FRAGILE──壊れやすき者たちの革命

瞬遥

第1章 女たちは革命を夢見る ①少年だった、あの頃の私-1


1.1.1 静けさに忍び込む過去


壁にかけた時計の針が、静かに秒を刻んでいた。


深夜二時。

東京のビル街にあるオフィスの最上階。


机の上には書きかけの報告書、画面には今日の会議の議事録。

昼間の喧騒が嘘のように、建物は呼吸をやめたかのように静まり返っている。


私は窓際のブラインドを少しだけ開けて、夜の街を見下ろした。


雨が降っている。

霧のような細い雨が、街灯の光を柔らかく滲ませていた。

遠くに赤くまたたく航空障害灯が見える。


その明滅が、規則正しくて、どこか心地よい。



スカートの裾が、ふと冷たい風に揺れた気がした。

脚を包む薄いストッキングの感触は、こうして夜更けにひとりきりになると、いつも過去の記憶を引き寄せる。

ガラスに映っているのは確かに「私」だ。


細く整えた眉。

柔らかく落ちる髪。

口紅の痕跡がほとんど残っていない唇。


すべて、私の意志で選び取ったもの。

何一つ間違っていない。


──それでも、雨の匂いに混じってふいに鼻腔をかすめた“あの匂い”が、私の胸の奥に眠っていた記憶をやすやすと解凍していく。


畳の匂いだった。

古くて、少し湿った、夏前の田舎の家の匂い。


それは、私の原風景──

いや、正確に言えば、「私が私でいられなかった」場所の、匂いだった。


記憶の中で、玄関の引き戸がギィと音を立てる。


木造の廊下。

裸電球の下、茶色い壁紙のシミの位置まで、鮮明に思い出せる。


足を踏み入れると、すぐに父の咳払いが聞こえた。

喉の奥で引っかかるような音。

それが鳴るたびに、空気がぴんと張りつめる。


「靴は揃えろ。声が小さい。男なら、はっきり喋れ」


玄関に立ち尽くしていた“彼”──

まだ「私」になれなかった、あの頃の私は、その声だけで背筋を伸ばしていた。


父は市役所勤めの真面目な男だった。

誰に対しても丁寧で、頭のいい人だった。

でも、家の中では、すべてが彼の秩序で動いていた。

笑うのも、喋るのも、歩くのも、決められたルールの上でなければならなかった。


「椅子には男らしく座れ。背筋を伸ばして、膝を開いて、肘を机に置くな」

「いいか、お前は“男の子”なんだ。泣いていいのは女の子だけだ」


言葉の一つひとつが、身体に刻まれていくようだった。

命令は、感情の形をしていなかった。

ただの事実として、絶対の真理として私の中に押し込まれていった。


母は何も言わなかった。

いや、何も言わないことを選び続けた人だった。


食卓では、黙ってごはんをよそい、父の顔色をうかがいながら「よそはよそ、うちはうち」と繰り返す。


「ねえ、なんで……私だけ、違うの?」

そう口にした記憶がある。


でも、それが何歳のときだったのかは、もう思い出せない。


「しーっ。……お父さんに逆らっちゃダメよ」


母の口癖だった。

優しさでも、忠告でもなかった。

あれはただの、生き延びるための言葉だったのだと、今の私は理解している。


私は、“息子”としてあの家に置かれていた。

「私」として存在したことは、一度もなかった。


今、私はここにいる。

この手で、過去を変えてきた。

あの家を出て、学び、組織をつくり、革命を進めてきた。

誰もが「自分の性で生きていい」と言える世界を、ほんの少しだけ現実にしてきたはずだ。


──でもそれでも、私はときどき、“あの家の空気”に引き戻される。


外ではまだ、雨が降っていた。

ブラインドの隙間から見える街は、濡れたアスファルトの匂いを映し出すように、夜の底に沈んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る