森を抜けた瞬間、セリーナの視界に広がったのは、黒々とした巨大な建造物だった。

　高く聳えていたであろう尖塔は無残に折れ、石壁は苔むし、崩落している。けれども、その威容の名残は一目でわかった。

「これは……城の跡地、かしら」

　瓦解した城門を見上げ、セリーナは小さく息を漏らした。

　陰鬱な気配が漂うその場所でさえ、彼女の瞳には好奇心が宿っていた。

「ふふ、思ったより荒れてるわね。ちょうど家が欲しかったし、リフォームすれば住めなくは無いわね。……ここから立て直すのは少し大変でしょうけど」

　爛々とした目を見開き、重たい扉を開けて散策を始めようと意気込む。そして、かつては広間だったらしき場所に足を踏み入れた瞬間――。

　――ギィ

重い音が背後から響いた。

　セリーナが振り返るより早く、鋭い音と共に空気が切り裂かれた。

　大剣による一閃。反射的に手を構え、結界を展開する。火花が散り、衝撃が床石を粉砕した。

「ちょっと……！　いきなりなんですの！？」

　しかし相手は答えず、再び斬撃が迫る。

　その動きの合間に、セリーナは相手を見定めた。

　漆黒の髪が振り乱れ、赤い瞳がぎらついている。額には小さな角、褐色の肌は強靭な肉体を覆い、手には巨大な剣が握られていた。

「まさか、貴様は人間か？」

　人間に近いが、決して人間ではない――その姿は、魔と人との狭間に生きる者そのものだった。

「ええそうですとも。どこをどう見ても、他の追随を許さない美しい人間の女性でしょう？」

　「よく喋る雌だな……ならば尚更、ここに足を踏み入れる資格はない」

「なるほど……半魔族ね」

　セリーナは唇を吊り上げ、右手をかざす。

　パチンッ！

　指を鳴らした瞬間、魔力が弾け、爆風となって広間を満たす。石片が飛び散り、空気が震える。

　だが魔族の青年は怯まず、土煙を裂いて突進してきた。

「魔術に長けた人間か、面白い」

　剣筋は速く、重い。上段からの斬り下ろし、横薙ぎ、突き――流れるような剣技にセリーナは舌を巻いた。

「きゃっ……！　本当に容赦ないのね！」

「容赦など不要だ。ここは魔族の地だぞ？」

　セリーナは爆散した魔力で剣圧を逸らし、手のひらから閃光を放つ。

　光に赤い瞳が瞬きをした一瞬、彼の動きが止まった。

「これは……」

「簡単な拘束魔法ですわ。あなたみたいな猪突猛進お馬鹿さんには効果的らしいわね」

「ちッ……」

「それにしても、こんな辺鄙な場所でお留守番でもしてるの？　そもそも普通の魔物じゃないみたいだし……あなた、何者？」

　沈黙の後、青年は低く名乗った。

「……俺はリオネル。この地を支配していた……魔王の息子だ」

「まあ、魔王の！　随分と大物と鉢合わせしたものね」

　セリーナはにっこりと笑い、攻撃を収める。

　リオネルはなお剣を構えたまま、警戒の色を解かない。

「支配していた……という事は、今はそうじゃないのよね？」

　その言葉に、リオネルは小さく眉を動かした。

「父上は……魔王は死んだ。……その瞬間から、この魔族領の統括は崩れ、この有様だ」

　リオネルは低く吐き出すように言った。

「興味深いわね。魔法を解いてあげるから詳しく聞かせてもらえるかしら？」

「……物好きな雌だな」

「レディに雌とは失礼ですわよ。次言ったらまた拘束ですからね？」

「…………」

リオネルは解けた腕の感触を確かめると、セリーナから身体を逸らして口を開いた。

「父上が死んでからは、魔族の中でも力ある者は領土を奪い合い、弱き者は虐げられるようになった。やがて四天王と呼ばれる上級魔族たちは、それぞれに勢力を伸ばし、互いの利権を狙っている。魔族の本質ではあるが、かつての魔王はそれを許さず、魔族の矜持を重んじていた。だが、今はもう、誰もまとめ上げられない……俺には、その力がない」

　赤い瞳が陰鬱に伏せられた。

　苛立ちと諦め――若き王子の心を覆うその色に、セリーナはむしろ好奇心を膨らませた。

「ふうん。つまり今は魔族全体の誰も舵を握らず、船は沈みかけているってことですわね？」

　セリーナは身を翻し、ヒールでカツンと床を叩いた。

「だったら――まるっと私に任せてくださらない？」

「何を……？」

「この無法地帯に秩序を戻す舵取りを、ですわ」

　リオネルの瞳が険しく細められる。

「ふざけるな。人間の女が何を知る。魔族の血も持たぬお前に……」

「まあ、言ってくれるわね。けれど見ての通り、私はあなたとこうして刃を交えても立っている。人間ごときなら、とっくに真っ二つにされていたでしょう？」

　リオネルの唇がわずかに動く。反論しかけて――言葉が出ない。確かに彼の剣を受け止め、逆に魔力を爆散させて押し返した人間など、これまでいなかった。

　セリーナはさらに言葉を畳みかける。

「あなたは魔王の息子。なのに誰も従わない。四天王？　はそれぞれ好き勝手に領土を奪い合い、力のない魔族は泣いているのでしょう？　貴方の父上の築いた全てが蹂躙される――それを見過ごして、胸が痛みませんの？」

「……っ」

　赤い瞳がわずかに揺れる。

　彼の心に突き刺さる痛みを、セリーナは見逃さなかった。

「あなたには、舵を取る力が“まだ”ない。なら、私が代わりに握ればいい。あなたはその横に立って、私を試せばいいの」

「人間が、魔族を導くとでも？」

　リオネルの声は嘲りを含んでいた。だがその響きには、さきほどまでの絶対的な拒絶はなかった。

　セリーナはにっこりと笑い、肩を竦める。

「導くなんて大それたことを言うつもりはないですわ。屋敷の手入れと同じ、荒れた庭を掃除して、椅子の埃を払って、お客様を迎える支度をするだけ。そして私は自由に振る舞い、王座に座るのはあなたよ」

　リオネルの眉がわずかに跳ね上がる。

　その軽口に見せかけた言葉の中に、真剣さがあった。

「……お前、本気で言っているのか」

「ええ。私、退屈するのが嫌いですの。ちょうどいいでしょ？」

　セリーナは悪戯っぽく笑みを浮かべた。

　長い沈黙ののち、リオネルはゆっくりと剣を収めた。

　赤い瞳はなお警戒を宿しているが、そこには小さな、だが確かな興味の光が宿っていた。

「……好きにしろ。だが、魔族領は甘くない。お前の言葉が虚勢であれば、一日も生き残れまい」

「じゃあ、私が素敵なお婆様になるまで楽勝ってことですわね」

　セリーナは明るく言い放つ。

「さ、まずはあなたの部屋に案内してちょうだい。お城を拠点にするのもいいけれど、荒れすぎているわ。腰を落ち着けて策を練らないとね」

　リオネルはなお無言のまま背を向ける。

　その背中には、孤独と責務の重さを背負っているように見えた。

　セリーナは軽やかにその後を追い、にっこりと微笑む。

　――こうして、追放令嬢と半魔の王子の奇妙な同行が始まった。

　廃墟に差し込む一筋の光は、まるで新しい物語の幕開けを告げているかのようだった。