観察日記

佐藤

観察日記

「いってきます!」

 その一言を妹の口から聞いたのは、生まれて初めてのことだった。


「え、行ってきますって、どこに?」

 慌てて問い返す私の声を遮るように、すぐに返事が飛んでくる。

「ちょっと遊びに行くだけ。じゃあね!」

 玄関扉を開ける音と同時に、一段と大きくなった蝉の声が、家の中まで入り込んで来た。

 珍しい! 葉月が外に遊びに行くなんて。どうしたの? しかも、こんな暑い日に。どこで遊ぶの?

 そんなことを尋ねている隙もなく、蝉の声はまた外に閉め出されて、くぐもった音に変わった。何も聞くな、と言われているみたいだ。

 小さくなった蝉の声と一緒に、妹の足音も遠くなっていくのがわかった。


 いつもと様子が違う。おとなしいあの子に似合わない、妙に明るい声だった。わざとらしくて、まるで何かを隠しているかのような。

 気弱な性格で声の小さい妹だったが、今の声は私のいる部屋まではっきりと届いた。いつも妹と二人で使っている子供部屋。二人で過ごすには狭すぎるが、私たち姉妹は仲が良すぎるくらいで、嫌だと思ったことなんて一度もなかった。

 半分ほど開けた扉から廊下に顔を覗かせてみるが、すでに妹の姿がないことなんてわかっている。私だけが、静かな家にひとり取り残された。

 妹は八月生まれだ。だから葉月。今月の一日でもう七歳になったが、私と離れて一人で行動することなんて滅多になかった。私と妹は、いつも家でくっついて過ごしている。妹は、片時も私から離れようとしないし、ほんの短い時間でも私が外へ出ようとすれば、行かないでと腕を引っ張ってでも引き止めるような子だ。

 しかしそれは、私と離れたくないから、というわけでもないようで、葉月はたとえ私と一緒でも決して外へ出ようとはしない。きっと何か理由があって、家の外を恐れているのだろうと思っていたのだ。

 そんな葉月が、急にどうして?

 いや、もうやめよう。考えすぎだ。そうやって小さなことでいちいち心配しているから、葉月が余計に家から出られなくなる。妹から離れられないのは、むしろ私の方なのかもしれない。


「あれ?」

 玄関の靴箱の上に、水色のファイルのようなものが置かれていることに気がついた。慌てて出て行ったようだから、忘れ物かもしれない。

 吸い寄せられるように廊下を進むと、誰一人いない家の中、自分の足音だけが妙に響く。不思議な感覚だった。見慣れたはずの家が、一瞬で不気味な空間へと変わってしまったみたいだ。

 近づいて手に取ってみると、それは紙製のフラットファイルだった。勝手に中身を見てやろうというわけでもないが、なんとなく開いてみる。


 きんぎょのかんさつ 一ねん一くみ二ばん あきたはづき


 妹の学年とクラス、番号、名前が書かれたプリントが現れた。タイトルから、金魚の観察日記だとわかる。上半分に、四角い枠で区切られた絵を描くためのスペースが。下半分に、文章を描くための欄が設けられている。そのプリントがファイルに何枚も挟まれて、日記帳のようになったものだった。


 七がつ十九にち  きょうからきんぎょを、かんさつします。きんぎょはげんきにおよいでいます。くちをあけてうえにあがってくるからえさをあげたら、たくさんたべました。十つぶぐらい、あげました。さわったりなでたり、できないからかなしいです。でもきんぎょをかえてうれしいです。


 水色のクレヨンで塗りつぶされた、四角い水槽が描かれている。その隅にある緑色の海藻のようなものは、水草かアクセサリーだろう。そして真ん中で泳いでいる一匹の魚が、金魚だ。

 子供らしくて、拙い文章。鉛筆の下書きから豪快にはみ出した、鮮やかなクレヨンの色。一生懸命に書いたことが伝わってきて、かわいらしい。と思った。

 そのくらい、あまりにも自然で、一瞬気が付かなかった。

 うちは、金魚なんて飼っていない。

 これは、本当に葉月の書いたものなのか。いや、これは確かに葉月の字だ。一体、どういうことだろう。好奇心と、なんとも言えない嫌な予感から、無意識のうちに手が動く。二枚目のプリントが現れる。


 七がつ二十一にち  きょうは、きんぎょがすいそうのそこにあるじゃりをくちにいれました。でもはきだしたのでよかったです。ひとりでさみしくてひまなんだとだとおもいます。かわいそうだとおもいました。わたしもおなじだからきんぎょに、なつやすみだけでもいいからともだちになってよといってあげました。そういえばきんぎょのなまえはきめていませんでした。なににするかおもいつかないからです。


 「わたしもおなじ」? 葉月も、金魚と同じ? それは、葉月も一人で暇だということか。毎日、私と一緒に過ごしているのに?

 なんだか、私の知らない葉月の顔が、見えたような気がした。

 

 七がつ二十三にち  あさおきたらきんぎょがすこしおおきくなっていました。きんぎょがせいちょうしているからよかったです。えさをたくさんあげたからだとおもいます。もっと、えさをあげたらおおきくなるとおもうからもっとあげます。


 七がつ二十五にち  きょうは、きんぎょがもっとせいちょうしていました。すごくおおきくなっていました。すいそうがせまくなったらどうしようとおもってずっとみていたら、まばたきをなんかいもしました。はじめてみたから、おどろきました。


 七がつ二十七にち  きんぎょはとてもおおきくなっています。すいそうがもうせまくなりました。かわいそうだから、おかあさんにいいました。きんぎょはわたしのへやでかっているから、つれてきてみせたらすごくおどろいていました。でもそんなおおきなすいそうはないよといわれてしまいました。


 やっぱり、おかしい。うちでこんな出来事があっただろうか。全て葉月の妄想? 嘘? それにしては、やけに細かく書かれていて、小学生の考えた作り話とは思えない。じゃあ、友達か誰かに書かせた? まさか、葉月がそんなことをするとは思えない。じゃあ、私が忘れているだけ?

 私は、頭がおかしくなってしまったのだろうか。


 七がつ二九にち  きんぎょがすいそうとおなじぐらいのおおきさになりました。だからきんぎょがうごけなくてかわいそうです。おかあさんににがしてきなさいといわれました。だからふたりでもっていってぼうかすいそうににがしました。かなしかったけど、しかたないとおもいました。


 ここでようやく、もう一つの違和感に気がついた。さっきから葉月のことにばかり気をとられていたけど、そもそも、金魚が数日でここまで大きくなっていること自体がおかしい。水槽に収まらないなんて。

 やっぱり、ただの作り話ではないかと思い始めた。小さな金魚鉢のようなものならまだ分かるが、日記には二人で運んだというように書かれている。それなりの大きさがあるのか、防火水槽まで距離があったため、交代しながら運んだのか。

 そこまで考えて、家から防火水槽までの道のりを思い浮かべる。

 思い浮かべ、ようとした。


 その瞬間、ぞっとした。

 少し遅れて、全身に鳥肌が立つ。

 頭が混乱して、なんとも言えない感覚に襲われた。

 怖い。とてつもなく、怖い。

 わからない。家の周りには、何がある? 外は、どんな風景だった?

 どんなにどんなに考えても、なにひとつ、思い出せないのだ。

 待って、ここはどこ? 地名は? 住所は?

 もう、何もかもが、わからなくなった。

 一度気がついてしまうと、それが引き金となって、全てが一気に崩れていくのがわかった。

 誰か。誰でもいいから、ただ同じ空間にいてくれたら。自分も、同じようにこの空間に存在していると、信じることができたのかもしれない。現実から引き離されてしまう前に、ここで止まれたかもしれない。

 でも、ここには誰もいない。

 この日記は、妹の学校の宿題? じゃあ、私のは? 宿題とか、何も出されていなかったっけ。あれ、私、学校は? 行ってるよね? でも、学校名も、先生の顔も、クラスメイトの顔も、思い出せない。私は今、何年生? クラスは? 年齢は?

 冷や汗が止まらくなった。落ち着いて。大丈夫。ほら、暑いから頭がぼーっとしているだけなんだ。あれだ、あの、熱中症?

 さっきまで、冷房の効いた部屋にいたのに?


 これ以上、読んではいけない気がした。知らない方が、気が付かない方が、良いと思った。

 でも、もう戻れる気がしない。プリントを、また一枚捲る。


 八がつ一にち  ぼうかすいそうに、きんぎょをみにいきました。そうしたら、わたしよりもおおきいおんなのこが、ぼうかすいそうのフェンスからおりてきました。ぬれていたので、おちてしまったんだとおもいました。ぼうかすいそうをみたら、きんぎょがいませんでした。わたしは、きょうたんじょうびだから、おんなのこはきんぎょで、かみさまからのプレゼントだとおもいました。だからおんなのこをつれてかえって、タオルをあげました。ゆうがた、おかあさんにおこられるかとおもったら、おねえちゃんとおふろはいってきなといってきて、おんなのこも、わかったよ、おかあさん。といっていたので、おどろおきました。でも、いっしょにくらせてうれしいです。






 私は、もう随分落ち着いていた。自分の名前が思い出せないことも、全く不思議だとは思わない。

 その代わり、私はただ泣きたかった。

 私たちは、家族なんかではなかった。姉ではなかった。ここは、私の家ではなかった。居場所なんてなかった。

 これから訪れると信じていた未来も、まるで、あることが当然かと思っていたように振り返ろうともしなかった過去も。

 最初から全部、何も、なかった。

 それと、今も。

 自分の存在や周りのものが全部、ほんの短い間、私を騙すためだけに作られた雑なハリボテだった。

 どこにも掴まる場所がなくて、全部が空気みたいに軽くて、私は暗闇に落ちてしまうと思った。


 手の力が抜けて、ファイルを握ったままの片手をブランと下げると、挟んであった何かの紙が滑り落ちた。


 おねえちゃんへ


 にっきを、よんでくれましたか。いままでごめんなさい。わたしは、なつやすみだけでいいから、ともだちになってとおねがいをしました。だから、たぶんきょうでさいごだとおもいます。ほんとうは、いっしょにおでかけしたり、したかったけど、もしともだちにであって、おねえちゃんなんていなかったよね、といわれたりしたらどうしようとおもったから、こわくていけませんでした。でも、それでおねえちゃんかわたしのどっちかだけがそとにでたら、はなれるじかんができるから、みじかいあいだしかいっしょにいられないから、いやでした。でも、おねえちゃんのおかげで、まいにちたのしかったです。いままで、ありがとう。 はづきより


「ただいま、おねえちゃん」

 玄関を開けるとすぐに目に飛び込んできた、床に落ちたままの手紙。私の書いた手紙。

 その上で、一匹の赤い金魚が、ピクリとも動かずに横たわっていた。

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観察日記 佐藤 @Tomatoame0719

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