第18話 特別な一本

スマートフォンの画面に視線を落とし、結衣は指先で短い文章を打ち込む。


〈いいよ、楽しみ〉


俊太郎からの旅行の誘いに、ようやくそう返事を送った。

すぐに既読がつき、続けて届いたメッセージには、温泉街の名前と、出発の時間が簡潔に書かれている。


〈じゃあ、新宿発、9時の特急で〉


その一文に、思わず息を止める。

誰かに見られてもおかしくない――そんな意識が頭をよぎり、返信には一拍置いた。


〈私は一つ後の列車に乗るね〉


慎重に文字を並べ、送信ボタンを押す。


返ってきたのは、わずか数文字の〈了解〉

それだけで胸の奥にひそかな高鳴りが生まれ、窓の外の景色が少しだけ違って見えた。


休日の午後、結衣はデパートの化粧品売り場を歩いていた。

普段から香水は身につけるが、今日だけは違う――俊太郎との旅行のため、特別な一本を探してみようと思った。


白い紙片に吹きかけられた香りを手首に当て、そっと息を吸い込む。

いくつかを試すうち、ふと足が止まった。

ナルシソ ロドリゲスの『フォーハー』。

柔らかなフローラルに、深みのあるムスクが溶け合う。

すぐ近くでささやかれるような、奥に潜む甘さ。

思わず目を閉じる。


(近づいたとき、彼に気づいてほしい)


そんな想いが胸を締めつける。

結衣は迷わず購入を決めた。


帰宅後、クローゼットの扉を開く。

ずらりと並ぶ服を前に、鏡の前でコーディネートを試す。

カジュアルすぎると旅行らしさが出ないし、逆に張り切りすぎれば特別感が露骨になる。


「温泉街を歩くなら…このくらいが自然かな」


鏡の前に立ち、深緑のフレアスカートを腰にあてがってみる。

秋らしさと少しの甘さを出すなら、やっぱりこれがしっくりくる。

オフホワイトのブラウスと、その上にキャメル寄りのカーディガンを重ねてみると、 全体の輪郭がほどよく締まる気がした。

足元は、チャコールのタイツに黒のバレエシューズを合わせれば、ほんのりと可愛らしさを残してくれそう。

裾を軽く揺らしてみて、結衣は思わず笑みを浮かべた。


「俊太郎くんの目に、どう映るんだろう」


鏡越しに自分の姿を見つめながら、頬に熱が集まる。

引き出しを開け、新しい下着をそっと取り出す。

誰にも見せることのない小さな秘密。


「…完全に、恋してるんだな、私」


胸の奥に甘いしびれが走る。

準備の途中、文庫本を鞄に入れかけて、ふと笑ってしまう。


「読む余裕なんて、あるのかな」


その笑みの裏には、彼と過ごす時間がすべてでいい、という覚悟が潜んでいた。


旅行前日の夜。

ベッドの上に広げたボストンバッグに荷物を詰め終え、深く息をつく。

部屋に漂うのは、新しい香水のほのかな匂い。

いつもの自分が、少しだけ変わっていくような気がする。


「こんなに準備が楽しいなんて…」


俊太郎との旅を思い描くだけで、胸が高鳴る。

眠りにつこうとしても、鼓動がやけに大きく耳に響き、なかなか目を閉じられなかった。




翌朝。

秋の澄んだ空気の中、駅へと向かう足取りは軽い。

それなのに、心臓は早鐘を打ち続けている。

ホームに入ってきた列車が大きな風を巻き起こし、結衣の髪をふわりと揺らした。


(もうすぐ、彼と二人きりの旅が始まる)


期待と緊張を胸に抱えながら、結衣は列車へと乗り込んだ。

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