愛を結ぶ

ばなえふ

焦がれるもの


 放課直後の教室は、忙しなく生徒達が往来し、六時限に及ぶ閉鎖的な授業から解放された喜びを喧騒という形で示している。


「ねえ、佐藤くん」


 その騒がしさに紛れるように、いつの間にか一人の女子生徒が俺の前に立っていた。


「ちょっと今、時間もらえない?」


 断れば、この問いは無かったことになって、俺は家で一人過ごすことができる。しかし、その時間を退屈で無目的なものだと思っているのも事実だった。

 だから——、


「——別に、いいけど」


 こう答えることにした。





 四階建ての校舎、その四階から、さらに上へ続く階段がある。

 立ち入り禁止と書かれた立札を躊躇なく素通りし、階段を踊り場まで登ってから、彼女はこちらへ振り向いた。


「ここ、知ってた?気に入ってるんだよね」


「いや、誰か来たらまずいだろ」


「来ないよ。いつもここでお昼食べてるけど、一回もバレてないから」


 そこは四階から屋上へ上がるための階段だった。最近の学校は、校内暴力や安全といった観点から、屋上の立ち入りは殆ど禁止されている。

 蛍光灯は消えていて、光源は窓から差し込む陽光のみ。南京錠が付いた両開きの扉だけが存在を主張し、高校という賑やかな空間から断絶された寂静が感じられた。


 彼女が踊り場の床に腰を下ろすのにならって、俺もその場に座った。

 彼女は胡座をかいていた。その為に膝から太ももにかけてが惜しげも無く晒され、スカートもかなり際どい状態になっていた。

 俺は決まりが悪くなって視線を逸らした。それに気付いたのか、彼女はまず正座をして、お姉さん座りをして、次は両足を前に投げ出す形にして————どれも落ち着かないのか、結局胡座に帰着した。


 なんでだよ、と突っ込みたくなったが、それでは話が進まない。

 本題に入らなくては。


「それで、どうしたんだ?」


 言うと、彼女は顔に一瞬の迷いを浮かべた後、意を決した様子で告げた。


「私は、堀岡くんと付き合いたいの」


「だから佐藤くんには、それに協力してほしい」


 その言葉で、俺は一連の流れ全てを得心した。





 彼女の事は以前から知っていた。名前は金村結愛。テスト期間——出席番号順の席順に変わる短い期間だけ、席が隣になる。

 ついこの間の前期期末試験の時も机を並べていた。会話をした事もある。


 彼女はいつもマスクをしている。コロナの脅威はとっくに過ぎ去ったというのに。今、目の前の金村さんも、いつも通りマスク姿だ。

 

 地味。それが俺の印象だった。口数は多くなく、服装も学校指定のブレザーで、伸ばせば肩まではあるかという黒髪をヘアゴムであっさりとポニーテールにまとめている。

 しかしどこか儚げな雰囲気を放っている、そんな人だった。


 そして堀岡——堀岡翔星は、言わば学校のアイドルだ。

 顔が良く、頭が良く、運動神経も良ければ性格も良い。当然の如く校内の女子人気を一身に集めている。

 つまり、ライバルは多い。堀岡が言うには、自分に告白してきた女子は高校だけで既に両手で数えられるかどうかといった数らしい。

 そんな状況で、同じクラスという訳でもない金村さんが堀岡と付き合える可能性は、普通にやっていては皆無に等しい。

 誰かが橋渡しをする必要がある、と考えるのは当然のことだろう。


 俺に仲人として白羽の矢が立ったのは、顔見知りだという事もあるだろうが、最たる理由は、俺と堀岡が同じ硬式テニス部所属であることだろう。

 俺のクラスには他にテニス部所属の人はいないし、彼女にとっては俺が一番まともな選択肢なのだ。


 ただ——、


「俺は多分、金村さんの力にはなれない」


 俺はそう告げた。


「俺と堀岡は別に仲良しじゃない。協力できることは少ないと思う」


 金村さんの頼みの綱は恐らくそう多くない。ともすると俺が最後かもしれない。でも俺には力不足で、務まらない。


 悪いとは思うが、俺は、「——それでも」


「それでも協力して欲しいの」


 少し、驚いた。金村さんは協力さえ得られれば恋が叶うと考えたから、俺なんかに話を持ちかけたのだと思っていた。

 しかし低い確率だと知っても尚、諦めずに少しでも可能性を高めようとしている。


「ちなみに、受けてくれたら、佐藤くんのお昼、毎日私が払ってあげるよ」


「……マジ」


 魅惑的な提案だった。三百円程度の購買パン。それを毎日奢って貰えるのは、大きいメリットだった。


「……わかった。できる事はするよ」


「ホント?よかった。交渉成立だね」


 自分には不釣り合いだと認識していながら、最後には飛び付いてしまった。


「そしたら明日の昼休み、またここで」


「四階に降りる時が一番危ないから、気を付けてね」


 そう言い残して去る金村さんの背中を見送りながら、考える。

 俺は、感じていた屈託が晴れる事を期待している、それだけではないか。と。




 明くる日、俺が周囲を気にしながらも階段の踊り場まで到達すると、金村さんはその更に上、屋上への扉のドアノブに手を付けていた。


「そこで何やってるんだ?」


 そう言うと、金村さんは振り返って返答する。


「いや、何とかして開けられないかなって」


「流石に南京錠は……叩き割るくらいしかないだろ」


「ハンマーでも使ったりしてね」


 言いながら金村さんはこちらへ降りて来て、


「はい、これ今日のお昼」


 俺にコンビニのビニール袋を差し出した。


「私、いつも行きにコンビニで買って来るの。だからついで佐藤くんの分も買うことにしたって訳」


 袋の中を見ると、焼きそばパンと紙パックのリンゴジュースが入っていた。


「これで足りるよね?いつもこんな感じの食べてるし」


「ああ、これで十分だ」


 入学してから購買のパンを半年以上食べ続け、正直飽きを感じていたから、味変できるのは有り難かった。


「でもこれ……俺に選ぶ権利はないって事だよな」


「まあまあ、そこは私のセンスを信じてよ。タダなんだしさ」


「俺、抹茶とミントは嫌いだから。よろしく」


「おっけー、覚えとく」


 そんなやりとりを経て、またも胡座で座る金村さんに話を切り出す。


「現状を確認しよう。堀岡との関係がどれだけ進んでいるか、だ」


 まずは現在地を知って、今後の計画を立てる。それが第一歩だ。


 スティック状のパンをマスクの下から口に入れている彼女に問う。


「まず、LINEは交換してる?」


「してない」


「……じゃあ、インスタかBeRealは繋がってる?」


「いや?」


「…………そもそも向こうは金村さんのこと知ってるのか?」


「多分知らない」


「………………」


 雲行きが怪しいな。


 彼女は慌てて弁明する。


「でもね、話したことはあるよ」


「どんな風に」


 聞いて、焼きそばパンを一口かじる。


「廊下でね、私の不注意でぶつかっちゃって、そしたら、『大丈夫?ごめんね?』って」


 ……え、それだけ?


「それ、会話にすら発展してなくないか?」


 黙る金村さん。


 イケメンはこれだから。たった一回の接触で相手の心を掴めてしまう。

 金村さんも、その時にうっかり惚れてしまったのだろう。


「はあ、とにかく、まずは堀岡に認知される所からだな」


 そう結論を出した所で昼休みは終わった。





 テニスコートは西日に染まっている。


 テニス部は平日のオフは水曜日だけ。昨日が偶然その日だっただけで、今日は練習に参加しなければならなかった。


 ちらりとコートの外を見ると、知らない女子が数人フェンスに張り付いていた。

 その視線の先には堀岡がいて、彼が一球打つ度に黄色い声を上げていた。


 たまに観衆の一部が堀岡に話しかけているところを見るし、女子達にとっては認知してもらう良い切っ掛けになっているのだろう。

 金村さんは今日は来ていないようだが、いつもは居たりするのだろうか。


 俺の番。足の位置とタイミングを合わせてラケットを振り抜く。

 放たれたボールは、コートから大きく後ろに着弾した。

 誰も反応することはない。観客はずっと堀岡に釘付けだし、後ろで待つ人達も他人のプレーには口出ししない。


 残暑が襲うテニスコートに、ラケットの小気味良い音だけが残響していた。





 踊り場に俺が少し遅れて行くと、金村さんは階段の銀色の手摺りをじっと見つめていた。


「悪い、提出物があって、待たせたよな」


「え?ああ、いや、全然良いよ。それよりこれ、今日の分ね」


 手渡されたビニール袋の中身はサンドイッチとコーヒー牛乳だった。


「ごめん、ちょっと潰れちゃった」


「いや、大丈夫、気にしない」


 ひしゃげたサンドイッチの包装を剥がして、一口。


「なあ、金村さんは堀岡のテニスを見たことあるか?」


 そう切り出すと、金村さんはきょとんとした表情で、


「え?ないよ?」


 と答えた。


 練習を見学していいと知らなかったのだろうか。俺に昼食を奢ってまで協力を仰いだというのに、金村さんの言動からはいまいち積極性に欠ける印象も受ける。


「別に、コートの外までなら禁止されてない訳だし、来ればいいんじゃないか?」


「それ、他の皆も来てる?」


「そりゃもう毎日のように誰かしらは居るよ。まあ、知り合いになるには有効な方法だと思うし、今日にでも来てみればいい」


 金村さんはマスクの下で咥えていたストローから口を外して頷いた。





 校舎の間の、ちょうど死角になっているスペース。そこに俺は座っていた。


 ポケットに忍ばせたスマートフォンを眺めていると、二人の男子が姿を現した。


「最近はだいぶ涼しくなったなぁ。前はここに居てもクソ暑かったのに、今や快適だな」


「それな。時間を潰すには最高過ぎるわ」


 片方はメガネをしていて、手入れをしていないのか、顎から黒い線がいくつも伸びている。

 もう片方は髪の毛を無造作に伸ばし、顔をびっしりと覆うニキビをぼろぼろの爪が生えた右手で擦っていた。

 俺達は端的に言えばサボっていた。


 テニスコートは女子と共用で使用していて、そう多くの人がプレーできる状況ではない。

 だから一年生と二年生は交代でコートを使い、コート外ではランニングや筋トレなどをするようになっている。

 俺は筋トレが嫌いだ。実際に球を打って練習した方が良いに決まっているのに、それ以外で体力を使うのは非効率的だと思っている。

 ランニング中に誰も見ていないことを見計らってコースを外れ、物陰に逃げ込んで時間を潰す。それが俺達の過ごし方だった。


 俺は高校生という自由を持て余していた。アルバイトをする気力も無いし、勉強に専念なんて以ての外。それでも何もしないでいるのは気が引けて、部活に入ることに決めた。


 テニスを選んだのは、中学時代に軟式テニス部だったからだ。中学では皆練習が嫌いで、雨よ練習を中止にしてくれと毎日のように懇願していた。


 しかし高校では違っていた。

 コートが少ないという不利要素を振り払うかのように、皆が一心不乱に鍛錬を積み重ねている。

 その代表が堀岡だ。陸上部出身の堀岡は持ち前の体力で努力を重ね、天性のセンスで既に経験者の俺を上回る実力を手に入れていた。

 今も、堀岡は腕立て伏せなんかに精を出しているのだろう。


 考え事をしていると、スマホの中のキャラクターは相手の攻撃に体力を根こそぎ奪われて消滅していた。


「あ、死んだ。ごめん」


「おいおいそこでデスはマジで終わったんだが?」


 数的不利を押し付けられ、二人のキャラも仲良く力尽き、敗北の文字が画面に映し出された。


「まあいいや、そろそろ時間だし、戻ろうぜ」


 そうして俺達がコートの辺りまで行くと、何人かのギャラリーに紛れて、マスクを付けたポニーテール、——金村さんの姿があった。

 彼女は俺の姿が見えないのを気にしていたらしく、


「お、いたいた。どこ行ってたの」


 と聞いてきた。


「いや、まあ、ちょっとな」


 サボっていたとは言えず、曖昧に濁してしまった。


「とにかく、一年はこれからコート入るから、堀岡のプレーをきっちり見てやれよ」


「ん。そうする」


 始まった練習は、いつものように堀岡のライブ会場じみた様相を呈することになった。


 西日が堀岡の横顔を照らし、眩しそうにしながらも力任せに叩いたボールは強烈なスピンでネットの上を通過。そして勢いそのままにコートに落下した。

 素人目にも卓越した威力だとわかるのだろう。歓声を上げる観客。金村さんも集団から少し離れた所で同じように拍手を送っている。


 次は俺が打つ番。だがやはり観衆の視線は後ろで待つ堀岡の方を向いている。

 俺の打球はコートの隅を突くように着弾する良い一打になったが、相変わらず女子の目は——いや、金村さんだけは小さく手を叩いていた。

 それで力が入ったのか、次のスイングは明らかに足運びを乱し、ボールはネットに吸い込まれた。

 来いなんて言わなきゃ良かったかもしれない。普通に恥ずかしい。


 それでも知り合いに下手だと思われるのは避けたくて、いつもより真剣に練習に取り組んでいくのだった。





 月曜日。また例の踊り場を訪れていた。


「この間の練習、面白かったね」


「まあ楽しめたならいいけど、俺はなんか力入っちゃってたな」


 その日の昼食はメロンパンとブラックコーヒー。メロンパンの甘ったるさをコーヒーの苦味が調和していて、悪くない組み合わせだ。

 

「まだ堀岡とは話せてないんだろ?また来たら良い」


「そうだね。また行くよ」


 練習に通い続けて、話し掛けたりしていれば顔も覚えてもらえるだろう。単純接触効果というものもあるし、見に行くメリットは大きい。


「それで」


俺は口を開く。


「金村さんと堀岡の共通の趣味を探そう」


「共通の趣味?」


「例え会話ができたとしても、話題が無かったらそこら辺の女子と一緒だろ?」

 

「なるほど。趣味の話題から入って親しくなるっことね」


 とはいえ、堀岡は家だと基本的に勉学や筋トレに時間を費やしているらしく、話題としては物足りないような気がする。


「残されたのは……ソシャゲか」


 常に自己研鑽に励む堀岡だが、束の間の癒しとしてスマホゲームをしているのを見ることがある。


「てな訳で、何かスマホゲームやってるか?」


 そう問うと、金村さんはスマホのゲームアプリのフォルダを見せてきた。


「お、結構あるな」


 フォルダには誰もが知るような有名ソシャゲばかりが並んでいた。ベタなところは一通り手を出すタイプのようだ。


「例えばコレとか、堀岡もやってるな。というか俺もやってるし」


「ふーん。でも私、あんまりやり込んでないよ、コレ」


「多分堀岡もそう多くは時間を使えないだろうし、似たような進行度だと思うけどな」


 そう言って、俺は自分のスマホからそのアプリを起動した。


「とりあえず、フレンドになっておこう。なんかあったら手伝うから」


 金村さんの画面を見てフレンドコードを入力する。


「あ、申請来た。えっ、めっちゃやり込んでない?ランク高すぎだし。どうしたらこうなるの」


 部活も勉強もサボっているからだ、とは言えなかった。


「ねぇ、このゲームって何すれば良いの?いまいちわかってないんだよね」


「いや、それを堀岡に聞くのが良いんじゃないのか?」


「ちょっとまだハードル高いって。佐藤くんが教えてよ」


 結局その日の昼休みは二人でゲームに費やすことになった。





 それからはゲームをしながら昼休みを過ごし、月曜日と金曜日は金村さんが部活を見に来る。そのサイクルが続いた。





 ビニールの中身はミニクロワッサン五個入り、そしてペットボトルの三ツ矢サイダー。


「そういえばさ、佐藤くんって入学したての頃は眼鏡してたよね。どうしてやめたの?」


「俺は生まれつき目が悪くて眼鏡だったんだよ。中学では皆見た目とか気にしてなくて、それでも馴染めてたんだけど、高校だと基本的に外見整えて来ててさ」


「ああね。なんかさ、そういう周りの風潮に合わせなきゃ、みたいな流れあるよね」


「そうなんだよな。それで何となく浮いてる感じがして、コンタクトに変えたんだよ」


「でもさ、私からみたらコンタクトにしてから逆にクラスに溶け込んじゃったみたいだったけどね」


「自分でも特に印象のない奴だと思ってるよ。まあ眼鏡を外すことで返って没個性になってるんだろうな」


「じゃあ元に戻す?」


「いやそれも今更だろ。一度変えた以上、もう眼鏡には戻れないな」





 鮭とツナマヨのおにぎり、そしてコーラ。


「あ、おにぎりになることもあるんだな」


「今までずっとパンだったからね。飽きてたんじゃないかなって」


「実際マンネリ気味ではあったから、有難いな」


「ちなみにリクエストしてもいいよ。明日食べたいな〜って物があったら言ってね」


「へぇ、じゃあホットスナックのチキンで」


「それはちょっと値が張るなぁ、他に飲み物しか買えないよ?」


「うわ、それはキツいな。でも仕方ないか」


 



 いろはす、塩おにぎり、そしてホットスナックのフランクフルト。


「うわっ、負けちゃった」


「あの攻撃ってこんなに喰らうのか。流石に耐えると思ってたけど」


「やっぱり、まだ私にはこのレベルの相手は早かったってことかぁ」


「いや、もう少しキャラを強化すればギリギリ勝てる気がするけどな、どうだろう」


「あの攻撃を耐えられるようにHpをメインで上げればいけそうじゃない?」


「確かに、それで行こう」





「よ。来たぞ。って、何見てるんだ?」


「ん。英単語帳」


「ああ、四時間目って単語テストか。完全に忘れてたな」


「ふーん、もしかしてやばいんじゃない?」


「ああ、やばい。だからちょっと見せてくれないか?」


「仕方ないね。いいよ。ほら、隣来て」


 カレーパン、紙パックのぶとうジュース、フェットチーネグミのソーダ味。


「なあ、あの先生さ、小テストの実施頻度高すぎないか?」


「んね。最初は優しそうな雰囲気してたんだけどなぁ。鬼畜だったね。提出物遅れて出すのとか絶対許してくれないし」


「けどさ、昨日あの難敵を撃破した俺達なら、半分ちょいは取れるだろ」


「半分ってしょぼくない?確かにあれは死闘だったけどね。てかグミ一個ちょうだい」


「ん。てか見ろよ、サクリファイスって『生贄』って意味らしいぞ」


「あ、あのキャラの必殺技ってそういうことなんだ。何で味方のHp削るんだろって思ってたよ」


「よし。これで一単語は絶対忘れないな」


「全部こんな風に覚えられたらいいのに、そうはいかないもんだね」





 色々ありつつも、年が明け、一月が終わろうかという頃。金村さんは堀岡に名前を覚えられることに成功していた。


「さて、そろそろ考えなきゃな」


「何を」


「バレンタインデーだよ。もうすぐ二月だし、準備し始めた方がいい」


 胡座を組んだ金村さんは今その存在を思い出したという様子。


「ああ、チョコね、やっぱり皆用意するのかな」


「そりゃそうだろうな。年に一度のイベントだし。気合い入れてるだろうよ」


 漫画のように、靴箱を開けると雪崩の如くチョコが溢れてくる、なんてのも堀岡なら有り得そうだ。


「でも、だからこそ」


 俺は続ける。


「チョコじゃダメだと思うんだ」


 堀岡が受け取るチョコの量は計り知れない。だから金村さんが同じようにチョコを渡しても印象に残りにくい。


 何かあるか、堀岡の印象に残る物。


「ま、ここは俺がさらっと聞くのが一番か」


「えっと、まぁ、佐藤くんがそう思うなら任せるよ」





「なあ、堀岡。ちょっと良いか?」


「ん。佐藤か、どうした?」


 部活が始まる前の更衣室。他にも多くの生徒が着替えている、その場所で俺は上手いこと堀岡と居合わせることができた。


「中学の友達に今度誕生日の奴がいて、そいつにプレゼントをしてやりたいんだよ」


「はあ」


「そいつもテニス部だからさ、何を送れば良いかのアドバイスを聞きたい」


「うーん、俺に訊かれてもね。佐藤が自分で選んだ方が良いんじゃない?」


 これは良くない。会話を誘導しなければ。


「その参考としてだよ。堀岡が今一番欲しいテニス用品を教えてくれ」


「あー、それなら、グリップテープとかは?俺握力強いから、すぐボロくなっちゃうんだよ」


「なるほど」


 これは有力な情報だ。


「ちなみに、堀岡の好きなお菓子も聞かせてくれ」


「え?それ今のと関係ある?」


「同時に食べ物もあげるんだよ。何が良いと思う?」


「いやぁ、お菓子は糖分が多くて、食べないんだよね。他を当たった方が参考になると思うけど」


 ついでに食の好みまで聞き出そうとしたが、ここまでにしよう。しつこく行くと勘繰られそうだ。


「そうか、助かった。ありがとう」


 そう言って制服をリュックに押し込もうとすると、


「俺からも、良い?」


 と制止された。


「何だ?」


「佐藤と、あと二人、いつも筋トレの時にサボっているでしょ。バレてるよ」


 その話か。

 尚も堀岡は続ける。


「俺、そういうの嫌いなんだよ。他の人はやってるのにさ。自分達だけ楽しようなんて、都合が良いと思わない?」


痛いくらいの正論だ。


「多分次の部長って、俺なんだよ。実力的にもだし、中学の頃は俺、部長してたし」


 先輩達も彼の腕前やリーダーシップをかなり評価していたし、彼の予想は的中するだろう。


「それで、四月になってさ、後輩が入って来た時に君らみたいなのが居たらダメでしょ。部そのものの評判も落ちるしね」


「それは悪かったよ。とにかく、プレゼントの助言ありがとう」


「……ああ」


 堀岡の咎めるような声を背に受けながら、俺は逃げるようにその場を去った。





 ビニール袋から取り出したソーセージパンを口に入れ、俺は金村さんに前日の成果を報告する。


「堀岡の所望はグリップテープで、糖分の多いお菓子は喜ばれなさそうって感じだな」


「お菓子も渡すんだね。手作りの方がいいかな」


「市販の買うよりは印象に残りそうだけどな。俺は貰ったことないから分からないけど」


「えっと、なんかごめん?」


「気にすんなよ。それより、筋トレ好きに喜ばれそうなお菓子……調べるか」


 俺はブラウザの検索窓に『筋トレ お菓子 手作り」と打ち込み、表示された情報を流し見していく。


「お、これとかどうだ?」


 スマホの液晶を金村さんの方に向ける。


「んーと、プロテインで作る高タンパクチョコケーキ?」


「ああ、プロテインって同じ物をずっと飲んでると飽きるらしいし、代わりにこれ食べてって言って渡せば良いんじゃないか?」


「チョコは他の子にも貰うだろうし、味は変えたほうが良いかもね」


 こうして、バレンタインにはプロテインケーキとグリップテープを送ることに決定した。





 二月十三日。画面には台所の映像が映し出されていた。


「映ってるかな。おーい」


「あ、大丈夫。見えてるぞ」


 LINEのビデオ通話越しに見えるのはエプロンを身に付けた金村さんの腰部。


 バレンタインを翌日に控え、俺は彼女のケーキ作りをスマホを通して見守っていた。


「じゃ、最初は何するの?」


「最初は、バナナを細かく切る工程だな。食感が良くなるように、ちゃんと固体で残してくれ」


「了解。てか、なんかこれ、ちょっと面白いね」


 お菓子作りという中学の家庭科みたいなことをスマホを挟んだ指示で進めるという体験は確かに新鮮だ。


 彼女はプラスチック製の包丁を卒なく操り、特に詰まることなく次の工程へ移る。


 手袋を付けてプロテイン入りの生地を混ぜ、バナナをそれに入れ、電子レンジで加熱する。


「これで終わりかぁ、早く終わったね」


 調理は拍子抜けな程あっという間に完了し、後はレンジでの焼き上がりを待つだけとなった。


「金村さんの手際が良かったからだな。俺は指示出してただけだし」


「いやいや、簡単にできるレシピを調べてくれたのは佐藤くんじゃん。ありがとね」


「ん、どういたしまして」


「後は私だけで何とかできそうだし、そろそろ切るね」


「分かった。じゃ、また明日」





 来る放課後、テニスコート前に参じた今日のヒーローは、案の定両手にビニール袋をぶら下げていた。


 さらにテニスコート前で張り込んでいた女子達に一斉に群がられ、照れた表情で勿体ぶられた後、好意の塊を手渡されていた。


 その場の誰かが口にした「茶番じゃねえか」という言葉が真理だった。


 練習が始まると、観衆がいつにも増して多い。その中に金村さんの姿も確認できた。

 

 そして日が落ち、気温も下がり、立っているのも億劫になるであろう頃、残っていたのは金村さんと数人のみだった。


 片付けとミーティングを終え、更衣室から出てきた堀岡に金村さんが声をかける。


 人目の付かない所へ移動したのを見届け、俺は校門へと向かう。


俺にはこれ以上を知る権利が無い。

 これは金村さんの恋路であって、俺は手伝うだけ。それ以上でも以下でもないのだ。


 周囲はいつもより浮き足立ち、各々が他の誰かと並んで歩いている。


 風は凍える程に冷たく、吐く息は白く見えて胡散する。


 早く帰って、暖かい部屋で休みたい。

 何か一つの重大な仕事をやり遂げた気分だ。

——そう、俺は仕事としてこのバレンタインを終えたのだ。後はその結果が良いものであることを祈るだけ。

 市街地の灯りで星が相対的に輝きを失い、一等星や二等星のみが光る星空。


 俺はポケットに左手を入れて、右手で歩きながらスマートフォンを弄ろうとした。


 その時だった。


「おーい」


 そんな声が聞こえたと思うと、後ろを歩く何人かの生徒達を押し退けて、金村さんが走って俺に追い付いていた。


「はぁっ、暑い。こんなに全力で走ったのなんて久し振りだよ」


 膝に手を当てて息を整える彼女は耳を赤くしている。どうやらかなり急いで走ったようだ。


 余程暑いのかマスクを外して、額の汗をハンカチで拭っている。


 その顔を見た瞬間、不思議な感覚がした。

 俺は彼女を地味と表現していた。しかし不織布の内に秘めた部分が露わになると、そこ以外すらも今までと異なるように見えた。

 見慣れていたと思っていた顔が見慣れていなかったことに気付く。その感覚に、俺は固まって言葉を失っていた。


「待っててって言えば良かった。スタスタ行っちゃうんだもん。追い付かなかったらどうしようと思ったよ」


 駅はもう目と鼻の先。こんな短い時間の為に息を切らしたというのか。


「えっと、それで、堀岡は喜んでくれたか?」


「感触は良かったよ。ただのチョコをあげてたりしたら、こうはならなかっただろうね」


 飽きる程のチョコを受け取っていた堀岡が喜んだなら、与えた印象の強さは他の女子と比べても大きかった筈だ。成功と言って良い。

 彼女からすると価値ある前進だ。


 改札口に到着した。ここで彼女は目の前の改札を通り、俺は別路線の改札に向かう。


「待って」


 俺を呼び止めた彼女は、いつの間にか小さな箱を手に持っていた。


「これ……俺に?でも昨日は……」


「もう一個作ったに決まってるでしょ。お世話になってて、何も無しなんて、できるわけないよ」


 人が歩いてきては消えていく。その映像が背景のように、眼前の一人の少女を写真の如く写し出していた。


 俺はその箱を受け取って制服の左ポケットに入れる。


「ありがとう、金村さ「ねぇ」

 

 礼に差し込まれた声。


「結愛って、呼んでみてよ」


 ゆあ、その響きが頭の中で転がるように反芻される。


「私の名前。忘れてなんかないよね」


 薄く微笑んで俺を見つめる金村さん。

 彼女が好きなのは、堀岡であって、俺じゃない。

 俺がその名を呼んでしまえば、俺達は恋の協力関係を逸脱した何かになってしまう気がしていた。


「私は、佐藤くんになら、いや、——遥真くんになら、呼ばれても良いかなって、思う」


 遥真。それは俺が誰よりも良く知る名前。親以外では、実に十ヶ月振りに誰かの口から出た名前。

 それが彼女の声で、耳の穴に浸透するみたいに、俺に届く。


 九月のあの日、俺に時間をくれと言った彼女の姿が、マスクの紐を耳に掛け、佐藤くんと声をかけた彼女の姿が、何故だか今に回想されていた。


「ありがとう、————結愛」


 この声にどれだけの感情が含まれていたかは俺には解らない。それでも彼女——結愛は、潤んだ瞳を一度瞬かせ、俺が知る中で最高の表情で、笑ったのだった。





 二月十七日。月曜日。


 ビニールにはツナコーントーストとミルクティー。


「いやー、こんなに寒いのに毎日外で動いてるなんて、運動部はすごいね」


「俺からしたら、二月であってもスカート履いてる女子達の方がよっぽどすごいと思うけどな」


 金村さん、——結愛はブランケットを足に掛け、マスクを外した状態でサンドイッチを頬張っている。


「てかさ、遥真くんってメンバー入れそうじゃない?」


 唐突な話題の転換。

 テニス部の団体戦メンバーは七人で、今の一年生は十五人だ。

 

「俺は経験者だからその分初期値が高いだけで、段々抜かれてくんだよ」


 陸上やサッカーなどでフィジカルを磨いてきた人間にサボり魔の俺が運動神経で勝てる筈もなく、現状の俺は強いとも弱いとも言えない微妙な位置に立っていた。


「そんな事ないって。何度も練習見てきたけど、絶対上半分には入れると思う」


 半ば無責任とも取れる期待の言葉。そこにはある種の確信めいた声振りがあった。


「遥真くんが試合出るなら、見に行くよ」


 口にしたのは、堀岡ではなく、俺の名前。


「そこまで言われたら、真剣にやらなきゃな」


 期待に押し負けた形になって、俺はそう返答した。





 夕焼けがテニスコートを照らす、練習開始まであと五分という頃。


 既にコートの前に居た結愛と雑談していると、


「話してるところごめんね。佐藤。こっち来て」


 割り込むように俺の手を掴んだのは堀岡だった。

 なすがままに人目のつかない場所まで連れて行かれたと思うと、堀岡は口火を切った。


「結愛さんって、佐藤の知り合いだよね」


「そうだけど、それが?」


「俺は佐藤に聞かれて欲しい物を話した。そしてそれと同じ物を結愛さんから貰った。さっきも会話してたし、それなりに親しいんだろう?」


 結愛さん、という呼称が癪だ。


「まあな、でも堀岡に関係があることじゃないだろ」


「なんだよ、その感じ。まあ今はいい」


 堀岡は思い出すように語る。


「あの日結愛さんは、何であれ、俺の欲しい物をくれた。俺を喜ばせようって、準備してくれたのを感じた」


「でも渡す時、何か違和感があった。あっさりしてるというか、緊張とか、恥ずかしさとか、そういった物を感じなかった。目元しか見えなかったけど」


「他にも色んな子からお菓子を貰ったけれど、結愛さんみたいな雰囲気はなかったよ」


 堀岡は煮え切らないといった表情で言い終えた。


 確かに妙だ。別の女子が堀岡にチョコをあげた時は、顔を日焼けしたように紅潮させていたと記憶している。結愛も同じようになっていたと想像していたのだが。


「俺にくれた時はそんなの感じなかったけどな」


「へー、佐藤も貰ったんだ」


 堀岡の目線が鋭くなっている気がする。


「てか、結愛さんってマスク取ったら多分結構可愛いと思うんだけど、なんでマスクしてるのかは知ってる?」


「知らない。聞いてない」


「……そっか、何も知らないんだな」


 そう言い残して、堀岡はその場から去った。


 結愛に対する強い興味。以前ならゴールは近いと喜ぶべきだったにも関わらず、俺はそんな気になれなかった。





 その日から、俺は練習への取組み方が明確に変わっているのを感じていた。

 ミスをした時、何が駄目だったのかを考えるようになった。

 上手く行った時、何が良かったのかを振り返るようになった。


 偶には筋トレしようぜ、そう言った時のサボり仲間二人の驚愕の表情は今も覚えている。


 そうして成長する度に、フェンスの向こうの笑みを見て、もっと上にと、思うようになった。

 

 そして今、俺は自室で頭を悩ませていた。


 迫るホワイトデー。そもそもバレンタインにお菓子を貰った事が無かったのだから、ホワイトデーに最適な物なんて知る由もなかった。


「ああー、やるしかないか」


 結愛は手作りのケーキをくれた。では俺も手作りで返す。これがベストに違いない。


 問題はそれが俺に可能かという事だった。


「試行回数の暴力だ。幸い作るのは一個で十分」


 俺は冷蔵庫の奥に大量の板チョコを押し込み、親が居ないタイミングを見計らって作業を開始した。


 しかし、


「くっそ、指示と実践は違い過ぎるな」


 型に流し込む工程で失敗を繰り返し、生み出された不恰好な茶色の塊の数々。


 家庭科で二を取り続けた人間の不器用さは、自らの想像すら逸していたらしい。


「次だ。今度はもう少し慎重に」


 俺は更なるチョコを手に取った。





 三月十四日。


 光が差し込む踊り場。


 結愛はいつものように胡座で座っている。

 ポケットからマスクの紐が少し飛び出していた。


「なあ、結愛」


 ラッピングされた包みを差し出す。


「これ、ホワイトデーの」


 結愛の顔はその時、意外なプレゼントを貰った小さな女の子のように輝いた。


「え、嘘。凄い。え、これ、手作りだよね」


 白く並んだ歯が覗く。切り取って保存したいような笑顔だった。


「堀岡のじゃないけど、まぁ、とにかく、受け取って欲しいんだ」


 卑屈になって、つい出た言葉。

 それを聞いた結愛は、途端に曖昧な顔をした。

 思い出したような、悲しむような、そして決心するような、理性と意志が、恐れと意思が、鬩ぎ合うような顔持ちだった。


「あのね、遥真くん」


「私、謝らなきゃいけない事が、秘密にしていた事が、あるの」


 見当も付かない。俺を見据える彼女の眼は、未だに複雑な色をしている。


「私、本当は堀岡くんのことは好きじゃないの」


「え、……」


 じゃあ、誰を。

 俺と堀岡。二人しか、彼女と交友は無い。その片方が、今、崩れて、それで。


「私は——、」


 消去法。残る択は、もはや。


「————金属が、反射するのが、好きなの」


 ………………………………は?


「金属が、ものを映して、ぼんやりしたり、歪んだりした影を作るのが、いいの」


「鏡とかじゃ、なくて、不明瞭というか、そういうのが、」


「だから、人は、好きに、なれないの」


 人は好きに、なれない。


 視界がぐわんぐわんする。でも君が泣いてるのはわかる。おれは、どうしたら、


「ごめん、忘れて、私、やっぱり、変だよね」


「ごめん、ごめんなさい」


立ち尽くす俺の横を通って、階段を下っていく。


 金属が、好きって、なんだ。


 人は、そうじゃないって、なんだ。


 そんなの知らない。意味が分からない。


 床には二つのビニール袋。


「……戻ろう」


 階段の手摺りに手を掛けながら、ゆっくりと下る。

 ふと思って自分の手元に目をやると、金属製の棒は俺の姿を反射して、淡い影を、作っていた。


 辿り着いた教室の中を見ると、そこに結愛は居なかった。机に掛かっていた鞄は消えていたから、一度結愛がここに来て回収したことが分かる。


「なあ、結愛はどこに行った」


 近くの男子に聞く。


「さっき教室に入ってきて、鞄持ってすぐ出て行ったけど」


 授業の開始まで時間は多くない。そんな時に鞄を持って外に出たということ。


『私、やっぱり、変だよね』


 思い出されるその台詞。

 あの時、結愛はどんな顔をしていた。

 黙ったままの俺を見て、結愛は何を思った。

 呑み込みの遅い俺は、結愛にどんな言葉をかけるべきだった。


 俺は走って教室を飛び出した。


 階段を駆け下りながら考える。

 彼女はきっと、相当な勇気を振り絞って、秘密を打ち明けたのだろう。俺を信頼していたから、俺になら知られても良いと思ったから。

 その俺が彼女を肯定しなければ、信頼を裏切ってしまえば、彼女はずっと遠くに行ってしまうような予感がしていた。


 下駄箱に到着し、俺は彼女の靴が上履きに入れ替わっているのを確認した。

 それは彼女が既に学校に居ないことを意味していた。


 予鈴が鳴り、タイムリミットを俺に伝える。


 弱い足取りで教室まで戻って、俺は教師に告げた。


「金村さんは体調が悪いので、早退しました」





 放課後、堀岡が教室に顔を出し、自分にチョコをくれた女子にお返しのチロルチョコを配っていた。


「あれ、なあ佐藤。結愛さんは?」


「帰ったよ。早退」


「まじか、お返し渡せないじゃん。こっそり机の中に入れとこ」


 言う堀岡の手にあったのは、チロルよりもっと大きな包みだったように見えた。


「俺、先輩達にも配ってこなきゃでさ。それが終わったら部活行くから、よろしく」


「いや、悪いけど今日俺行かないわ」


「え、なんで」


「体調悪い」


 これは嘘だ。多分俺の体は、動けと言えばその通りに動くだろう。でも、今日は駄目だった。動けと命令する、俺の心が駄目なんだ。


 俺は堀岡を教室に残して学校を後にした。





 LINEのトーク画面は何の変化も見せないままだった。


『さっきはごめん』


 送ってから一時間が経過しても尚、既読すら付かないメッセージ。


 自室のベッドに寝転びながら、俺が今までに目にした物を振り返る。

 電車の手摺り、エスカレーター、家のドアノブ、水道の蛇口、水筒の内側。意識すれば、目の逸らしようのない数多くの金属があった。


 俺はステンレスのスプーンを目の前で回して、角度の違いによる反射の違いを観察していた。

 コレに、人間の異性に感じるものと同じ思いを向ける。俺には分からない。その感覚が。同じ世界を見ているようで、違ったのだ。結愛と俺の間には埋め難い隙間があって、それが普通とか異質とかの境界になっているんだ。


 そこまで考えて、根本的に彼女を自分とは異なる場所に配置してしまっているのを痛感する。


 頭の中のもやが、止めどなく肥大し続けていた。





 翌日、結愛は学校に来なかった。


 昼休みに踊り場に行っても、そこに彼女は居ない。


「あ……」


 俺は手ぶらだった。ビニール袋を手渡されることもないのに。


 その瞬間、俺は全ての取り返しが付かなくなるような気がした。

 心の奥底にまで、無意識にまで、結愛という人間は浸透している。俺はそんな人と永遠に会えなくなるのではないか。最悪の想像が巡る。


 俺は結愛に電話をかける。

 しかし待てども待てども、彼女の声がスマホから聞こえる事はなかった。


 深い、深い傷を、残してしまったのだ。

 俺の反応は、彼女の望むものではなかったのだ。


 俺は売店に行って、パンを購入した。


 一人で食べる昼食は、結愛と出会う前に戻ったようだった。





 あれから、俺は何度もメッセージを送り続けたが、一週間が経っても何ら反応がなかった。


 焦燥が募る。このメッセージに既読が付くことはないままで、踊り場で彼女と会うこともなくて、他愛無い会話に興ずることは二度とない、そんな未来を想像せずにはいられなかった。


 その時だった。一枚の画像が、LINEに送られてきた。地図の真ん中に、赤いピンが立った画像。


「ここに、来いってことか?」


 画像以外に情報は無い。だがそれは、待ちに待った結愛からの情報発信だった。

 放課後、俺は迷わずその場所に向かった。


 そこは一軒の家だった。

 表札には、「金村」の文字。最寄駅の路線から察していたが、やはり結愛の自宅と見て間違い無いだろう。


 何故彼女が俺を自宅に呼ぶのか、それは未だに不透明。

 でも、最後のチャンスである気がする。

 何を言うべきか、その選択を間違えれば、結愛は俺の手の届く所に戻ってこないのではないか。


 俺は深呼吸一つして、呼び鈴を押した。


 ドアが開くと、ピンクのパジャマに袖を通した結愛が居た。


「来てくれてありがとう。上がって」


 表情はいつもと変わらない。それに少し安堵する。

 靴を脱ぎ階段で二階に上がる。案内されたのは階段の前の一室。


「荷物は好きなとこ置いてね」


 結愛の部屋は、どこか簡素なものだった。

壁は白く、グレーのカーペットの上にローテーブルが配置されている。

 ゲーム機が置かれたテレビ台と木製のクローゼットが、部屋の隙間を埋めていた。


「私、飲み物取ってくるから、ちょっと待っててね」


 そう言って結愛は部屋を出た。

 

 何の因果か、俺は彼女の部屋に滞在している。少しずれた掛け布団や、部屋の隅のゴミ箱が生活感を演出し、他人の家の慣れない匂いが、どこか背徳的な気分にさせた。


 待つこと数分。結愛はマグカップ二つにコーヒーを入れて戻ってきた。


 置かれたマグカップを口元に運ぶと、香ばしい香りが広がり、若干落ち着かなかった俺に安らぎを与えた。


「そういえば、この前のチョコ、美味しかったよ。ありがとね」


 彼女もまたカップに口を付ける。

 その様は不自然な程にいつもと変わらない。まるでこの間の事が完全に忘却されたかのようだ。


「ねぇ、部活は最近どう?ボレーは上手くなった?」


 切り出された話題はただの世間話。


「いや、部活は最近行ってないんだ」


「え?どうして?」


「行く気になれないんだ。多分、結愛が学校にいないから」


「私?」


「ああ、俺のモチベーションは、全部結愛に支えられてるんだよ」


 告白みたいな台詞だ。照れ臭くて身体が熱い。


「この前は、ごめんね」


 彼女は表情を変えた。あの時の、俺に秘密を伝えた時の、曖昧な表情だ。


「驚かせたよね。でも、本当なの。私は人じゃなくて、金属が好き。特殊性癖なの」


「俺の方こそ、ごめん。そういうの知らなくて、固まってしまって、何も言えなくて」


「いいの。ごめんね」


 こちらを探られているように感じる。俺に否定されるのを恐れているのか。

 であれば、俺は本心を伝えよう。


「なあ、俺は、結愛を変だなんて思わないよ」


「性的嗜好とかって、その人を構成する一部分でしかなくてさ、俺は結愛と一緒に居ると楽しいし、もっと結愛の笑った顔が見たいって思う」


「だから、また俺と踊り場で飯食って、部活も見に来て、笑顔を見せて欲しいんだ」


 自分の顔が赤らんでいるのが分かる。

 でも目の前の結愛も顔が火照っているようだった。


「私がこれを自覚したのは、中学生の頃だったの。」


 染まった頬で、語り出す結愛。


「小学生高学年くらいから、男子とかが下ネタを連呼するようになってさ、女子にそういうのを浴びせてくるんだよ」


「でも私には分からなかった。最初は言葉の意味が分からなくって、意味を知ってもどうしてそれが恥ずかしい言葉なのか分からなかった。まあ、今もそうなんだけど」


「だから揶揄われた。むっつりって言われた。胸を触られた事もあった。それが問題になって、相手の親から謝られて、そこで自分が普通じゃないかもって思った」


「中学生の校外学習で、美術館に行ったの。そこで、私はある作品に釘付けになった。」


「銀色の彫像。いわゆる現代アートってやつで、何の形をしているかは分からない。抽象的な造形だった。その作品の何かが、私をぎゅっと掴んだの」


「こんなのを外に置いていいの?って思ったよ。細い部分と太い部分は歪められたみたいにうねって、反射の影は物理法則を超越したように不可思議だった。冷たさの中に扇情的な魅力があって、見るだけで身体が熱くなった」


「私はその感覚が忘れられなくて、ずっと食器とかを見つめてた。かっこいい俳優とか、アイドルとかに目もくれないで」


「自慰行為ってものを知った時、私は人間でするより先に鋼に頼った」


「お風呂のシャワー水栓を見ながら、自分の気持ちよくなれる所を触った」


「興奮した。興奮できてしまった。事を終えた後に、私は自分の異常性を認めた」


「知ってしまった事はもう止められなくて、私は何度も同じ事を繰り返した」


「二年生の終わりに告白された。私の何が好きで、どこが可愛いのか、赤裸々に教えてくれた」


「私はドキドキするより、申し訳なくなった。私の心はとっくに冷たい鉄の檻に囚われていて、どうしても抜け出せそうになかったから。

普通である君は、私に構わなくていいのにって思った」


「だから私はずっとマスクをしてるの。私に興味を持つ人がいなくなるように」


 俺は、その言葉を咀嚼する間もなく飲まされて、衝撃に打ちひしがれていた。


 違う世界だ。俺の視界と、結愛の視界は、違うのだ。性的嗜好一つの違いで、あらゆるものが様変わりしまうのだ。


 そして、熱い。ぼーっとするような熱に浮かされ、息が切れる。結愛もそんな様子だ。


「私は大きくなるにつれて、普通じゃないのが嫌になった。他の人と違うのは目立つ、排斥される、笑われる」


「だから、普通になろうとした。表面上だけでも、この異常性を隠そうとした」


「つまり、異性に想いを寄せる、普通の女の子になろうとしたの」


「でも恋が成就しちゃいけない。私は応えられないから」


「堀岡くんはうってつけだった。好きだと言っても目立たないし、成就する確率も低い」


「でも期待もあった。恋を演じることで、私にも普通のときめきが理解できるかもしれない」


「そのために堀岡くんとの距離を近づける必要があって、協力者を探した」


「それが遥真くんだったの」


 段々と頭が回らなくなってきている。


「遥真くんは積極的に協力してくれた。それに、一緒にいても居心地が良かった。それまで手摺りやドアノブを眺めていた踊り場の時間が、変わっていった」


「バレンタインも、私は市販のを適当に買って済ますつもりだったけど、遥真くんは聞き込みをして、レシピを調べてくれた」


「信頼できるなって、思った。遥真くんになら、話してもいいかなって」


「だからさ、遥真くん」


「私を、普通にして?」


「普通の、女にして?」


 俺は結愛に手首を掴まれ、彼女はそのままベッドに倒れ込んだ。

 必然的に俺が彼女に覆い被さる形になる。

 互いの息が混じる程顔が近い。


「知ってる?高校生って、もう皆、そういうコトしてるんだって」


「それが普通なの」


「だから、私達もしよ?」


 動く結愛の唇が扇情的に、俺を誘惑する。


「下の名前で呼び合うのって、すごく恋人っぽくない?」


「恋人同士なら、それが普通」


 結愛の瞳が蠱惑的に俺を魅了する。


「ほら、ドキドキしてる。これ、恋してるってことだよね」


 結愛は俺の手を自らの胸に置かせた。

 温かくて、心臓の鼓動に合わせて跳ねている。そして、柔らかい。柔らかい。


 そこで俺は我に帰った。

 有り得ない。俺の理性はこの瞬間まで機能を停止していて、結愛の胸に手を触れることすら簡単に許した。


 この身体の熱、働かない頭。妙に魅惑的な結愛の姿。


「あの、コーヒーか」


 何かを盛られたのだ。それと同じ物を彼女も服用したから、互いに顔に熱を感じているのだ。


「結愛、こんな事、やめて「——なら、」


「遥真くんが、ありのままの私を、愛してよ」


「遥真くんなら、いいの」


 いいと言った。目の前で許可を出された。

 血液が沸騰しそうな程熱い。思考が奪われる。

 結愛は、パジャマのボタンを上から一つ一つ外していく。俺の目は無抵抗にそこに惹きつけられて——、


「——駄目だ」


「こんなの間違ってる、俺は、結愛を、本当の意味で、愛せない」


 結愛の言葉は、薬によって引き出された甘言だ。手を出してしまえば、鋼の檻に触れてしまえば、一生後悔すると分かっている。

 でも、


「愛して」


 結愛の口が動く。


「私、結愛って名前、嫌いなんだよ」


「愛を結うって、誰と。どうやって。私は、」


「私は、どうやってこの名前の通り生きればいいの!?」


「不安なの!私は孤独なままで、誰との愛も交わせない内に死ぬんだって、ずっと思ってる!」


「遥真くんしかいないの!私は遥真くんになら下の名前で呼ばれてもいいと思った!」


「愛して!どこにも行かないって、証明して!普通の愛を、私に頂戴!」


 激情だった。言い終えた結愛は、体重をベッドに預けて酸素を求めた。


 俺の想像を絶していた。俺に出会った瞬間から、結愛は普通の、愛を求めていたんだ。


 バレンタインケーキを作った日。通話を切った後、ステンレスのシンクで洗い物をした筈だ。その時、結愛は何を思っただろうか。


 結愛の目から水滴が頬を伝って流れる。その様すらも、頭の熱に理性を刈り取られた俺には情欲を駆り立てる美として映った。


 外されたボタンの奥にあった下着が覗く。黒色。目を逸らせない。


 結愛は俺の首の後ろに手を回した。そして少しずつ頭を下に押して、俺の顔と結愛の顔との隙間は、ついに無くなった。

 触れ合う唇。熱い血の奔流が、焼き付けられたように伝わって、ゆっくりと離れた。


「嬉しい。もっとして」


 婀娜っぽく笑う結愛の頬に触れると、柔らかな感触が返ってくる。ずっとこうしていれたら、それはどれ程幸せだろう。


 結愛は言う。


「えへへ、遥真くんの目は、金属みたいに反射して、綺麗だね」


 ……金属。金属。そうだ。彼女の目に映るのは、俺の目の反射。これは愛じゃない。愛せない。駄目だ。違うんだ。理性が叫ぶ。


「帰る」


 俺はその家から逃げ出した。





 その日から三日、未だ連絡はない。


 また俺は間違えたのかも知れない。それでも、俺にはできなかった。薬に絆された結果など、後悔の火種にしかならない。


 そう自分に言い聞かせ、今日も授業を終える。


「佐藤。おい。いるよな」


 教室に入ってきた堀岡はニヤついた笑顔を顔に貼り付けていた。


 俺を教室から連れ出した彼は話し出す。


「昨日さ、なんか突然結愛から地図が送られてきて」


「そこに行ったら、結愛の家だったんだよ」


 嫌な予感がする。


「結愛と話したら、なんかそういう気分になっちゃって」


 待て。それ以上話すな。


「いいよって言うから、やっちゃった」


 やっちゃった。何を。訊くまでもない。吐き気がする。息が吸えない。


「結愛、俺が好きだって、何度も言ってたよ」


「可愛かったなぁ」


「てか佐藤、何も言えなくなってんじゃん」


「そんなにショック?好きだったの?」


「でももうやっちゃったから。結愛の初めては俺が貰ったよ」


 死人の如く立ち尽くす俺を置いて、彼はその場を去った。


 結愛は愛を結んだ。薬の力で、一線を越えた。俺が、ついに彼女を愛さなかったから。


 彼女の姿が遠ざかる音がする。俺は失ってしまうのか。それは、嫌だ。ならば、どうすべき。


 俺が目指すのは、あの一軒家。最後の機会だ。これを逃せば、俺は彼女の顔を見る事は叶わなくなると思った。


 俺はそこに辿り着き、呼び鈴を鳴らした。


 ドアを開けた結愛は、俺を見るなり酷い顔をした。

 そんな顔をしないで欲しい。結愛の笑顔が見たいのに、泣かないで欲しい。


「なあ、結愛」


「俺は、結愛を本当の意味では愛せない」


「それでも、結愛が悲しい顔をするのは、嫌なんだ」


「結愛が独りぼっちになりたくないのなら」


「俺がずっと隣に居るから」


「安心して、笑ってくれ」


「俺は、結愛を大切に思ってるから」


「勝手に離れたりしないから」


「だから、笑ってくれ」


 結愛は泣いていた。

 泣いた顔を、俺の胸に押し付けて、縋るように泣いた。


 これが幸せを呼ぶのか、不幸を呼ぶのか、俺には分からない。


 愛せなくても、愛が分からなくても、俺は、この言葉で、誓いを結んだんだ。







 




 





 


 



 


 




 


 







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