春夏秋冬(ひととせ)

水目さち

春夏秋冬

溢れんばかりの青い空を恨んだあの夏の日、育てていた朝顔が枯れた。

 あの青い朝顔が枯れたから、僕は青空を恨んでいたのかもしれない。抜けるような青天を見上げながら、そんなことを、呑気にも、考えていた。残っているのは、言葉にすらならない拙い劣情と、バケツの上で構えた線香花火のような怒りだけだ。

「何見てるの?」

 聞こえたのは友人の声。

「空。」

 どんな声で答えたのか、今はもう覚えていない。逆立った声色をしていたのか、それとも色のない音をしていたのか。

「青い?」

 どんな声が届いたかは分からなくても、聞こえた声が優しかったことは今も鮮明に覚えている。

「青すぎる。」

「いいね。」

 セミの鳴き声の波にのまれながら、その声は舟のように浮かんで聞こえた。

「何が。」

 白いまだらな雲が、青い空に滲む。散乱した青い光が目に染みて、思わず瞼を閉じた。

「青いの、いいね。」

 穏やかすぎる声が耳を撫でた。夏には到底似合わないような、滑らかな優しい声。

「何がいいんだよ。」

 突き刺す陽光から逃れるために、自分の膝をじっと見つめながら言った。

「青ってなんだか、あったかいから。」

「世間では寒色って言うんだよ。青色。」

 冷たさを装った声で言った。とりあえず頭ごなしに否定したかった。理由も根拠も兎に角、置いておいて、世間は僕の味方だから、と否定したかった。だって、彼女の感じているその温もりを、僕は理解できていない。

「分かんない?」

 そんな意地も彼女の前では水道の水くらい透明になるらしい。声はおろか、冷たい息さえ出てこない。夏の空気で喉が渇いた。

「……分かんない。」

 子供じみた表情を見られないように、山形に立てた膝に顔をうずめた。砂を攫ってきた夏風が、後頭部を撫でる。

「帰る?」

「帰る。」

 アスファルトの向こうで、入道雲がぶくぶくと醜く太っていた。空へ手を伸ばす緑が茂る山と青い海

へ続く岸壁の間を、ひび割れたアスファルトが縫うように這っていく。

「行くぞー。」

 彼女は太陽を反射する白い自転車にまたがって、意気揚々とペダルを踏み出した。鉄さびを纏ったチェーンで甲高い音を立てて、その背中を追った。

 海と山に囲まれた村。自然豊かと言えばそれまでの、港の船も村人の心も全て潮風で錆

びついたような、そんな村。もちろん、僕も例外じゃないと思っている。いや、そもそも

例外にはなりえない。

「絵奈、危ない。」

 アスファルトのひび割れでタイヤを弾ませながら、ブレーキをほとんどかけずに坂を駆け下りていく。前を走る友人の背中がタイヤと一緒に宙を浮くたびに、冷たい汗が混ざる。

「だいじょーぶ。」

 ペダルを離れた両足が向かい風を切り裂いている。坂を下るうちに、視界の隅から船の帆が生えて、船体が現れた。何度も見慣れた、錆びついた船たち。

「家寄っていくでしょ?」

 崖下の海とせり立った林が開けてすぐ、白樺の家が見えてきた。西洋の、昔話にでも出てくるような洒落た雰囲気の家。他でもない絵奈、有栖川絵奈の、正式には、彼女が伯父と住んでいる家だ。

「……うん。」

 突き刺す陽光から逃げたかったのか、優しい声の誘いに抗う力は真昼の影程に小さくなっていた。

「おじさーん、啓介来た。」

「いらっしゃい。」

 すり硝子のはめられた扉の奥から、鼓膜を撫でるような、優しい低い声が聞こえた。

「おじゃまします。」

 自分の家とは違う、紙と絵の具の匂い。

「絵奈、また啓君を連れてきたのかい?啓君に迷惑じゃないか。」

 そう言って扉の奥から現れたのは、絵奈の伯父、祐飛さんだった。相変わらず、トレードマークの、油絵の具が独特の模様を描いたエプロンを身に着けていた。

「外にずっといて熱中症になったらどうするの。これは啓介のためだから。」

「お邪魔してすいません。」

 ブラインドが微かにこぼした日が影を彫り出すリビングで、いつも通りのお茶とやり取りに、凝った何かが解けていくのを感じた。

「いいの。啓介来なかったら、伯父さん休憩しないし。」

「いや、筆が乗ってね。」

「はいはい。」

 エプロンを取ってソファに腰を沈めたおじさんは、深い息を一つ吐いて目を閉じた。

「今は、何を描かれているんですか?」

「朝顔だよ。持ってこようか。」

 徐に立ち上がったおじさんは、床の静かにきしむ音を立てて、アトリエからその絵を持ってきた。胴体程の大きさのキャンバスに描かれた、二輪の薄い青色の朝顔。仄暗い背景と蔦から浮き出るような青色の花。

「綺麗ですね、静かな色彩で夏らしくないのに、なんというか、暑さから逃れて一休みしているって感じが、します。」

「はは、ありがとう。啓君は、今何を描いているんだい?」

「僕は、秋空、……ですかね。」

 喉につっかえた言葉を、お決まりのカップで出された紅茶と一緒に胃の中に流し込む。

「随分と曖昧だね。」

 追及を免れないことは予感していた。それでも凝った何かは喉を通らないほど大きくなっていた。

「伯父さん、啓介にだって話したくないことはあるの。」

「確かに、思春期で繊細な時期だからね。絵奈とは違って。」

「私も思春期だけど。」

「思春期の子は自分で思春期って言いません。」

 二人のやり取りを、幕を一枚隔てたように見ていると、自然と頬が緩んだ。

「うるさい。」

「反抗期ではあるね。」

「う~るさい。」

「啓君、今度、描いた絵を持って来てくれるかい?」

「え、いいですか?」

「勿論。絵奈が見てやってくれとうるさいしね。それに私も、興味がある。」

 柔らかい午後の日差しが白髪の混じったちり毛を透かして、おじさんの笑い皴に影を彫りこむ。教会の壁に描かれた、両手を差し出す聖人の絵画のように見えた。

「ありがとう、ございます。絵奈も。」

 ひまわりのような笑顔が綻ぶ。朝顔は枯れたが、世界を照らし温めるような黄金の花

は、満開だ。

「どういたしまして。」

 唇を緩く結んで、机の木目に視線を注いだ。

 次の日、僕は、スケッチブックを片手に有栖川家の呼び鈴を鳴らしていた。手や足がじっとしていられなくて、心が妙にふわふわとして、柔らかいクッションの上に立っているような感覚になった。

「いらっしゃい。」

 白に黒の木目が際立つ扉を開けたのは絵奈だった。

「おじゃまします。」

「それが絵?」

 絵奈の視線が、腕に抱えられたスケッチブックへ向けられる。

「そう。」

「あ、とりあえず入って!お茶用意してるから。」

「お邪魔します。」

 蝶番がきしむ音を立てて、晩夏の日差しを遮る。いつも通りの絵の具と木の匂いが混ざ

り合った涼しい空気が僕を出迎えた。

「いらっしゃい、啓君。持って来てくれたんだね。」

「あ、はい。まだ、色鉛筆画なんですけど。」

「完成はどうしたいの?」

「水彩画、ですね。」

 無意識にも握りしめたズボンに、汗が染みている。鼓動がだんだんと耳に響いて、その心臓の存在を主張している。

 絵奈の伯父である有栖川祐飛は、絵の道を少し歩けば必ずその名を耳にする。七年前、こんな片田舎に、絵奈と一緒に引っ越してきた。小五の頃に絵奈と知り合って、そのまま幼馴染と言われるような仲になった。僕が一人で描いていた絵を、絵奈に見られて、褒められて、僕の絵に声を弾ませる彼女をもっと見ていたくて、性懲りもなく描き続けた。絵、なんていくら描いたところで野良猫よりも相手にされない。特に両親は、金稼ぎの道具にもならない、場所と絵の具代と時間を浪費するだけの、子供の絵を、視界に入れようともしなかった。それでも、この手は筆を離さなかった。背中の後ろで吐かれた息には気づいていたのに。

「きれいだね。色使いも構図もよくできている。」

 思わず白んだ手の甲からはじかれたように目を上げた。眼鏡を外した、黒鉄の瞳に自分が映る。期待と喜色が滲んだ顔だった。

「でも、やっぱり本物を見た方がいい。きっと、印象も変わるだろう。それを見て、もう一度手を加えるといい。」

「ありがとうございます。やってみます。」

「九月中旬に〆切のコンクールがあるから、出してみようか。」

「……え?」

 痛いほど鼓膜を震わせていた心臓の音も、空気に満ちていた蝉の声も、その一言で夕凪のように一瞬にして静まった。

「えっと、」

「嫌だったかい?」

「え、嫌という、わけでは、ないですけど」

 快適な室内なのに、こめかみを汗がつたった。

「もちろん、啓君が嫌なら無理強いはしない。君の作品だ。君の好きなようにしなさい。」

「ちょっとだけ、待ってもらえますか?」

「もちろん。」

 木の幹のように重厚な声に、泡立った心が鎮まるのが分かる。アイスティーで喉につっかえたままの

緊張を胃の中に押し込んで、スケッチブックを受け取って席を立った。太陽が西に傾き始めた空を見て、秋の訪れを想う。

 ブロック塀と黒塗りの扉が出迎える、田舎にしては珍しいコンクリート造りの無機質な家に着く。

「……ただいま。」

「おかえりなさい。」

 エアコンの冷たい音に混じって母の声が聞こえる。

「それは?」

「スケッチブック。」

「……そう。」

 自分の間の悪さを心底憎んだ。晴れた空が黒い雲に覆われるように、重苦しい何かが頭

にのしかかる。廊下の床を目でなぞりながら、足早に自室に駆け込んだ。砂上の楼閣のような、安寧を求めて。

 降りしきる紅葉が涙だと知ったあの秋の日、恋の成れの果てを見た。

 教室の窓から校舎裏に佇む絵奈を見つけて、なぜだか首を突っ込んでしまったのだ。今思えばそれが間違いだった。

「ごめんなさい。」

 校舎裏、紅葉が色とりどりに染めた舞台、お決まりの台詞。三文小説でもあるまいし、なんてこれまたお決まりのツッコミを心の中で言っている、向き合った二人の会話を盗み聞きする自分。何てありきたりで、何てつまらない。

「そう、だよね。こっちこそ、ごめんね。本当に、気持ちを知ってほしかっただけなんだ。」

 少し震える、優しい声。秋のつむじ風にかき消されない程度の心細さをまとっていた。

「あ、ううん、私こそ、その、ありがとう、って言える立場じゃないけど、そう思っていてくれて、嬉しい。」

 声色こそ変わらないけど、出てくる言葉は細切れだった。そして空はどこまでも残酷なほどに乾ききっていた。コンクールへの出品まであと一週間。何をしているんだと自分をいさめても、罠のように敷き詰められた枯葉を言い訳に、ここから動き出せずにいる。紅の葉に攻められて身をすぼめる深緑の苔と目が合った。

「馬鹿馬鹿しい。」

 向ける相手も定めずにこぼした言葉は、枯葉と一緒に風がさらって行った。

 本当に馬鹿馬鹿しい。二人の足音が聞こえるより前に、足早に舞台袖を去った。

 本校舎から渡り廊下を渡った特別棟の二階、絵の具と木と粘土、それと少しの埃の匂いがブレンドされた匂いの漂う、美術室へと向かった。書き途中の水彩画用紙を取り出して、絵の具とパレットを用意する。窓と用紙とが重なるような特等席に陣取って、深呼吸を一つ。放課後の静かな美術室を独占できるのは、形骸化した美術部の特権だ。心の芯を凩のようにざらざらと撫でる映像をかき消すように、筆で絵の具を混ぜ合わせる。

「秋か。」

 紅葉が、窓枠の中を絵画のように彩っている。息をのむほどに真っ赤なのに、深い深い影が下りた葉が、すごく寂しく、冷たく、儚く見えた。心の深い底の底を、深紅が敷き詰め、染まっていく。

「やっぱり、ここにいた。」

「っ、」

 誰も来ないと油断して開け放っていたドアに、深紅の舞台で主演を務めた彼女が佇んでいた。

「えっと、邪魔しちゃったならごめん……、コンクールの出品期限まで、一週間だったよね?ちょっと、顔見たくなっちゃって。」

「いや、いいんだけど……」

 隠しきれない戸惑いの理由は、それじゃない。

「そっか、じゃあ、ちょっと、お邪魔してもいい?すぐ帰るから。」

「あ、うん。もちろん。」

 絵を描く僕の背中を、少し離れた場所から見守るような位置に椅子を置く。後味の悪くなるような気づかい分の距離が開いていた。

「それが、秋空?」

 夕日が染める海に三角形の穴をあけたような黒い帆と、紺碧と紫と茜が滲む空に、揺蕩うすじ雲。彼女には、伝わるだろうか。

「うん。」

「なんか、優しいね。陰影が……、この白っぽいのは、雲?」

「うん。巻雲、筋雲、色々呼び方あるけど、青空と一緒に見ると、さらしている白い布みたいって、昔の人は言ったらしい。」

「ああ、『多摩川にさらすてづくりさらさらに何そこの児のここだ哀しき』、」

 流ちょうに、それこそ歌詞の一説を口ずさむように流れ出た言葉に、肝が冷えた。よりによって愛情を歌った一首だ。

「この首、愛しい女性に向けた歌なんだって。でも、親が幼い子に向けた句なんじゃないかって説もあるらしいよ。」

 そう語る彼女の口調は、あまりにも無色だった。それこそ、川の清流よりも。

「私は後者の方が好きなんだ。飾り気もなく、ただただ好きだって、水の流れで洗われる

麻布を見て、そんな日常で真っ直ぐに愛を伝えられるのって、本当に深い愛を持った、親

くらいじゃない。」

 夕日の柔らかな橙に染まったすじ雲を指先で触って、思わず、紙の冷たさに安堵した。

「そんな親、そうそういないよ。いないから、万葉集にまで残るんだよ。」

 紙で指先を切ったみたいな、むず痒い痛みが胸に走った。

「……確かにね。この首は、この絵にちょっと合わなかったかも。」

 小筆を取り出して、細かい部分の色塗りに入る。影になった山と林、少しだけ浮き出る山間の村に、波打つ茜色の海。

「じゃあ、寂しさに、かも。」

「……宿を立ちいでて?」

 記憶を掘り返してようやく出てきた。本当に絵奈は引き出しが多くて広い。

「ご名答。視点がさ、画角って言うのかな、普通の人は、空をこんな場所から見ないじゃない。登山家くらいしかないじゃない。こう、人里離れた場所から、俯瞰している感じ。」

「何かの首で表さないと我慢できないの?」

 いつにも増して饒舌な様子に、少しばかりの不満が積もっていた。こっちはこんなに、汗でぬれた手で筆とパレットにしがみついているのに。

「言葉は、誰にでも伝わる。」

 端的過ぎて、その言葉の響きが余計に、やまびこのように、反響して、脳に飽和する。

「そうだね。」

 必要以上の言葉を紡がず、ただ、手を動かして、紙を彩る。寂しくなるほどに、いや、寂しいほど、より一層、目に染みる秋空を描く。


「……できた。」

 筆を握りしめたまま、本能が口を動かしていた。完成した。直感がそう言っている。

 寂しさに宿を立ち出でてながむれば何処も同じ秋の夕暮れ。悲しくなるほどにありきたりなのに、悲しくなるほどに綺麗な、そんな絵を描いたつもりだ。後は、コンクールへ応募するだけ。一生かかっても超えられないと思っていた、この一歩を阻む壁が、蹴り倒せる程度の段ボール箱のように思えた。

「タイトル、どうしよう。」

 応募用紙と向き合って、ペン先を机に突き立てる。悩みは頭をよぎったものの、きっと

最初から僕の頭は答えを決めていたのだろう。

「寂寥、か。いや、普通に寂しさでいいか。」

 等身大でいい。普通でいい。思いっきり背筋を伸ばして、部屋を出て、そのまま足先の向くままに歩き出す、終着点も、目的地も決めず。

 山の木々に混じって生える錆びた鉄塔、夕空に黒い線を描く電線、どこからともなく聞こえる鳥の声、耳にこびりついた蝉と波の音。坂を下り、住宅地を抜ければ、磯の香りが沁みついた港に着く。本当に、寂しくなるほどありきたりだ。生まれた時から、見つくした光景だ。戦争も核も、残虐な死もここにはない。ないがしかし、腐った苔と、錆びた錨と、魚をとるためだけの船はある。まるで、この町が世界からぽつりと浮かんだ孤島のように思えた。どうあがいても、僕は外へ行けないのだと思ってしまうような孤島。

 ふと、あの紅葉の舞台を思い出す。赤、黄色、視界は彩られていたはずなのに、どこか寂しい、現実から切り離されたような舞台。僕は絶対に立つことのない舞台。

「本当に、馬鹿馬鹿しい。」

 吐き捨てた言葉に応じて、鷗が鳴いた。


 ため息が霜を纏い白く煙ったあの冬の日、後悔のを知った。

 気づけばペンダントライトとコンクリートの屋根ではなく、重苦しい灰色の寒空が頭上を覆っていた。肌に押し付けられるような温かい空気ではなく、チリチリと細かい傷を残していくような寒い風が過ぎ去っていった。その日、親と喧嘩をした。数年前から予想はしていた展開だからか、ショックはそこまで大きくない。ただ、ただ、寂しい。

「何で、そんな、頭ごなしに否定するんだよ。」

 十二月下旬、薄く積もった雪がアスファルトのひび割れを埋めていた。届いた結果を祐飛さんと見て、僕は駆けだした。家にいる両親に、僕の絵が優秀賞の一角を飾ったことを伝えたかった。贅沢は言わない。絵で名を売ろうなんて考えていない。でも、少しでも、認めてほしかった。夢未満の、この思いを。

 くだらない、と言い放った母の言葉が頭を痛いくらい叩いて、頭蓋骨が壊れそうになる。気付けば自分の手の中で、通知の手紙は握りつぶされていた。いくら広げても、その皴が取れることはない。ため息が、白くなって、視界に映る。

「もういい。」

 先のない港へは行かなかった。坂を上って、白樺の家から目を逸らして、茶色い錆が侵

食するガードレールを伝って、影を引きずるように進む。雪に足跡が沁みついていく。足

が自然と止まって、その場に蹲る。大晦日も近い、ぼた雪が降るこんな日に車も自転車も、こんな道を通るはずもなく、頭と耳に染み込む雪に全感覚が集中した。

「……いた。」

 もう何十分経ったか分からない頃、坂の下から、少ない息を絞り出したような声が聞こえた。

「見つけた。啓介、」

 声の主は、見なくても分かる。

「啓介のお母さんから、家出したって聞いて、伯父さんは、自分の家に帰ったきり見ていないって言う

し。探し回ったんだから。港に行って、坂を上って、こっちまできて、本当に、心配したんだから。」

 言葉の間に、荒い呼吸が挟まっている。

「帰っていいよ。」

「啓介も連れて帰る。」

「いいよ、もう少しここにいるから。」

「もう少しって、いつまで?伯父さんから聞いた。啓介が私の家を出て、二時間近く経った、って。」

 水の混じった雪を踏む、耳を掻き立てる音が近づいてくる。

「……ねえ、本当にどうしたの?夏も、同じようなことあったけど。」

 蝉の音と共に肌にしみつく暑さが蘇ってくる。朝顔のスケッチをスケッチブックごと捨てられたのを思い出した。

「絵を捨てられた。」

「え?」

「夏の件の原因はそれ。今は、コンクールの結果見せたけど、一蹴された。」

「喧嘩したってこと?」

「平たく言えば。」

 母と二人で、相手の言葉も聞いていないくせに、感情に任せて言葉をぶつけ合った。少なくとも、僕はそうだった。

「でも、親御さんも、啓介のことを想って、」

「くだらないって、言われた」

「え?」

 腹の底から、堰を切ったように濁流があふれ出した。

「もう少し大人になれって、無謀だって、ばかなこと考えるなって、……僕の人生だ。なんでみんな口出すんだよ!」

 掠れて荒れて、刃こぼれしたハサミのような声が自分の喉から出るなんて、今まで想像すらしてこなかった。声有刺鉄線のように心を締め上げる。

「……啓介の、貴方の人生だよ。でも、貴方の人生を生きる人は、貴方だけじゃない。」

 涙が出るくらい、静かな声だった。喉に詰まった乾いた空気も、揺れながら伏せられるあの目も、白んで血管が浮かび上がるほど握られた拳も、とにかく鳥肌が立つほど不快だった。ざらざらした面が、心の臓の脆いところを逆なでして、その感触にめまいがした。いや、彼女がどんな行動をしても、誰のどんな仕草でも、きっと、僕の心は悲鳴を上げたのだろう。

「何で誰も彼も上手くいかない前提で話すんだよ。」

「何で、貴方は、上手くいくと信じて疑わないの。」

「僕が僕自身を疑ってどうするんだよ。」

「貴方が、貴方の人生を、最大限思いやらなくてどうするの。」

「思いやっているからこそ最大限夢見てるんだ!」

「展望のない夢は、破滅へしか向かわない。そんな夢、眠って見ているのと変わらないよ。」

「破滅するもしないも僕の勝手だ。」

「それで傷つくのは、貴方だけじゃない。」

「勝手に傷つくなよ。」

「そんなの、勝手すぎるよ。……ちゃんと、責任持ってよ。関わって、少なからず絆ができて……、少なくとも私は、もう、貴方の他人じゃない。傷つかないことなんてできないし、気に病まないなんて、できるわけない。」

「……もう、黙ってくれよ!とりあえず、うるさい。もう、本当に。」

「黙っていたら、何もしなかったら、……何も、変わらないじゃない。」

「……何ができるって言うんだよ。色も、分からないくせに」

 肺に、上手く酸素が入らない。十数年続けてきた呼吸の仕方が、頭からごっそりなくなったようだった。喉が、変な音を鳴らして、空回りばかりする。舌に残った、ざらざらした不快感の塊を、つばと一緒に飲み込んだ。後悔の味がしつこく口に残っていた。

「そう、だね。口挟んだ。もう、勝手にして。」

 真っ暗闇の崖に、落ちていくような浮遊感に襲われて、思わず顔を上げた。

「……違う!そういうつもりじゃ、違う、ごめん。本当、ごめん。」

 視界がなぜか歪み始めた。雪が混じった視界で、彼女の姿がぼやけていく。輪郭が、灰色の山に溶けていく。

「知ってたんだ。」

 温度を失い、冷静になっていく彼女の声に反比例するように、心の均衡は崩れていく。

「……なん、となく、気づいては、いた。それと、おじさんから、聞いた」

 得体のしれない力が口を動かして、声を出させた。言わなきゃならない。

「でも、本当に、本当に、違うんだよ、」

「分かってるよ。」

 頬が濡れた。雪ではなかった。生暖かい雫が、気づいたら頬を濡らして、マフラーに染み込んで、毛糸と首の皮を不快感でくっつけた。

「ずっと、黙っているつもりはなかったし、いつか言おうと思ってた。」

 もう、口論の発端すらも忘れてしまった。

「ごめん、慰めに来たつもりだったのに。……泣かせちゃったし、」

「いや、こっちこそ、ほんとに、ごめん。その、とにかく、ごめん。」

 白い息が曇天に吸い込まれていく。まるで口を突いて出ようとした濁流が、昇華されたようだった。

「……うん。」

「僕も、分かってるよ。こんな生半可な覚悟じゃ、挫折して、腐っていくって、分かってる。でも、否定だけは、してほしくなかったんだ。……ああ、もう、ほんと、馬鹿馬鹿しい。」

 体の奥底がぼうっと熱くなって、マフラーを投げ捨てたくなった。怒りとも恥ずかしさともつかない感情の残り火がくすぶっている。

「諦める準備はできているんだ。‥‥‥多分。」

「多分って何?ふふ、ここにきて、やっぱり諦め悪いね。」

 場に合わない呑気な笑い声に決まりが悪くなって、頬で乾いていた涙の痕を拭く。体を

呑まんとしていた怒りも、今では影もない。本当にくだらない。だが、そのくだらなさ

が、とげが刺さり、締め付けられた胸を温めた。

「……帰る?」

「帰る。」

 二人並んだ足跡を残しながら、雪が白く染めた坂道を下る。

「行くぞー。」

 何を思ったのか、ただでさえ滑りやすくなった悪路を、絵奈は駆け出した。

「絵奈、危ないって。」

 今度は肝が冷えた。体の中が熱くなったり、心臓が止まるほど冷たくなったり、本当に休まらない。

「だいじょーぶ。……あ、晴れてきたね。」

 その言葉でようやく、少し赤みが増した横日が海を滑って僕たちを照らしていたことに気付いた。いつのまにか、雪も止んでいた。

「家、帰りたくないなぁ。」

「うち泊まればいいじゃん。」

「お邪魔しようかな。」

 肌を刺す冷たい空気と、重たい空気が満ちる家から逃げ出したかったのか、甘い誘いに

抗う力は、冬の植物ほどに枯れ果てていた。

「おいでおいで~、伯父さんも大歓迎だよ!」

 白と灰色、少しの茶色の中で、スポットライトのように西日を浴びて、彼女は笑った。


 影を染める花びらが飾り立てる春の日、果実の甘さに頬が綻んだ。

「行ってきます。」

 口に一粒丸ごと放り込んだ赤いイチゴを堪能しながら、第一ボタンを閉め、ネクタイを皴なく結び、ブレザーに腕を通す。こんなにも堅苦しく制服を着こむのも、高校生になって片手で数えるほどだ。その貴重な一回の今日は、高校三年生の始業式。

「行ってらっしゃい。」

 相変わらずの無愛想な母の声も、今までより冷たく感じることはなかった。ちゃんと、お互い殻に隠した本音は言い合えたのだから。

 家を出て、いつも通りの通学路を歩く。古びた町が、桜で華やかに着飾っていた。

「おはよう。」

 校門の前あたりで後ろから声を掛けられる。春と桜がよく似合う、絵奈が笑っていた。

「頭、桜ついてるよ?」

 笑顔がいつもより優しいと思ったら、彼女は桜で化粧をしていた。

「あれ、ほんとだ。なんかいいことあるかも。」

 甘くて優しい笑顔に、つい頬が綻んだ。

「親御さんと、結局どうなったの?」

 ちょっと小さな家出をした後、顔を向き合わせて真剣に話した。結局冬休み中ぎくしゃくはしてしまったけど、着地点は見つけられたはずだ。

「今年も、コンクール出していいって。最後の最後に。最優秀賞狙いに行くから。」

 肩に降った桜の花びらをはらいつつ、そう宣言した。

「よし!私も応援しよう!」

 拳を丸めて、勇ましく言葉を放つ。本当に、頼もしい友人を持った。

「とりあえず、走るか!」

 遠ざかっていく絵奈の影を、桜の花びらが染めていく。仄かに煙る春の霞のように優し

く、うららかな日差しを帯びて鮮やかに、見事に染め上げていく。青空に線を引いたよう

な、真っ白なすじ雲が一本、空の果てを指していた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春夏秋冬(ひととせ) 水目さち @shfre

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る