第13話 最後の誠実

会議室で「忘れましょう」と言い切ってから、もう数日が経っていた。

日常業務に戻り、いつも通りのスケジュールをこなしているはずなのに、どこか集中力が散ってしまう。

パソコンの画面を睨んでいても、文字が頭に入ってこない。


視線を上げると、少し離れた席に俊太郎の姿が見える。

真剣な表情で資料を確認する横顔。

普段と変わらないはずなのに、胸の奥にざわめきが走る。

彼と目が合いそうになると、慌てて視線を逸らした。


──なぜ、こんなにも意識してしまうのだろう。


気づけば、指先が無意識にペンをいじっていた。

手の中の細い軸が、ふとあの感触を呼び起こす。

新幹線の中で、彼の手に自分から重ね、指を絡めてしまった瞬間。


「……どうして、私は」


心の中でつぶやき、椅子の背にもたれた。

前夜、一線を超えてしまった後、何を話せばいいか分からなかった。

会話のない、気まずい時間が続くのが耐えられなくて──。

あの沈黙が、まるで自分の行為を否定しているように思えてしまった。

だからこそ、あのとき私は手を伸ばしたのだ。


無意識の行為。

でも、確かにあの瞬間は「拒絶」ではなく「肯定」を示していた。

自分は彼を受け入れたかった。

必要とされていることを確かめたかった。

ただ、それだけだったはずなのに。


結衣は小さく首を振り、机に視線を落とす。

今は上司として毅然きぜんと振る舞わなければならない。

そう自分に言い聞かせて、マウスを握り直した。


***


その夜、自宅に戻った結衣は、ベッドに潜り込んでも眠れなかった。

シーツの上で寝返りを打つたび、脳裏に蘇るのは俊太郎の言葉や視線。

あの夜、「女性として魅力的だ」と、ためらいなく告げてくれた声が耳に残っている。


──あの言葉に救われたのだ。


元恋人との別れを経て、自分がもう誰かから求められる存在ではないのではないか、そんな不安を抱えていた。

だからこそ、俊太郎のまっすぐな眼差しに、心が揺さぶられた。

あの瞬間、自分は「一人の女として必要とされたい」と強く願ってしまったのだ。


けれど同時に、現実が重くのしかかる。

10歳も年下の男性。

しかも同じ部署で、自分は上司。

もし関係が露見すれば、彼の将来を奪ってしまう。


「……本当に、これで良かったの?」


声に出した途端、胸がきゅっと締めつけられた。

自分が下した「忘れましょう」という言葉。

それは俊太郎を守るための判断だったはずだ。

だが同時に、それは自分の保身のために彼を傷つけているのではないか。


シーツを抱きしめながら、結衣は目を閉じた。

あの夜も、新幹線でも、確かに気持ちは揺れていた。

忘れるなんて簡単にできることじゃない。

なかったことにしてしまえば、それこそ自分が嘘をつくことになる。


「……もう一度、きちんと向き合わなきゃ」


ささやくようにつぶやいた言葉は、自分自身への決意のようだった。

俊太郎を突き放すだけでなく、真正面から話し合わなければならない。

それが自分にできる、最後の誠実さなのかもしれない──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る