5th SINGLE「False mother」

五十嵐璃乃

01. With grown soul

 昭和二十一年の八月、両脇に木々が繁茂する緩やかな坂を、金田かねだじゅんは疲弊しながら進んでいた。



 その日は猛暑で、元来病弱で暑がりな純にとって、このうだるような温度と湿度は耐え難いものであり、強い日差しと地面にこもった熱が、汗だくの純をより一層苦しめていた。



 見上げると、雲一つない青天が純の目の前にあった。空は見渡す限りどこまでも広がっている。そして、日本を覆っている。一年前まで外国と戦争をしていた、この国を。首都がすっかり焼き尽くされても、広島と長崎に原子爆弾が落とされても、そうして何十万もの人が犠牲になっても、空は青いままであり、まばゆい太陽を引き立てながら、悠々と晴れ渡っていた。



 視線を戻すと、彼の細君であるゆかりが目に映った。真っ黒な舶来品の洋傘を差している彼女は、炎暑でやられている夫とは反対に、汗一つかかずに真顔で歩いていた。



 歩くゆかりのすぐそばには、昼顔がつるを四方に伸ばしながら、群をなして咲いていた。生命力に満ち溢れた薄桃色の姿は、戦争の面影を少しも感じさせなかった。



 美しさのあまり、ゆかりは足を止めて、昼顔たちを眺めた。途端に、彼女の表情にじんわりと明るさが加わった。昼顔の隣に佇む彼女は花に劣らぬ美人であり、両者の並びは、高名な画家の一作を現実に抜き取ったかと思うほど似合っていた。



 しかし、気付けば、二人の間にはかなりの距離ができており、ゆかりは疲労困憊した純を認めると、小走りで彼のもとへ駆け寄った。



「ちょっと、大丈夫……?」



「はぁ……はぁ……今にも死にそうだよ……」



「何言ってるの、まだ生きてるじゃない。もう少しゆっくり歩くから、頑張って」



 そう言って、ゆかりが純の手を引っ張り、自分のもとに引き寄せると、二人はゆかりの大きな傘の中にちょうど収まり、偶然にも相合傘の体をなした。この蒸し暑い日においては、一見暑苦しいように思われるが、純は異様な安らぎを覚えずにはいられなかった。



「あ、じゃあ、行こうか……」



「はい、行きましょう」



 二人は、傘の下で手を繋ぎながら、そのまま歩き出した。



 こうして近くで見てみると、ゆかりは非常に整った顔立ちをしていて、薄化粧であっても、十二分に麗しい女性だった。



 だが、それと同時に、彼女は強い女性でもあった。この〝強い〟という形容は、「女は男に比べてか弱い存在である」ということを暗示しているのでは決してない。彼女の強さは、性別を超えた、人間としての強さである。



 絶望が漂っていた戦争末期、誰もが死を意識しながら日々を過ごしていた。遠い海の向こうの出来事として生活から切り離されていた戦争は、著しい物資不足や空から降り注ぐ焼夷弾となって、人々を蝕んだ。そして、いつ本土決戦が行われるのか、いつ大勢の敵兵がこの土地を踏み荒らしに来るのかという恐怖心が、彼らから生きる希望を奪い取っていった。



 だが、そんな時代であっても、ゆかりは懸命に生きた。もともと芯が強い性格である彼女は、近所の人たちと励まし合い、笑顔を絶やさず、乏しい供給の中でも工夫を凝らし、夫の純と支え合いながら、戦禍を生き延びた。



 そして、そうした彼女の姿勢や生き様を最も近くで見ていて、彼女から最も影響を受けていたのは、他でもない純だった。



 前述した通り、純は幼少期より病弱であり、学校に入っても、体操や教練の授業は常に見学で、同級生たちからからかいを受けることもよくあった。ゆえに徴兵検査でも丁種と判定された。性格も段々弱気で控えめなものになっていった。しかし、その分勉学には励んだとみえて、中学の頃から成績は優秀であり、東京帝国大学を卒業した後、名の知れた造船会社に就職した。だからこそ、力強く生きるゆかりを、純は心から尊敬していた。







 では、この対照的な夫婦が、一体どこに向かっているかと言うと、坂を越えた先にある、日の光を鋭く照り返す青海原に面した浦賀港である。終戦後、外地から多くの人が敗れた祖国へと帰還していた。その最中、純の三つ上の兄であるきよしが、任地のビルマより復員するという知らせが伝えられたのである。今日は浄がいよいよ浦賀に到着する日であり、浄を出迎えるために、二人は、三浦に住む浄の妻(つまりは二人の義姉)である茉莉まつりと港で落ち合うことになっていた。



 港に近づくほど、辺りはゆかりたちのように家族を迎えに行く人で溢れていき、しまいには歩道はすし詰めとなり、前に進むことすらできなくなった。人混みをなんとかくぐり抜けて、開けたコンクリートの埠頭へ出ると、ここもまた、視界が人の頭で埋め尽くされるほどの混雑を極めていた。苦労の末、二人はどうにか茉莉と合流することができた。



 茉莉は、二人より一つ上(ゆかりと純は今年で共に三十歳)の姉であり、頼りになる心優しい女性で、ゆかりも、結婚したばかりの頃は彼女に大いに助けられた。兄弟姉妹がいないゆかりは、彼女を実の姉のように慕っていた。茉莉が浄と一緒になったのは、ゆかりと純の結婚の二年前だったが、純も、兄からの紹介で彼女と初めて会った時、兄は至極いい嫁をもらったものだと感心したのをよく憶えている。



「二人とも、こんな混雑の中、大変だったでしょう? わざわざ一緒に来てくれてありがとう」



「いえいえ、気にしないで下さい。浄さんが帰ってきてくれて、本当によかったです」



「僕と違って、兄は強健ですから、きっと帰ってくると思っていましたよ。あ、そろそろ時間じゃないですか?」



 港に停泊した復員船や引揚船の甲板にはおびただしい数の人が集まっており、ちょうど下船が開始されていた。ぞろぞろと桟橋に彼らが降りてゆくと、そこから同心円状に、家族との再会による歓喜と涙の渦が広がっていった。



 三人の中で一番先に浄を見つけたのは、言うまでもなく妻の茉莉だった。夫を見つけるや否や、彼女は、人目など気にすることなく、浄のもとへ走って、彼を思いっきり抱きしめた。



「ずっと、ずっと、会いたかったです……!」



 浄も茉莉からの抱擁に応え、



「待たせてすまない……。俺も会いたかったよ、茉莉……」



 と、涙を浮かべながら、言葉を返した。



 浄は、戦争が始まってからは永らくビルマにおり、純とゆかりの結婚式で一度帰ってきて以来、四年近く茉莉とは離れていた。ゆえに、互いに想いが溢れる二人は、自分たちの再会をこの上なく喜び、祝した。



 ゆかりと純は、二人の様子をそばで和やかに見つめていた。この兄夫婦の愛情の深さを二人は以前からよく知っていたが、茉莉がこれほど直接的かつひたむきに浄への想いを口にしているのは初めて見た。



 少しずつ落ち着きを取り戻した兄夫婦は、二人のほうを振り返った。子供の頃から屈強で、元陸軍中尉である兄も、戦地から帰ってくれば、少し髭を生やして痩せ細った姿になっていた。一体どれほどの惨状を目の当たりにしてきたのか……。弟の純には、浄の瞳がどこか濁っているように見えた。



「兄さん、おかえり。無事で何よりだよ」



「心配をかけたね。純たちのほうこそ、こちらからはあまり連絡が取れなかったから、不安で仕方なかったよ。けれど、生きていてくれて、本当に安心した。ゆかりさんも、大変な中、純や茉莉のそばにいてくれてありがとう」



「いえいえ、とんでもないです……! 私も、浄さんとまたこうして会えて、すごく嬉しいです」



「ゆかりちゃんの言う通り、またこうやって四人揃って本当によかった……。今日は難しそうだけど、今度みんなで一緒にご飯でも食べましょう」



「そうですね。今日はお二人でゆっくりしたらいいと思います」



 そうして、後日一家で集まる約束をして、二人は兄夫婦と別れた。金田兄弟の両親は数年前に亡くなっており、ゆかりや茉莉の親も遠方に暮らしているため、金田家で集まる時は常にこの四人でだった。







 しかし、暑さと混み具合にそろそろ耐えられなくなって、純の足元が次第によろけてきた。



「ゆかり、少し休みたい……」



「無理させちゃったわね。どこか座れる場所を探しましょうか」



 辺りを見渡しながらしばらく歩き、二人はちょうどいい木陰を見つけると、そこに腰を下ろした。木の下からは、今もなお埠頭に溢れる人々、海沿いに立ち並ぶ民家、瑠璃色の浦賀水道が一望できた。



「素敵……。ほら、すごく綺麗よ」



「ああ、本当だね。これは落ち着く……」



 二人の間に、しばしの静寂が訪れた。風でそよぐ木の葉の音だけが聴こえてくる、至極心地のいい時間であった。



 その雰囲気を壊さぬようにしながら、ゆかりが呟いた。



「こんな景色を見てると、戦争なんてなかったみたいね……」



 純は、ゆかりのほうを一度振り向くと、地面に視線を落とし、物憂げな顔をして、



「日本は負けたのか……。GHQの占領が始まって一年ぐらい経っても、僕たちの生活がよくなってる気は全くしないし、これからこの国はどうなるんだろうな……」



 と答えた。



「そんなことを考えてもしょうがないでしょう。今はただ、目の前の一日一日に向き合うしかないわよ」



 木陰で数分休むと、二人は港のほうへ戻り、群衆の中を通り抜けようとしたが、相変わらずの混雑でなかなか前に進めなかった。



 そうして、もと来た道がようやく見えたその時、ゆかりは太もものあたりで誰かとぶつかった。「あ、すみません……!」と言って振り返ると、そこには一人の少女がいた。



 歳は国民学校の高等科ぐらいであり、髪は短く、擦り切れた古いもんぺを着ていた。



 思わぬ相手に対して、ゆかりはしゃがんで、「ぶつかっちゃってごめんね。痛くなかった?」と話しかけた。



 ゆかりの声がけに驚くように、彼女は顔を上げた。しかし、ゆかりと視線が合うと、物悲しい表情を見せて、すぐさま俯き、小さな声で「ううん、大丈夫……」とだけ言って、黙り込んでしまった。



 彼女の様子を受けて、ゆかりは、子供一人だけでいる状況から、親とはぐれて迷子になったのだと思い、周りに目をやった。だが、どこにも我が子を探す親の姿はなく、衆人は孤独な子供など見向きもせずに蠢いていた。



 なんだか言い知れぬ恐怖と疎外感を感じたゆかりは、慌てて、



「お母さんとお父さんはどこにいるの……?」



 と、少女に尋ねた。



 そう聞かれると、彼女は途端に硬直し、下を向いたまま、



「お父さんはいない。私が生まれる前に病気で死んじゃった」



 と、今にも掠れそうな声で答えた。そして、言葉を失っているゆかりを蚊帳の外に、



「お母さんも……この前、ルソンでマラリアに罹って、死んじゃった……」



 と言葉を放つと、ぽろぽろと涙をこぼし、泣きじゃくりながら屈み込んでしまった。



 ちょうどその時、見失ったゆかりを探していた純が、ゆかりの姿を見つけて、二人のもとへ駆けつけてきた。



 純はすぐさま場の異変に気が付いた。むせび泣く少女と、それに戸惑うゆかり。純は少しも状況を理解できなかったが、とりあえず二人を埠頭の端へ移動させ、話を聞くことにした。







 彼女が泣き止むのを待つ間、純はゆかりから彼女の事情を聞かされた。



「そうか、そんなことに……。子供一人で帰国させるなんて、引揚援護局の連中は何をしてるんだ」



「でも、戦争が終わるまではフィリピンで暮らしてたみたいだから、内地に引き取ってくれる親戚がいるかどうか……」



「……親戚はよく知らないし、お母さんからも聞いたことない」



 二人で話しているうちに、やっと泣き止んだのか、彼女がぼそっと口を挟んだ。



「そういえば、まだ名前聞いてなかったね。名前なんて言うの?」



「……鏡川きょうかわ継実つぐみ。十二歳です……」



「継実ちゃんね。……ねぇ、継実ちゃん、このあとどうするつもりなの?」



「えっ」



「ご両親はいなくて、頼れる親戚もいるかどうか分からないんでしょ……? 今日寝泊まりするあてはあるの……?」



「そ、それは……」



 継実は言葉を詰まらせた。



「……継実ちゃん、それなら、とりあえず私たちと一緒に暮らさない……?」



 ゆかりは突然そう言い出した。



「え……」



「だって心配なんだもん。継実ちゃんのこと放っておけないよ」



「そ、そんなこと急に言われても……」



 継実は躊躇した。母のいない世界では、見ず知らずの人からの優しさも、彼女には疑わしく思えた。



「あなた、いいですか?」



「……ああ、僕は構わないよ。子供一人で生きていくのは大変だろうし。ゆかりがそうしたいなら」



 気弱な性分が影響して、結婚してからというもの、純はゆかりの意見に反対することはほとんどなかった。夫がいつまでも受け身でいることにゆかりは少なからず不満を抱いているが、こういう大事においても自分を尊重してくれるため、それ以上に妻としての愛情があるため、純を嫌うことは微塵もないかった。いつも通りの即答で、ゆかりは心の中で静かに純に感謝した。



「で、でも、初対面なのに、そこまでしてくれるなんておかしいよ。なにより申し訳ないし……」



「遠慮なんかしなくていいから! 子供らしく、つらい時は甘えていいんだよ」



「……ほ、本当にいいの……?」



「本当にいいの! 嘘じゃないよ」



「あ、ありがとう、ございます……」



「うんうん。じゃあ、ついてきて」



 ゆかりは微笑んで、継実の手を握り、二人でゆっくりと歩き始め、二人の後ろを純がついていった。







 ゆかりと純の家は、有楽町のはずれに位置している。戦時中、東京は空襲に見舞われ、人家のほとんどは焼かれてしまった。終戦から一年が経っても、木材などのあらゆるものが不足しており、アメリカからの供給も名ばかりであるため、人々は家を立て直すこともできなかった。辺りは瓦礫の山と焦げた空き地ばかりで、そこに仮住まいのバラックが点々と建てられていたが、住む人の目はどこか虚ろである。



 しかし、二人の住宅は奇跡的に焼失を免れ、焼け野原の中にぽつりと佇んでいた。



 家の前に着くと、左手に家の庭が見えた。狭い庭だったが、多くの野菜がびっしりと並べられて、栽培されていた。家庭菜園はもともとゆかりの趣味だったが、日当たりや風通しもちょうどよかったため、様々な種類の野菜を育てることができた。それゆえ、食べ物に乏しかった戦時中は、ここで採れた野菜たちが、二人の腹を満たしてくれた。



 ゆかりが玄関の引き戸を開けると、継実はおずおずと足を踏み入れた。すると、いかにも日本の家屋らしい木材の香りが、継実の鼻を刺激した。彼女が母と共にフィリピンに渡ったのは彼女がまだ十にもならない頃で、日本の土を踏むのでさえ今日で四、五年ぶりであるのに、人の温もりを感じられる故郷の住宅の匂いは、彼女の心をかなり落ち着かせた。



「さ、入って入って」



 ゆかりは一旦継実を居間へ案内した。



 居間に入ると、縁側の障子が開いていて、奥にさきほどの庭が見えた。浦賀まで行って帰ってきたのであるから、気付けばもう夕方である。あれほど照りつけていた太陽もすっかり沈み、茶の間は茜色に溶け込んで、小さな風が継実の体を撫でた。



 ゆかりは、継実を家の二階へと連れていった。階には大小二つの部屋があり、大きいほうがゆかりと純の寝室である。継実はもう一方の一回り小さな部屋に案内された。



「継実ちゃんはこの部屋に泊まってね。今はここ使ってないから。あ、布団は押入れの中に入ってるよ」



「……ありがとう」



「今からご飯作るから、荷物の整理できたら、降りてきてね」



 ゆかりは、一階へと戻っていった。



 継実は、背負っていた背嚢を降ろした。といっても、中にはわずかな携帯品と母の骨壺だけである。継実にとっては、この壺がなによりの母とのつながりだった。継実は思わず壺の表面に頬を当てた。陶磁器の冷たさを感じると共に、彼女の脳裏を母との十二年がよぎった。



「お母さん……こんなに小さくなっちゃった……」 



 部屋の灯りを点けるのも忘れて、床にしゃがんだまま、継実はフィリピンでの記憶に思いを馳せた。



 彼女はもともと母とフィリピンのマニラに暮らしていた。だが、戦況の悪化によって、彼女の日常は変わった。昭和二十年の一月、ルソン島にアメリカ軍が上陸し、二月の初めにはいよいよ首都であるマニラへと侵攻してきた。彼女が慣れ親しんだ街は、一瞬にして得も言われぬ戦場へと変わり、多くの市民が取り残されているにも関わらず、両軍の激しい市街戦が繰り広げられた。知り合いは次々と戦いの犠牲となり、家を捨て、母と共に彼女は島の北部へと避難した。



 しかし、彼女らを追うかのように戦場も北進し、逃げた先の山岳地帯にも砲弾が飛び交うようになった。咄嗟に持って出た食料は一週間ほどで底をつき、山で採るかどこかの畑から盗むかしかなくなっていった。飢えで苦しいばかりでなく、いつどこから銃弾がやってくるか分からないという恐怖もあった。



 三日に一度食べられるものが見つかれば、それだけで充分ありがたかった。だが、継実の母は、手に入れた食料の大半を娘に与え、自分はほんのわずかな量しか食べなかった。継実は自分だけ多く食べることにはためらいがあったが、母の気持ちを慮り、手が土で汚れたまま、食べ物にかぶりついた。



 だが、継実には、母親が無理をしていることは彼女の様子から容易に察しがついていた。栄養失調のために、顔がげっそりやつれ、手足はひどく荒れて、骨と皮だけの体になった彼女は、もはや別人だった。かつての母の綺麗な容貌とふくよかな肉体は、どこにもなかった。



 そして、何十日もジャングルの中を放浪した挙げ句、継実たちはアメリカ兵に発見された。二人はすぐさま兵士から逃げようとしたが、一週間も飲まず食わずであったためにまともな体力は残っておらず、結果として大人しく捕まるほかなかった。



 二人は日本人収容所へと連れられ、危険な状態だった母は医療施設へと運ばれたが、数日後にはだいぶ回復した。痩せ気味ではあったものの、いつもの母が戻ってきて、継実は嬉しくてしょうがなかった。



 そこから収容所での生活が始まり、五ヶ月後の八月十五日、継実たちは施設内で終戦を迎えた。だが、施設を出て、崩れ落ちたマニラの家を片付け、引き揚げの準備を終えて、いよいよ帰国となった時、母がマラリアに罹患したのである。あれほどの極限状態を生き延びたのにも関わらず、重症化によって、母はあっけなく亡くなった。葬儀が終わり、周りの人々は孤独な少女を憐れんだが、継実は「母と一緒に日本へ帰る」ことを意地でも果たすために、寝泊まりする当ても思い付かないというのに、そのまま一人で引き揚げてきた。



「ようやく戦争が終わって、安心して日本に帰れると思ってたのに……」



 街をめちゃくちゃにした戦争を憎めばよいのか、母を殺したマラリアを憎めばよいのか、それとも母に寄り添えなかった未熟な自分を憎めばよいのか……。継実は複雑な心境だった。またしても涙が出そうになったが、彼女は必死に堪えた。これ以上泣き喚いても、引き取ってくれた金田夫婦に迷惑をかけるだけだと、自分に言い聞かせた。



 窓に目をやると、外はすっかり夜になっていて、継実は真っ暗な部屋に一人ぽつんと座り込んでいる状態だった。閉じ切っていない襖からは光が差し込み、階下の台所でゆかりが野菜を切る音が頭を打つように聞こえてきた。マニラの街、ジャングル、収容所、港、他人の家、といった目まぐるしい状況の変化に対して、継実は気持ちを整理できずにいた。安定した居場所がないという事実は、母を失った彼女の孤独をますます強めていた。



 骨壺を背嚢にしまうと、もやもやしたまま、継実は下に降りた。







 降りてきた継実に気付くと、ゆかりは、



「あ、継実ちゃん、今作ってるから、居間のほうで待っててね」



 と、少し振り返って言った。



 継実は居間にあるちゃぶ台の前に腰を下ろした。待つといっても、何もすることが思い付かないので、ただぼんやりと床の畳を見つめながら、正座していた。



 金田夫婦に対して、継実は距離を感じていた。突然「一緒に暮らそう」と言われて、ゆかりの言葉を疑わずにはいられなかったが、虚勢を張って誘いを断る理由もないため、のこのこと二人に付いてきてしまった。騙されているんじゃないか————そんな不安が消えず、継実の中を駆けめぐっていた。だが、ゆかりの優しさに触れるたびに、継実の心が少しずつ和らいでいるのも事実だった。



 一方その頃、ゆかりと純は台所で共に料理をしていた。金田家では、料理は、どちらか一方がするものでもなく、夫婦一緒で行うものであった。



 純は、中学にいた頃、病弱であるために、他の子供のように外で遊ばず、家で勉強か読書をして過ごしていた。しかし、それを純の母が見兼ねて、彼に料理を教えるようになった。娯楽が本しかなかった純の目には、料理は新鮮かつ奥の深いものとして映り、楽しさのあまり、彼は瞬く間に技術を習得していった。そして、大学生の時分には、両親が驚くほど上達していた。



 ゆかりも、幼い時から母の手伝いで料理には頻繁に触れており、気付いた時には料理は彼女の特技だった。女学校に入ってからは、家事の割烹の実習でその腕前を発揮して周りから注目を集め、家には彼女の手料理目当てに同級生たちがよく訪れた。



 ゆえに、料理に明るい二人が見合いで初めて顔を合わせた時、料理の話で大いに盛り上がった。米の炊き方や魚の焼き方などはもちろんのこと、同じ料理であっても、具材の選別や調理の仕方はまるで違うため、二人は驚きながらもお互いの話に興味津々に耳を傾けた。性格こそ真逆である二人だが、この時の印象のよさから、一気に二人の距離は縮み、数回の見合いを経て、縁談が成立するまでにはそう時間はかからなかった。



 結婚して同居を始めてからは、二人にとって、台所は調理場というよりむしろ談話室に近かった。調理の方法や段取りは二人とも心得ているので、料理をする際、二人の間には暗黙の信頼と連携が成り立っていた。そのためわざわざやり方を口に出すまでもなく、代わりに雑談に花が咲いた。いつしか料理をしながら歓談することは、この家での慣例となっていた。



「はい、継実ちゃん、できたよ〜」



 しばらくして、継実のもとにゆかりが出来上がった料理を運んできた。ごま塩ご飯、秋刀魚の塩焼き、味噌汁がちゃぶ台に三人分並べられていった。



 代表的な和食の光景に、継実は息を呑んだ。フィリピンに長く暮らしていたため、まともな日本食を食べるのは本当に久しぶりである。ごまと塩は盛り付けられた米の頂で宝石のように輝いていて、秋刀魚は香ばしい薫りを放ち、そして、キャベツ、人参、玉ねぎ、じゃがいも、かぼちゃといった多くの野菜が汁の上に浮かんでいた。時節柄にしては、貴重な食材ばかりの贅沢な食事である。しかし、それらが目の前に置かれた途端、祖国の食卓の懐かしさに、継実は安心感を覚えた。



 いただきますと言うのも忘れて、継実は勢いよく食べ始めた。想像通りの味であるうえに、腕利きの金田夫婦の手料理なので、美味しさは最上だった。



「美味しい……。すごく、美味しい……!」



 思わず顔を上げると、ゆかりと目が合った。ゆかりはにっこりと微笑んでいた。なんだか気恥ずかしくなって、継実は俯いた。



「さぁ、私たちも食べましょ」



 継実の様子に満足して、ゆかりは箸をつけた。



「そうだな」



 また、純も、ゆかりの様子に安心して、食べ始めた。



 三人の食事は、誰も喋らず、静かに行われた。ゆかりと純は、普段なら食事中はよく喋るが、今日に限っては、黙り込んでいた。



 食事が終わると、継実は、ゆかりに風呂に入るよう勧められた。裕福だったために、金田邸には珍しく内風呂があった。ゆかりは「今すぐじゃなくていいよ」と言ったが、金田夫婦から逃げるように、継実はすぐに湯船に浸かった。



 そして、風呂から上がってまもなく、引き出しから寝具を出して、継実は床に就いた。引き取ってくれたことに感謝しつつも、ゆかりや純と一緒にいるのは気まずかった。



 だが、横になっても、継実は一向に眠くならなかった。一人になって、ようやく落ち着けたとは言え、考えるのは母のことばかりだった。母の遺骨と共に引揚船で日本へ向かっていた時もそうであった。ここ数日、何もせずにぼーっとするたびに、継実は母を思い出してしまう。いや、何か別のことをしている時でも、気が付けば母のことで泣きそうになった。



 失ったのは、ただの他人ではない。この世でたった一人の肉親であり、他ならぬ母親である。以来、過去の様々な母の姿や言葉が、継実の頭に流れきて、繰り返されていた。そのどれもが愛おしかったが、ゆえにより一層彼女の死を引き立てていて、継実にはつらかった。



 ふと、死に際の彼女の言葉が浮かんだ。



「継実……立派な、大人に、なってね……」



 母が亡くなった直後は、母の言葉よりも母が死んだという事実のほうが堪えて、継実は大粒の涙を流した。だが、時間が経った今になってやっと、彼女は母の遺言を反芻できた。



「立派な……大人……。でも、お母さん、私、お母さんなしじゃ、そんな大人になれないよ……」



 それが彼女の最期の願いだったとしても、継実は母親という存在から離れられなかった。いつまでも母に甘えていたかった。そう小さく反論すると、継実は無理に目を瞑って、眠りに就いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る