あの夏、僕は彼の絵筆だった。

@KIRISAME_NASO

第1話


カッターを、強く握った。

本当は、殺してやるつもりだった。

自分のことがひどく情けなく、卑劣な人間に思えて仕方なかった。

情けなくて卑劣なのに、どうしようもなく可愛かった。

指先が、震える。

彼の横顔が好きだった。

一生懸命にキャンバスを見つめる横顔が。

美術室の中、彼と二人で息をしていられることがただただ、嬉しかったのだ。

僕と君の二人だけの濃厚な時間が、あまりにも甘美だったのだ。

彼が好きだった。

彼を愛していた。

そして、それと同じくらい憎んでいた。

僕は、カッターを振り下ろした。




彼と出会ったのは、入学式だった。

県内屈指の進学校に余裕の点数で合格した僕は、自分こそが新入生代表だと思っていた。

壇上に立って、他大勢の生徒を見下して、皆から羨望の眼差しを向けられるのはこの僕だと。

式の前には電話がかかってくるものだと思っていたが、そうでもないらしかった。

話す内容を軽く考えながら、スピーチを終えた後のこれからの学校生活に思いを馳せた。

周りの奴らから一目置かれるのは間違いないだろうし、テストでも高成績を修め、学年で、学校で、僕の名前を知らない人はいなくなる。

部活には参加せず、勉強する。

なんにせよ、中学の成績もずっと学年一位だったのだ。

高校の勉強だって僕にとっては、さほど難しいものでもないだろう。

もう、いじめられることはなくなるのだ。

そう思うと胸が高鳴り、早く学校生活を始めたい気持ちでいっぱいになった。

頭の中で入学式のプログラムを反芻してみると、新入生代表挨拶という文字列はもうすぐそこで。

「新入生代表、宇佐美隼人」と言われるのを、待っていた。

続きまして新入生代表挨拶です、というアナウンスが流れる。

いよいよだ。

スラックスを強く、握りしめた。

司会者が、口を開く。

「新入生代表、伊咲凛」

――は

呼ばれたのは、僕のクラスの、僕の列の、僕の隣の、僕ではない彼だった。

音も立てずにパイプ椅子から腰を上げた彼は、ぴんと背筋を伸ばして歩いて行った。

小さくなる背中を見送る。

新入生代表として壇上に上がった彼は、涼しげだった。

春の陽気な空気の中で、彼の周りだけが冷え冷えとしているように見えた。

それから、ゆったりとした優雅な仕草で胸ポケットから台本を取り出す。

丁寧に、早口になることなく読み上げられていく文章は、隙も無駄もよどみもない。

彼は体育館中を見まわしながら、微笑みを浮かべている。

完璧な、笑顔にみえた。

彼が「これからも邁進していきます」とスピーチを締め括った瞬間、頭をガツンと殴られたような衝撃が走った。

その時、ようやく気づいた。

上には上がいること。

自分がどれだけ愚かだったかということ。

それからは、一体何が行われたのか、一体何を言われたのか覚えていない。

気がついたら家の湯船の中だった。

次の日、「お前さ、新入生代表の?」と話しかけられていたのは彼だった。

「すごいね!」と羨望の眼差しを向けられているのは彼だった。

会話の中心にいたのは、彼だった。

「こいつさ、中学でもいじめられてたんだよ」と爪弾きにされていたのは、僕だ。

クラスのLINEがあったことを知ったのは、一ヶ月後だった。

みんなが体育祭の打ち上げに行ったことを知ったのは、打ち上げの次の日だった。

なぜクラスメイトが休み時間にスマホをいじっているのか、知ったのは昨日だった。

昨日、僕以外のクラスメイトのライングループがあることを知った。

彼から。

昨日彼は、後ろの席に座る僕の方を向いて、「きみ、二つ目のラインには入ってないの?」と鈴のような声で言った。

「え」

瞬時に何のことか分かったのは、中学の時の経験のおかげだろう。

正直なところ、ショックではなかった。

ただ、この学校にもそんなことをする幼稚な奴がいたんだ、と驚いただけだ。

「きみだけ入ってない気がして。違ったらごめん」

彼の喉仏が上下する。

まだホームルームが始まる前の朝日に照らされたそれは、まっしろだった。

目線を外す。

「いいよ、多分僕抜きのグループなんだ」

口が、乾燥していた。

思えば、彼と交わした最初の会話はこれだった。

「それ、いじめ?」

あまりにも、純粋無垢な、声に聞こえた。

「多分ね」

自分が情けなくてそっけなく返すと、彼はたった一言「そっか」と言うだけだった。

「君は、宇佐美隼人くんだよね?」

彼が僕の名前を覚えていたことが驚きだった。

「そうだよ」と返すと、「珍しい苗字だから覚えてたんだよね」と笑った。

彼の顔を、初めて見たのはこの時だった。

つん、ととんがった鼻に、うっすらとそばかすが浮いたしろい肌。

長い睫毛が縁取っているのは、薄茶の瞳だった。

瞳と同じ色の髪は、朝日に照らされて、後光が差しているようにも見えた。

うすい唇を開いて言う。

「よかったら、俺とライン交換しない?」

今度こそ、一番最初の感情は驚きだった。

「なんで?」

彼は、音を立てて笑った。

「隼人と、話してみたいと思って。あ、呼び捨て大丈夫?」

歯を見せて笑う彼の歯並びが、ガタついてるのを見た瞬間、僕は彼に堕ちた。


僕にとって、彼はまさに青天の霹靂だった。

頭がいいのはもちろんのこと、連絡がすごくまめに来たことからも人付き合いの上手さが伺えた。

最初こそ張り合っていたけれど、最初の定期テストで諦めるに至った。

今までで一番勉強して、睡眠をほとんど取らなかったというのに、彼には負けた。

完膚なきまでにどの教科でも彼は満点で、張り出された順位表の一番上は全て彼の名前だった。

彼の名前を見つけ、常にその下にいる自分の名前に絶望した瞬間、心の中で何かがばきりと音を立てて折れた。

それは自信か。地位か。名誉か。プライドか。

いや、そのどれでもなくて、それら全てだった。

へし折られたそれの周りに、感じたことのない感情が芽生えるのが分かった。

“それ”に名前をつけることは出来ない。

ただ、愛の紛い物のようなものだったことは確かだ。

“それ”は彼と会話するたびに、彼の言葉から養分を得るように育っていった。

少しずつ。

“それ”が成長しきって、自分の心臓を突き破る瞬間を恐れるようになったころ、彼に張り合うのはやめた。

思い返せば、彼は絵が上手かった。

美術の授業中、僕の前の席で彼が筆を動かすたび、世界が鮮やかに彩られてゆく。

勉強一筋で生きてきた僕にとって、彼の絵は努力という二文字で到底言い表すことのできるものではなかった。

それは才能だった。

天は二物を与えずと言うけれど、彼は全てを持っているように思われた。

勉学の才も。

人から好かれる性格も。

爽やかな容姿も。

すらりと伸びた手足も、

伸びやかで、美しい声も。

そして、その万物を描く手も。

彼は、全てを持っていた。

そして、全てを与えた。

友達という関係値。

褒め言葉。

慰め。

笑顔。

安心。

そして、相手が最も欲する言葉を。

彼はいつだって他人を対等に扱った。

差別やいじめといった、澱み腐ったものは彼の中にはないようだった。

どこまでも澄み渡って、綺麗な心を持っていた。

そんな彼が創る世界は、本当に僕と同じ世界が見えているのか怪しいほど美しかった。

いつか、彼の目玉を抉り取ってみてみたいという欲望を僕に植え付けるくらいには。

彼は予想通り、幽霊部員だらけで廃部しそうな美術部へ入部届を出した。

僕もそうだった。

彼は毎日、学食に通った。

僕もそうだった。

彼はいつも、寒くもないのに長袖のワイシャツを着てきた。

僕もそうだった。

彼は時間が空くとすぐに美術室に向かった。

僕もそうだった。

彼は休み時間、友達と話した。

僕は。

僕は彼と話した。

僕には彼しかいなかった。

彼には僕以外がいた。

それが、どうしようもなく、憎らしかった。

それでも僕は、彼が。

彼のことが。

“あの感情”の名前を、とっくに知っていた。

伊咲凛のことが、好きだった。

僕が一方的に好きでいるだけだった。

そんな僕と彼の関係が変わったのは、いや、変わってしまったのは、あの時だった。

ある放課後、彼を美術室で待っていると、彼は美術室に知らない男を引っ張ってきた。

「新しいの描いたんだよ、見てくれない?」とへらへら笑って。

彼が言う「新しいの」と言うのは、彼が入学してきて初めて描き上げた作品だった。

雨の中、傘も刺さずに猫と戯れる少年の絵。

精巧で、美しく、灰色に満ちた世界に猫の首輪の赤が映える、透き通った絵だった。

こんな絵はきっと、彼以外の人間は描けないだろうと思ってしまうほど。

まっしろなキャンバスを覆うビニールを捨てて、キャンバスを立てながら「これの完成を一番最初に見るのは隼人だな」と彼が笑った瞬間。

僕しか見たことなかったのに。

僕と、彼だけのものだったのに。

美術室の扉がガラガラと音を立てると、髪を薄い金に染めた男が下品に笑った。

「ははは、あれ?新しいのって」

「そうだよ。題名はまだ決まってないけど、文化祭で展示しようと思ってさ」

初耳だった。

「ほーん、いいんじゃね?結構、この赤好きだわ。題名決まってねぇなら、考えてやろうか?」

やめろ。

「いや、いいよ。俺さ、題名は自分でつけてやりたいんだよね。なんか、愛着湧くじゃん?」

ほっとした。

「そっか、分かった。俺、部活行くわ。また新しいの描けたら見してくれよな」

男はそう言って美術室を後にした。

来た時と同じく音を立てて閉まる扉。

彼は男の背中を見送ってから、僕の方を振り返った。

「ねえ、あれの題名何にしよっか」

その顔が笑っていたから。

彼の方に歩みを進める。

鼓動に反して落ち着いた足取りだった。

彼を扉へ押しやる。

そしてそのまま押し倒した。

「え、何?」と証明を眩しそうに見上げる彼が愛しくて、初めて見る顔に、その顔を僕がさせているという事実に、興奮した。

「あのさ、」

口からうまく言葉が出てこなかった。

心臓が、痛い。

「うん」

「あいつ、誰」

暑い。

腹の奥で渦巻いてる何かと、彼の言葉と仕草一つ一つに反応する“あの感情”が怖かった。

「友達だよ。中学からの」

「そっか」

ぶちりと音がした。

“あの感情”が抜かれて生え変わる音だったのか、怒りの琴線が切れる音だったのかは分からない。

気づけば、体は勝手に動いていた。

最初に感じたのは甘味だった。

彼の顔が至近距離にあって、僕の唇は彼の首筋に触れていた。

一度口を離すと、彼の首筋と僕の唇の間に銀糸が伸びる。

彼のまっしろな首筋には、赤い歯形がくっきりと残っていた。

二人一緒に肩で息をすると、彼は「なんなん?」とまたもや笑っている。

続けて、「もうやめよ」なんて言うので長袖ワイシャツの袖を掴んで、床に縫い付けた。

途端に顔を顰めて痛そうな表情を作るものだから、その下が気になって仕方なかった。

袖についてる小さなボタンを片手で外して、皮膚をあらわにする。

そこには、何本ものみみず腫れがはしっていた。

「は」

思わず息を漏らすと、彼の顔が曇る。

僕のことを見ていない目。

長い睫毛が伏せられていて、とんでもなく煽情的だった。

「これってさ、リスカ?」

笑いながら冗談まじりに聞くと、「そうだよ」と簡素な肯定の言葉が返ってきた。

僕は、ここで「なんで?」などという無粋な質問をするつもりはない。

「へえ」

代わりに気のない返事をしてやると、彼の目がやっと俺を見た。

薄茶に紺が混じった、月並みな感想になるけれど、綺麗な目。

鼻どうしが触れ合う。

息が混じって、唇を重ねた。

彼が目を閉じる音が聞こえた。

それから、幾度となく健全な交わりを続けた。

嫌がらない彼が不思議だったけれど、そんなことはどうでも良くなるほど、彼の肌と目と唇と、その他全てに夢中だった。

美術室の鍵を閉めて、体を重ねるたび、彼の手首には傷が増えていった。

僕は、彼の、絵の具がのる前のまっしろなキャンバスのような肌に傷をつける快感を覚えてしまった。

彼の首筋や腕に、噛み跡や鬱血痕やあざができるたび、心地よくて心の奥底が震えた。

彼の肌はいつだって冷たくて、人間特有の暖かさが全て失われているように思えた。

それに反して僕の手は信じられないほど熱かった。

何かが発火しているような熱さを持ちながら、灰にならずにそこにいた。

彼の冷たさを補うように、噛んで、引っ掻いて、潰して、抉った。

そのどれもを、彼が快く受け止めてくれるのが、心地よくて恐ろしかった。

でも、もうどうでもよかった。

たとえどうなろうとも、彼とそうしている間だけは、彼は僕のことだけを見てくれていたから。

僕には彼だけ、彼にも僕だけだったから。

全てが終わると彼は何ごともなかったかのように、きっちりとワイシャツを着て、ネクタイを締めて、必ずその時書いてる絵に一筆入れてから美術室を後にした。

僕には何も言わずに。

一度だけ、その絵を覗いたことがある。

彼がまだ来る前の美術室で、その絵だけが僕を見ていた。

それは、赤と白、そして黒のぐちゃぐちゃとした絵だった。

あの時の、少年と猫のような精巧さはかけらもなかった。

それでもやはり、美しい絵だった。

彼以外には描けないだろうと思った。

そして、僕以外は見るべきではないと思った。

その日はいつもより酷く、ひどく、彼を犯した。

「あれは俺なんだ」

ワイシャツのボタンを止めながら彼は言った。

こちらに向けているのか、独り言なのか、ちょうどその境目に落ちる文字列。

彼はそう言ったきり、しばらく美術室に帰ってこなかった。

彼が現れたのは、その日からちょうどぴったり3ヶ月後のことだ。

彼がいない美術室にも毎日通い詰めていた僕は、いつも通り扉を開けると彼がいて、嬉しいような、驚いたような違和感を感じた。

彼の足元には椅子が転がっていた。

天井からは、ロープがぶら下がっていた。

そこに首を通していたのは、彼だった。

もう、息はなかった。

最初に思ったのは、「あれは俺なんだ」と言った時、何か返していればこんなことにはなっていなかったのだろうかということだ。

幸いにも、カーテンは閉めきられていた。

薄い黄色のカーテンが、静止していて、彼の体だけが揺れていた。

けたたましく蝉が鳴いていることに、ようやく気づいた。

しばらくその様子を見た。

彼はやはり、出会った時と同じく涼やかだった。

満足してから、椅子を駆使して彼の体を床に横たえる。

冷房が効いている室内とは言え、かなりの重労働だった。

改めて彼の顔を見る。

やはり、綺麗な顔だった。

彼の横顔が好きだった。

一生懸命にキャンバスを見つめる横顔が。

美術室の中、彼と二人で息をしていられることがただただ、嬉しくて、僕と君の二人だけの濃厚な時間が、あまりにも甘美だった。

彼が好きだった。

彼を愛していた。

そして、それと同じくらい憎んでいた。

彼の鼻筋を、彼のそばかすを、彼の黒子を、彼の唇を、彼の耳を、彼の目元を、なぞった。

冷たくて、気持ちよかった。

悔やまれるのはたったひとつだ。

僕が殺したかった。

あろうことか、僕は彼が僕より賢いことを忘れていた。

彼は死んでしまった。

仕方のないことだ。

死に顔を見れて幸せだと思うことにした。

ああ、と思いついてふらふらと教卓へ向かう。

常備してあるカッターから一番切れ味の悪そうなものを選んで、彼のもとに跪いた。

―僕はずっと、彼の目玉を抉り取りたかった。

僕はカッターを振り下ろした。

その瞬間、僕を苦しめていた“あの感情”が心臓を、喉を、声帯を、突き破ったのだろう。

「好きだ」

カッターが顔に突き刺さった彼は、今までのどの瞬間よりも美しかった。

手を血に染めて、綺麗な世界を見る眼鏡を手に入れた僕は、笑っていたと思う。

たぶん。








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