妻は女将、夫は若き経営者

@aytk2525

第一話 顔合わせ、白露館

白露館の大広間は、夕刻の光を受けて白く霞んでいた。磨かれた床柱、掛けられた水墨画、控えめに香る白檀の薫り。そこに集まったのは、両家の親族と数人の知己。形式ばかりの婚礼の顔合わせは、午前から延々と続いていた。

 祝辞が飛び交い、盃が行き交う。口にされる言葉はどれも似たようなものばかりで、二十一歳の明には一つとして心に響かない。ただ背筋を伸ばして座り、無言で頭を下げ、差し出された盃に口をつける。繰り返される動作は、彼の心をますます遠くへ押しやった。

 形式的な笑顔の背後で、明の胸中はざらついていた。桐生の養子として育てられ、厳格さを強いられ続けた年月。実子が生まれた時点で、自分は跡取りではなくなった。それでも「使い道」があるうちは手放されず、今回の結婚も、家の都合の延長線上にすぎない。

 視線を少しずらせば、正面に座す女性――白石潔子がいた。整った顔立ちに、控えめながらも強さの漂う眼差し。年は三十を越えていると聞く。白露館の女将であり、この場にいる誰よりも静かに、確かな存在感を放っていた。

 やがて祝辞の波が一段落すると、親族たちは潮が引くように広間を後にした。

 残されたのは、新たに夫婦となる二人だけであった。

 庭から吹き込む夏の風が障子をわずかに揺らす。青もみじの影が畳に映り、ししおどしの音が間遠に響く。その音に紛れるように、潔子が口をひらいた。

「……急に静かになりましたなあ」

 やわらかな声音には、張りつめた空気をやわらげようとする気配があった。

 明はわずかに姿勢を崩し、吐息をもらした。

「正直に申し上げると……この結婚は、嫌は嫌なんです」

 あまりに率直な言葉に、潔子の眉がかすかに動いた。しかし声色は変わらない。

「そうでございますか。……わたくしも、望んでいたご縁ではございませんのや」

 彼女は小さな笑みを浮かべ、続ける。

「けれど、嫌やからといって避けられるものでもあらしまへん。……そういうことやと思うております」

 明は驚いたように顔を上げた。柔らかな言葉なのに、その芯は揺るぎない。

「……でも、我慢はできます。桐生の家にいるよりは、まだましですから」

「そう言うていただけるのなら、こちらとしては助かりますわ。無理に気を張らんでも、ただ一緒にいてくださるだけで、じゅうぶんでございます」

 庭を渡る風が障子をかすかに鳴らし、重苦しい空気を少し軽くした。

 潔子は庭を見つめ、低くつぶやいた。

「白露館は……もう長くはもちません。名ばかりの看板に、減る一方の蓄え。……けれど潰すわけにはいかしまへんのです。政略やと笑われても、このご縁にすがらせてもろてます」

 その横顔を見つめながら、明は思わず言葉をこぼした。

「僕にできることは……少ないと思います」

「ええ、それで結構です」潔子はゆるやかに首を振った。

「無理に背伸びしていただかんでもよろしおす。ただ、足を引っぱらへんようにしてくれはったら、それでじゅうぶんでございます」

 その言葉に、明は小さく笑みをもらした。嫌は嫌だが、この女将の言葉には、不思議と息のつける余白があった。

 庭のししおどしが再び鳴る。二人の婚礼の始まりは、静かで、そしてどこか涼やかな音に彩られていた。

 夜。客間に通された明は、見知らぬ部屋に寝そべりながら天井を仰いだ。古びた梁、畳の匂い、掛けられた蚊帳。桐生の屋敷では決して味わえなかった空気だった。

 それが新鮮であると同時に、妙に心細くもあった。

 襖の向こうから足音がした。潔子である。

「お休みのところ、失礼いたします」

「いえ、大丈夫です」明は身を起こした。

「明日からは、帳場と厨房を少しずつ見ていただこうと思います。まずはこの館の今を知っていただきたいのです」

「……僕にわかるでしょうか」

「わからんでも結構です。見ていただくだけでええんです」

 潔子の声音は、驚くほど静かで澄んでいた。重荷を背負う人間にありがちな力みはなく、ただ事実を受け入れた人の響きだった。

 明は胸の奥で小さなざわめきを覚えた。

「では……よろしくお願いします」

「はい。こちらこそ」

 短いやりとりのあと、襖が閉じられる。再び静けさが戻った。

 明は横になり、闇のなかで目を閉じた。嫌は嫌だ。けれども、ここにはあの家にはなかった余白がある。自分がどこまで関わるべきかはまだわからない。ただ――この旅館と、この女将と共に過ごす日々が始まるのだ。

 翌朝。帳場には、古い帳簿と書きかけの伝票が山積していた。若い女中が慌ただしく出入りし、電話の呼び出し音が甲高く響く。

 潔子は背筋を伸ばして座り、一枚ずつ丁寧に書類をめくっていた。

「おはようさんどす」彼女は穏やかに言った。

「さっそくですが、こちらをご覧ください」

 差し出された帳簿には、数字が乱れ、赤字が続いていた。

「……思った以上に厳しいですね」

「ええ。けれど、まだ諦めてはおりません。料理には自信がございますし、長年のお得意さまも、わずかながら残ってくださってます」

 潔子は静かに笑んだ。

「守れるかどうかは、これからの工夫次第でございます」

 明は帳簿を見下ろしながら、胸の奥に重いものが落ちるのを感じた。

 ここから先、どれほどの困難が待つのか――まだ知る由もなかった。

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