狼を抱く
中町奈司
1.
『苅部さんって、すっごい暇ですよねぇ? 何せ、キャラメル垂らしの空中サンプル一個の梱包にそれだけの時間を掛けてるんですから』
今日の午前中、部長のボン太郎にそう言われて心が過剰に反応してしまい、アタシは狼を抱くことができなくなった。
別に狼を飼っているわけではない。
心の奥底に横たわる風船のように膨らみ、破裂しやすい言葉では上手く言い表せない何かを子供の頃から狼と呼んでいた。
さっさと帰るかなぁ? 有給たくさん残ってるし、仕事も物待ちの状態だからやることあまりないし。でも、明日の出荷分はなんか気になるっていうか、引っかかってる感じがするんだよねぇ。
頭の中で一挙手一投足を小説のようにナレーションしながらタバコを蒸す。小説を書いていた時についた癖で、コロナ禍が過ぎたあたりで書くのはやめてしまったけど、癖だけは未練がましくずっと残り続けていた。
アタシは静岡市内にある食品サンプルの製造販売を手掛ける会社で商品の梱包と発送作業に従事していた。働きはじめてもう、二十年になる。
でも、午前中でだいたいの目処はついてるし……、それじゃあ、帰るかなぁ。このままいても碌なことにならないし。
狼を抱けない日は、いつも決まって碌なことがなかった。
最初に抱けなかったのは幼稚園年長組の時だった。同じ組にガキ大将ポジションのヒロシくんという男の子がいた。原因は忘れてしまったが、ある日、我慢できなくなって彼を鼻血が出るくらい強く殴ってしまった。
その時に両親や先生、相手の親などから激しい叱責を受け、子供心にもう二度とするまいと誓ったけれど、そんなアタシの思いとは裏腹に狼は事あるごとに暴れまわり、次々と目の前の獲物に牙を向けていった。
中学生二年生の時、アタシにイタズラを仕掛けてくる男子がいた。本人はどういうつもりでイタズラを仕掛けていたのかはわからないが、ある日、狼が暴れて彼をボコボコ にしてしまった。
二十年前、高校を卒業してすぐに就職した印刷会社に嫌味な上司がいた。ある日、何気ない一言にイラっときた。暴力は振るわなかったもののドン引きするほどの暴言を吐いてそのままクビになった。
これ以外にも犠牲者は数多くいた。細かく挙げていけばキリがない。とにかく、昔から狼のせいで損をしてきた。
その度に浴びせられる──もっと女らしくしなさい、そんなんだから姉さんは結婚できないのよ、駄々捏ねてないのッ。お姉ちゃんなんだから──という声。
別に駄々を捏ねているわけではなかった。
なのに、そうとは受け止められなかった。妹が生まれ、年齢が上がるにつれてちゃんとした《何処に出しても恥ずかしくない大人》の振る舞いを暗に強要されてきた。
けれど、それを苦痛だと思ったことは一度もなかった。それが大人であり、マナーなのだと思っていた。その考えは今でも変わってはいない。
清涼感と程よい刺激がぼんやりとした頭を叩き起こす。相変わらず、格別美味くもなければ不味いわけでもない、かといって普通とも言い切れない不思議な味だった。
口を窄め、煙を上に向かって吐き出しながら手にしたタバコを灰皿に押し付け、椅子から立ちあがろうとする。
ふと、奥に座っていたボン太郎が思い出したように「あー、そうだ。……苅部さぁん」と声を上げた。
「あー、なんすかぁ? 部長ぉ……」
だらしのない声で返事をしながらボン太郎の方を振り向く。彼はスマホを弄っていた。
あのクソガキ。マジか、人の目ぇ見て話せよ。もしかして、アタシが怖いのか? ああん、チキン野郎。社長の甥だからって容赦しねえぞ? ていうか、テメェのせいでアタシは狼が抱けなくて大変なんだよッ。
「午後から、美咲ちゃん回すからぁ、よろしくぅ」
美咲ちゃんとは、新入社員の寺村美咲のことで、彼女は管理職や一部の男性社員から『美咲ちゃん』と呼ばれていた。
子供じゃないのに下の名前を、しかも《ちゃん》付けで呼ぶなんて。……ていうか、苦手なんだよなぁ、あの子。なんていうか、愛されキャラっていうか、バチクソキラキラしてて、可愛さを売りにしながら要領よく生きてきたって、そんな感じがしてさぁ。……だって、それって、ズルじゃん?
そんなことを考えながらボン太郎に向かって「……でも、やる仕事なんてないですよ? ジブンも帰ろうかなって、そう思ってるくらいなんですから」と返す。
「あー、そうなの? うーん、そっかぁ……」
ボン太郎はそう言ってしばらく考え込んだあと「あー、でも、まだアレあったじゃないですかぁ?」と言った。
「アレですか?」
そう聞き返しながら記憶を手繰り寄せる。しかし、思い当たる節はなく、何を言いたいのか分からなかった。「部長、アレって、なんです?」
そう尋ねると、ボン太郎はキョトンとした表情を浮かべながら馬鹿にしたような口調で「あれぇ、分からないんですかぁ?」と聞き返してきた。
あ? お前、死にたいの?
「……ええっと、分からないです」
「ほら、アレですよ。アレ……、えっと、なんていったっけかなぁ? ここまで出かかってるんですけど……」
ボン太郎は水平にした手のひらを喉元に当てながらそう言って、しばらく考え込んだあと、思い出したように「──ッ、ああッ、思い出した。ほら、来週出しのTHCFさんの冬チョコレート。アレの梱包作業があったじゃないですかぁ。昨日、仕上げ場から苅部さんが持っていった。……アレって、たしか店舗ごとの振り分けでしたよね?」と言った。
「ええ、たしか、袋に入れて、九十店舗に振り分けしてから本社一括納品だったと思いますが、」
そして、単価がクソみたいに安かった。全てリサイクルだからだ。
最近はこういう仕事が多かった。無論、単価が安ければその分、件数をこなさなければならず、最近はヒマか出荷件数がアホみたいに多いかのどちらかだった。
「じゃあさ、それを美咲ちゃんとお願いしますね?」
「……あー、でも、簡単な振り分けなんで、すぐに終わっちゃいますよ? 正直、一人でも十分な気もしますし……」
そう言うと、ボン太郎は「あー、うん、大丈夫ですから。次の準備が整うまでの間ですんで」と言った。
は? お前、梱包作業ナメてんの?
苛立ちを感じながら喉元まで出かかっていた怒りを飲み込み、そのあと軽く息を吸って心を落ち着かせようと試みる。
「……で、でも、部長。それだと中途半端になりません?」
「え、三十分で終わるでしょ?」
「えっと、それは分からないと言いますか……、それよりも──」
話が終わりかけていると気がつき、早退したい旨を伝えようとする。
だが、その言葉はボン太郎の「大丈夫、ちゃんと終わりますから」という無駄に優しい声によって遮られた。その瞬間、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「……じゃ、作業が終わりそうになったら声掛けてくださいね」
ボン太郎は軽く笑いながらそう言ったあと、取って付けたように「……あと、苅部さんは背が高くて声もハスキーなんですから、もう少し愛想良くしないと怖がられますよ?」と言って、喫煙所から出ていった。
「は? 死ね」
そう呟いたあと、身体をY字にしながらぐーっと身体を伸ばした。
「とりあえず、怒らないようにしないと。……自信ないなぁ」
何かしら甘いものでも飲めば大丈夫だろうと考え、目の前の自販機の中にあったピンク色の甘ったるそうなパッケージのいちごミルクオレを買う。
「うへ、バチクソ甘そう……」
缶に書かれたやたらにポップな丸文字を見ながらそう呟くと、喫煙所を出てウジウジと不満を呟きながら気だるそうに階段を降りていく。作業場は一階にあった。
一階の踊り場に差し掛かると、壁に取り付けられた等身大の姿見に映る自分と目が合った。背の高い、表情筋の死んだ顔がこちらを見ている。
うん、相変わらず男みたい。胸も無いし、ていうか壁だし。まあ、若々しく見えるっていうのはいいことだけどさぁ……。
アタシの高校の頃のあだ名は《ケイくん》だった。
高校といっても、正確には高等専修学校というところで、早い話が高校卒業資格も取れる職業訓練学校みたいなところだった。
そこは共学だが女子の比率が異様に高く、全校生徒二百数十名のうち、男子はたったの二人しかいなかった。特にアタシの学年は男子が一人もいなかったので、男っぽく見える生徒を王子様と呼んで男子の代わりにしていた。
アタシもそのうちの一人で、仲のあまり良くない友人の頼みで彼氏役を引き受けたり、ボディガードみたいなこともやらされていた。
当時はなんとも思わなかったし、服装は比較的自由だったので、スースーするスカートを履かないための口実として存分に使っていたが、今にして思えば、少し歪だったような気もする。
あっ、ていうか、なんかほっぺのところに出来てるな。帰ったらケアしないと……。
頬の真ん中あたりに出来た赤い突起を指の腹で撫でながらそんなことを考えたあと、自分のテリトリーに向かって歩いていく。
梱包場は一階の真ん中、搬入出口と一体になっただだっ広い場所にあり、扉を隔てたすぐ向こうが外ということもあってか、夏は暑く冬は寒かった。
「とりあえず、簡単で数の多いところをやってもらうか」
そう呟きながら伝票の貼ってある掲示板に向かって歩いていく。
ふと、柱の影から「あっ、苅部せんぱぁい」という声と共に美咲がぬっと、顔を覗かせた。
穏やかで優しげな印象を与える整った顔がふんわりと柔らかそうに笑う。声も見た目と同じで、ふわりと柔らかそうだった。胸もアタシより大きい。
アタシは、全てが自分とは正反対な女っぷりのいい美咲をぼんやりと見つめながら「……結構、早いじゃん」と言った。
もう少し、遅れてやってくると思ってた。
「五分前行動は社会人の常識ですからぁ」
美咲はそう言うと、軽く笑った。緩くウェーブのかかったふわふわとした栗色の髪が微かに揺れる。
五分前って……、ボン太郎のヤロー、最初っから決めてやがったな。しかも、勝手に。こっちに話なく。……もし、アタシが断ってたらどうするつもりだったんだよ。まったくさぁ……。
深いため息をつく。目の前では美咲が何かを話していたが、ボン太郎に対する不満で頭がいっぱいで何を言っているのかわからなかった。
「……せんぱぁーい、私の話、聞いてますぅ?」
美咲は不満そうな表情を浮かべながらそう言うと、ズイッと顔を近づけてきた。まつ毛は人形のように長く、きめ細かな肌は薄い化粧で彩られ、ピンク色の唇はナパージュが掛かったフルーツのように艶やかな光沢を纏っていた。
「ああ、ごめん。聞いてなかった」
軽く笑いながらそう返す。そのあとすぐに「寺村さんにやってもらう仕事のことで頭がいっぱいだったから」という取ってつけたような言い訳が口を突いた。
「そお、なんですかぁ……」
美咲はそう言った。納得できないと言わんばかりの顔だった。
「うん、そう」
適当な返事をしながら掲示板に貼ってあったTHCFの店舗表を取って作業台の上に置いた。無理矢理A4サイズに縮小しているので文字は異様に小さくなっていた。
「このさぁ、アソートチョコレート四種各一個っていうヤツ、わかる? これをやってもらおうと思ってさ」
そう言うと、美咲は「分かりましたぁ」と返した。わかっているのか、それともまったくわかっていないのか、どちらとも取れる曖昧な返事だった。
「じゃあ、とりあえずやり方だけ説明するから
さ、そこの台車の上にあるばんじゅう取って」
そう言いながらばんじゅうが積まれた台車を指差す。
「はぁい。わかりましたぁ」
美咲は少し不満げな返事をすると、生まれたての子鹿のような、頼りない足取りで歩いていった。思わず不安になる。
ばんじゅうをひっくり返されとも嫌だなと思い、ため息をつきつつ美咲を手伝おうと身体を捻りながら足を前に出すと、根津のオヤジが魔法使いのように何処からともなく現れた。
うわっ、出てきたよ……。
思わず身構える。
根津は、アタシよりも年上だが入社したのはほぼ同じ頃だった。彼は、いつもチュウ、チュウ、チュウ、という音を立てているので陰ではネズミオヤヂと呼ばれていた。
いつもヒマそうだよなぁ、あの人。ていうか、いまはどの部署に居るんだっけかな? 興味ないから覚えてないんだよねぇ。
アタシは、いつも偉そうに上から目線でものを言う根津のことが嫌いだった。多分、彼も嫌いなんだと思う。
根津は脂っぽい笑みを浮かべながら美咲と一緒にばんじゅうを近くの作業台の上に運んでいった。口からは相変わらずチュウ、チュウ、チュウ、という音が出ていた。
男って歳とるとああなるのかな?
そう思いながら引き出しからOPPパックと長方形の小さなボール紙の束を取り出す。
美咲が最後の一ばんじゅうを持って作業台に向かったのを見計らって近づき、反対側に回り込んで向かい合うようにして立った。ふわりとバニラのような甘ったるい香りが鼻先を掠めていく。
「……あっ、いい匂い」
そう呟くと、美咲は柔らかな笑みを浮かべながら「あっ、分かります? 香水変えたんですよぉ」と言った。
「やっぱり、食品サンプル工場で働いているんですからぁ、こういう香水をつけないとぉって、そう思ってぇ」
素なのか、それとも計算されたものなのかわからない間伸びした言い方にイラッとする。なんとなく馬鹿にされているような、そんな気がした。
ああ、落ち着け、アタシ。
ゆっくりと深呼吸をすると、自分に言い聞かせるように「……じゃあ、寺村さん。今から説明するから」と言って作業内容を説明した。
その瞬間、美咲はスッと真面目な顔になった。切り替えが早いな、器用だな、と感心しながら説明をしていく。美咲は「わかりましたぁ」と言うと、柔らかな顔に戻ってそのまま作業をはじめた。
根津が横から太った浅ましい身体を美咲にすり寄せながら、ああでもない、こうでもないと口を挟みはじめた。そのどれもが、既にやったことのあることばかりで、無駄な助言だと思った。
「……あの、根津さん。一応、そのやり方だと上手くいきませんから」
変なフロンティア精神を出しながら作業に勤しむ根津に向かってそう言うが、彼は聞く耳を持たずにそのまま作業を続けた。案の定、上手くいかなかった。すると、今度は腕を胸の辺りで組みながら美咲に向かって誇らしげにああでもない、こうでもないと言いはじめた。
美咲は柔らかな笑みを浮かべながら根津の話に耳を傾けていた。嫌そうな素振りは微塵も見せていなかった。
だから、皆んなに好かれるんだな、きっと。
そんなことを考えていると、ボン太郎がやってきた。
彼は落ち着きのない犬のように適当な場所をぐるぐると回ったあと、アタシのすぐ目の前にやってきて、何か言いたげな表情のままメソポタミアの彫像のようにパッチリとした目を向けてきた。
「あの……、何か、ありましたか?」
そう尋ねると、ボン太郎は視線を固定したまま「いえ、別に? どうしてです?」と言った。
「いや、なんとなく何か言いたげだったので……」
探りを入れるように言ってみる。
しかし、ボン太郎はそれに対して特に答えることもなく、ただ黙ってアタシをジッと見つめ続けた。
言いたいことがあるんなら口で言えよ、このヤロー。
ボン太郎はしばらくアタシを見つめたあと、フラフラと美咲のもとに向かっていった。そのあと、彼は根津と美咲の三人で談笑し、見たことのないにこやかな笑みを浮かべた。
それを見た瞬間、自分には無い若さと美しさ、それに女であることを武器に世の中を渡り歩いている美咲と、彼女に群がる男たちに激しい苛立ちを覚えた。
根津もボン太郎も、結局は尻尾を振りながら愛想良くじゃれつく、文句の一つも言ってこない若くて従順な子の方がいいということなのだろう。
気がつくと美咲がこちらを見つめていた。なんとなく勝ち誇ったかのような眼差しに見え、画一的な優しさやチャンスに食らいつきそれをバネにして無理矢理にでも成長しようとして傷ついてきた自分がひどく惨めに感じた。
狼が身体の内側で暴れはじめる。手当たり次第に体当たりして身体を激しく揺さぶったかと思うと、が鳴り立てるように吠えながら一塊の声となって外に出ようとしていた。いちごオレを飲んで狼を押し戻そうとするが、上手くいかなかった。むしろ悪化する一方だった。
苺のフリをした甘ったるい牛乳が脳細胞の一つ一つに染み込んでいく中、激しい眩暈に襲われた。
そして、次の瞬間には頭の中が真っ白になり、ふと気がついた時には美咲が目の前でわんわんと泣きじゃくっていた。
根津とボン太郎は彼女の横で怨みのこもった眼差しをアタシに向けていた。狼が口から出てきて容赦なく噛み付いたのだと思った。
「あっ、あのですね……、これには──」
弁解しようと試みるが、ボン太郎の「言い訳ですかッ?」という厳しい一言に気圧されてそれ以上、何も言えなかった。
美咲は涙を浮かべながら根津やボン太郎に擦り寄っていた。その様子を見て、弁解しても無駄だと悟った。手にしていたいちごオレの缶を思いっきり握りつぶす。何に対して怒っていいのか、さっぱりわからなかった。
周囲には騒ぎを聞きつけた社員たちが次々と集まってきていた。皆、美咲を心配して、アタシに非難の目を向けていた。
ああ、要らないんだ、アタシなんかは……。
その瞬間、身体が何色でもない透明な色に染まり《苅部 啓》というラベルが剥がれていくのを感じた。
意味はわからなかったが、感覚的にはそういうものなのだと理解できてはいた。
ああ、うるさいな、ホント……。
辺りがさらに騒がしくなってきた。根津は大問題だと、まるで鬼の首でも取ったかのように騒いでいた。
疲れた、少し寝よう。
そう思いながらゆっくりと目を閉じる。
ふと、積み上げてきた二十年という歳月が砂の城のように崩れ去っていく音が聞こえてきた。
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