ帳に、タクトの言葉をそのまま打ち込み、最後に小さなハートマークを付けかけて、やめた。
「——おっと、これは先生として良くないね」
「いえ」
「ううん。ルールは大事。ね?」
赤レンガ倉庫の前で少し休み、潮のにおいの濃いベンチに座った。
「タクトくんは、将来、生徒に何を一番伝えたい?」
彼女の質問は、いつも未来へむかう。
「“自分で続けられる方法”です」
「うん」
「やり方を渡す、よりも、その人が自分のやり方を見つけられるようにする。ボールの投げ方を教えるんじゃなくて、投げ方を見つける筋肉を育てる。……うまく言えないけど」
「充分うまいよ」
彼女は目を細め、頷いた。
「じゃあ、タクトくんはまず、自分でそれを証明するんだね。自分の勉強で」
「はい」
「大丈夫。できるよ」
潮風が、二人の間の会話を少しだけ遠くへ運んだ。
隣り合って座っていると、年齢の差は数直線の距離に過ぎないように思える瞬間がある。だが、彼女がふと腕時計に目を落としたとき、タクトははっとした。
彼女の指は細く、動きは無駄がない。指輪の跡はない。けれど、そこにある「大人の時間」は自分の持ち物ではない。
「戻ろうか。今日はここまで」
「はい」
立ち上がるとき、きょうこは少しだけ身体を傾けた。風が強かったからだろう。タクトはとっさに手を伸ばし——伸ばした手は、空気を掴むように行き場を失って、胸元へ戻った。
彼女は何も言わず、ただ前髪を耳にかけ、歩き出した。
それでいい。今はそれで、いい。
夜、机に向かうと、今日の光景がノートの白に滲んだ。
“古いものと新しいものが、海風で同じ速度になる場所”
自分で書いた言葉が、少しだけ他人の言葉に見える。授業の復習を終えると、シートの今日の欄にチェックを入れた。
その下には、彼女からのメモが貼ってある。
《できたこと:単語一周、長文一段。
よかったこと:howeverの後が本音(の形)の場合もある、と気づけた。
来週の微調整:音読の速度を“ゆっくり・正確”に一回。》
メモの隅に、丸い犬のシールが貼られている。あの家の白い犬だろう。小さな、やさしい遊び心。
眠る前、タクトはスマホのメモを開き、今日の百五十字をもう一度読み返した。
きょうこが打ち込んだ文字列には、ハートはなかった。
——ルールは大事。ね?
文字の向こうで彼女が微笑むのを想像し、タクトはスマホを伏せた。
明日も、十五分の単語から始めよう。
潮のにおいは、夜の風にも少しだけ残っていた。
こうして、春は本格的に動き出した。
タクトの毎日は、誰にも気づかれない小さな単位で、大人の輪郭へ近づいていく。
“禁断”という言葉の危うさは、まだ、彼の辞書のページの奥で静かに眠っている。
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