第八話 目玉を探して
大阪から戻った明は、その夜すぐに潔子とはるを呼び寄せた。旅館の応接間、ちゃぶ台を挟んで三人が座る。灯明のやわらかな光の下、明は北原とのやりとりを伝えた。
「――雑誌に載せることはできそうです。ただし条件がある。“読者が行きたくなる目玉を用意しろ”と」
潔子は眉を寄せた。
「目玉……と申しますと?」
「他の宿と一線を画すものです。名物料理でも、建物でもいい。何か、強烈に印象づけるものが必要だと」
はるは静かに頷いた。
「言われてみれば、確かにそうやなぁ。京都には老舗の宿がようけある。白露館にしかないもんがなければ、雑誌に載っても埋もれてしまうやろう」
潔子は少し考え、板前たちが試作している料理のことを口にした。
「いま、板前衆は新しい懐石を考えております。ただ、まだ形にはなっておりません。雑誌に載せられるほどの完成度には、まだ……」
明は腕を組み、真剣に考え込んだ。
「料理だけに頼るのは危険だ。改修後の建物や、部屋のしつらえにも目を引く要素が欲しい」
はるが口を開く。
「せやけど、昔からの建物を大きく変えるのは難しいで。白露館の誇りは歴史や。壊してしまえば、それこそ他と変わらん」
「壊すんじゃない。生かすんです」
明はきっぱりと言った。
「古い建物の趣を残しながら、現代の客に響く何かを加える。それができれば……」
言葉が途切れ、しばし沈黙が流れた。
やがて潔子が口を開いた。
「ひとつ、思い当たることがございます」
明とはるが目を向ける。潔子は少し恥ずかしげに微笑んだ。
「実は、わたくしの父が存命の頃、白露館の庭で“月見の宴”を催しておりました。秋の夜、庭に設けた席で、月を眺めながら懐石を楽しむのです。お客様にはたいへん好評でございましたが、戦争で世の中が変わり、いつしか途絶えてしまいました」
明の瞳が光を帯びる。
「それだ……! 雑誌で取り上げるには最高じゃないか。京都の歴史ある旅館で、庭園を使った月見の宴。写真映えもするし、唯一無二の体験になる」
はるも驚いたように目を細めた。
「確かに、あれは白露館ならではやったなぁ。庭も広いし、池もある。手入れをすれば見事に甦るやろう」
潔子は頷きながらも、慎重に言葉を選んだ。
「けれど、再開するには大変な準備が必要です。庭の整備、席の設え、料理の工夫……。改修と並行して進めるのは容易ではありません」
明は迷いなく答えた。
「それでも、挑む価値はある。白露館の“目玉”は、それに決めましょう」
潔子はじっと彼を見つめた。若さゆえの無謀さとも思えるその言葉に、しかし不思議と心が揺さぶられた。
はるが口を挟む。
「なら、板前衆には“月見の宴”にふさわしい献立を考えてもらわなあかんな。わたしは庭師に声をかけてみるよ」
潔子も小さく笑みを浮かべた。
「……父が大切にしていた宴を、もう一度この館で。できるものなら、わたくしもぜひ実現させたい」
明は深く頷いた。
「必ずやりましょう。雑誌に載せるのは、そのときだ」
三人の間に、はっきりとした方向性が共有された瞬間だった。
◇
その夜、部屋に戻った明は机に向かい、ノートに大きく書き込んだ。
――白露館の目玉:“月見の宴”の復活。
筆圧が強くなり、紙が少し破れた。それでも構わなかった。
「ここから始まるんだ」
窓の外には、雲間から淡い月が顔を覗かせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます