異形
赤腹井守
第1話
バス停に、一つだけ長靴が置いてあった。水色の小さな長靴。
―履けなかった子よ。安らかに眠れ。温度のない金属よ。永遠に姿を現すな。
あの子には左脚がなかった。右脚は人間なのに、左脚は冷たい金属だった。その冷淡さが故に神がいない世界を見る目に遭ったのかもしれない。消滅に誘導した金属が憎い。全ての終わりはあの日からであった。
「ただいま」
カタン、カタン。金属の何も伝えない声と共に娘の無感情な声が広がる。
「あら、おかえり。学校はどうだった?」
「…まあ、何にもなかったよ」
玄関に座ってゆっくりと靴を脱いでいる。左の義足を靴から解放するのに苦労している。いつものように娘の隣に座って手伝おうとした。
「やめてッ。…自分でできる。自分でやる」
「どうしたの?」
いつもはやって、やってとせがむ娘が初めて拒否した。
「自分でやりたい」
「うん。わかった。頑張ってね」
きっと背伸びしたくなる年頃なのだろう。自分でやれるように応援することにした。
この判断が、間違っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「ただいま」
「おかえり」
「…ただいま」
「おかえり」
娘は玄関に立つごとに光を失っていった。
「何があったの」
「何も…」
「本当?何かあったら教えてね。お母さんはいつでもあなたの味方だよ」
「…そう」
娘の目に陰が見えた。でも
―絶対に何もない筈。
そう信じた。娘も何もないと言っていたし。
そのまま娘は暗い自室に入っていった。
「ねえ、香華。夕食の時間よ。今日はあなたの大好きなパスタよ。だから部屋から出てきて」
ドアに呼びかける。声はドアに吸い込まれていく。
「…いらない」
「どうしたの。体調が悪いの?」
返事はない
「お願い、何か言ってよ。何があったの?お母さん心配しているのよ」
「何もない」
「じゃあ、部屋から出てご飯を食べようよ」
声が届かない
「本当に何があったの?答えないとドアを開けるよ」
「開けないでッ」
「おかあ、お父さんも心配してるよ。香華を一番大事にしているから。何で香華が閉じこもっているのかって。だから、だから、」
声が廊下に反響する
「だから、香華。ドア、開けるよ」
沈黙
ドアノブに手をかける。手が震えて上手く握れない。汗で手が滑る。ゆっくりと手を回す。
―この目の前にどんな光景が映っていても私は受け入れる。
手に力をかけてドアを開けた。闇の中に娘の姿が白く浮かび上がる。右脚を投げ出している。何をしているのだろう。だんだん闇に目が慣れて、よく見えるようになってくる。
右脚を見ると娘の白い肌は真っ赤になっていた。
「な、何をしたの?」
娘の左手には鈍く光るカッターナイフがあった。
「何も」
娘の目には何も映っていなかった。全てを呑み込む色をしていた。
―早く何かしないと
「香華。いますぐ救急箱持ってくるからちょっと待ってて」
そう言って部屋を飛び出し、リビングに向かう。棚の中を探すと救急箱は1番高い場所にあった。
―こんな時に夫がいれば
リビングの椅子を引っ張り出して、上に乗る。手を伸ばして何とか取ることができたが、バラバラと近くにあった物も落ちてしまった。椅子から降りて床にある障害物を避けながら急いだ。娘の部屋に戻る頃には息が上がっていた。
「香華、まずは足を洗うよ」
何も言わない娘を立たせた。
ガチャ
また金属の音。忌々しい。浴室まで金属はカツン、カツンと鳴っていた。浴室の扉を開けてシャワーを手に取る。湯がだんだん淡く染色される。
「いたッ」
「我慢してね。細菌感染しちゃうから」
血が流れて、傷が見えてきた。
―ひどい
右の人間の脚には無数の横に長い傷が流れていた。その傷から泉から水が溢れるように血が溢れ出る。
「早く消毒しないと。今すぐ救急箱を持ってくるね」
廊下を走って娘の部屋に置いてきた救急箱を手にとって娘の元に急ぐ。
「消毒するね。痛いかもしれないけど我慢してね」
何も答えがない。娘の脚に消毒液をつけたガーゼを当てていく。ガーゼはすぐに真っ赤になった。左脚を見ると金属部分に傷がついていたが、何も溢れてはいなかった。右脚に包帯を巻いていく。
―細すぎる
いくら小学生でもこれほど細いわけがない。こんなにすぐに崩れそうなものを私は養えるのか?守っていくことはできるのか?責任を果たすことができるのか?今になってやっと気づいた私に?
「夕食を食べるよ。パスタが冷めちゃうよ」
「…うん」
食卓に座ってパスタを食べる。娘はフォークを動かそうとはしない。
「どうしたの。パスタ、大好きでしょ」
リビングに自分の声が虚しく広がる。
「答えたくないなら、無理に答えなくてもいいよ。何があっても、お母さんは香華のために何もするから、から、いつかは絶対言ってね」
娘は虚ろな目をこっちに向けた。その目に涙を溜めていく。
「…お母さん!」
娘はよろけながら抱きついてきた。パスタがひっくり返る。
「お母さん。今凄く苦しいの。何がとは言えないけど。とっても苦しいの」
「うん。お母さん、分かっているよ。だから、我慢しなくてもいいの。いつか、いつかでいいからお母さんに全部話して」
「うん…」
娘の頭を撫でる。抱いている娘はとても小さかった。そのまま娘は泣き続けた。
「…落ち着いた?」
「うん」
「じゃあ、夕食を食べよう」
「ごめんなさい。パスタ、台無しになっちゃった」
「大丈夫よ。コンビニで何か買おう」
「うん」
この後、コンビニでパスタを買って、食べた。娘の目にはいくらか光が灯りかけているように見えた。
―ねえ、あなた。あなたならこうした?あなたが命と引き換えに守った子をこうやって守った?
私は日本一高い建物にいて、ガラスの窓の下の方には東京の灯りが灯っている。目の前には顔がこわばっている20代ほどの夫がいる。
「英理さん。あなたを必ず、永遠に幸せにして見せます。どうかあなたの幸せを僕に叶えさせてください」
夫は指輪を差し出した。胸の中に幸福感が広がる。
「はい」
今度は実家にいた。
「ついに孫ができるのかねえ」
「早く顔が見たいねえ」
私は大きくなったお腹を撫でる。
「英理さんは男の子か女の子、どっちがいい?」
「女の子がいいなあ」
夫も私のお腹を眺める。
「どんな子を生まれるのかなあ」
今度は近所の公園にいた。
「おとーさん!おかーさん!見て見て、お花の王冠作ったよ」
娘が自分の足で走ってきた。小さな手は一生懸命にたくさんの花を抱えている。
「わあ、すごい!これをかぶったら香華もお姫様だね」
娘の顔に花がパアッと咲いた。
今度は道路にいた。夫は娘と一緒に歩いている。
―これを私は直接見ていない
トラックが猛スピードで突っ込んでいった。夫が娘を抱えて走る。それを追いかけるようにトラックが突っ込んだ。
夫のおかげで、娘は左脚を失いながらも命は助かった。でも夫は…。
安置所に置かれた夫の顔を私は見ることができなかった。
また東京で1番高い建物の中にいた。夫は30代で私も30代であった。
「健さん!」
夫も口を懸命に動かすが何も聞こえない。
「健さん、何を言っているの?」
夫の輪郭がだんだんぼやけていく。手を伸ばしてみたが、手はスカッと空を切った。
「健さん!助けて!」
夫も懸命に口を動かすが何も聞こえない。何も伝えられていないのに夫は薄くなっていく。
「健さん!」
「香華を…守ってくれ」
微かに夫の声が聞こえた。
「健さん、あなたがいないと」
夫は微笑しながら崩れ去っていった。
「…お母さん。お母さん。お母さん!」
「こう、か?」
「お母さん大丈夫?すごく泣いていたよ」
ああ、私は夢を見ていたのか。娘が心配そうな顔をしていた。
「大丈夫よ」
本当は自分の方が苦しいだろうに。なんで私のことを心配するのだろう。
―この子をこれ以上心配させてはいけない。
「香華。今日は学校行かなくてもいいよ。今日先生と話してくる」
「うん。わかった」
朝食を食べた後、娘と一緒にテレビを見て、昼にはピザをデリバリーした。娘と私はピザ一枚を平らげてしまった。
2時ごろに雨が降り始め、3時には土砂降りになっていた。
「お母さん。本当にいくの?」
私は棚から傘を取り出す。
「うん。今日じゃないといけないと思ってね」
「気をつけてね」
「うん。留守番、よろしくね。いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアを開けるとザアーッと音が襲いかかる。不安になって、娘を振り返る。
―しっかりとここにいる
娘が何かを言いかけたが、風でドアは閉められてしまった。
土砂降りの中を歩いていく。何人かの児童とすれ違う。皆、脚がちゃんと二つあってその足で歩いている。学校が見えてきた。コンクリートで囲まれた学校には血が通っていなかった。事務室に入って用件を伝えると、少し待ってくださいと言われ、15分ほど経った頃に中年の男性が現れた。
「中村さんの担任の高橋です。で、要件はなんですか」
こっちが女性だからなのかあまり誠意が感じられない。
「あの、率直に言いますと、娘がいじめられているようなのですが」
「はあ、中村さんねえ、いくら娘が可愛いからと言ってそんなことを言うんですか?」
担任がめんどくさそうな顔をする。
「いえ、学校から帰ってくるたびに暗い顔をして帰ってくるのです。…しかも、昨日は自傷行為をしていました」
「自傷行為をするのは最近の若者でよくある様ですからね。別に普通ですよ。」
―なんだこの教師
「その上、お宅の娘さんはクラスにあまり馴染めていないようですね。昼休みに他の子供みんなが外に出て遊んでいても、教室にいようとしています」
「それは、外で飛んだり跳ねたりすることができないからです。そのことも考えてください」
「足が片方ないから外で遊べない?そんなわけないじゃないですか。陸上大会で義足をつけていながらも走っている人はたくさんいるじゃないですか。初めからそういう様に考えるからできないのですよ」
―この教師、狂っている
「とりあえず、私のクラスでいじめはありません。ちょっとした悪戯はありますが、子供の間に必要なことなのです。娘さんをみんな受け入れようとしているのですが、娘さんが拒んでいるだけですよ」
―腐っている
「わかりました。あなたがどんな人かはよくわかりました。このことは教育委員会に報告させていただきます」
担任は少しだけ表情を変えたが、元の表情に戻った。
「ええ、どうぞ。私は何もしていませんから」
何もしていけないからダメなんだよと毒づきながら席を立ち、「失礼しましたッ」と言い捨てて、学校から飛び出した。
通学路を歩いていると元気な子供達が後ろから駆けて行った。
「ねえ事故があったみたいだよ」
「ええ、どこ?」
「中央十字路だって」
「なんの事故なの?」
「トラックが人に突っ込んだんだって」
「うわあ、こわー」
小学生たちの言葉に嫌な予感がした。
―中央十字路。夫が亡くなったところだ
私は傘を放り投げて駆けて行った。小学生たちが「何あのおばさん」と言っていたが気にしないことにした。
十字路には人だかりができていて、彼らを押し退けながら前に出ていく。最前列に出ると見えた。
トラックの前面は真っ赤に染まっていて、トラックはかなりのスピードで突っ込んだことがうかがえる。運転手はいない様だった。トラックの横には金属の棒が落ちていた。
―まさか
トラックの前の方に急ぐ。道路は赤黒く塗られている。赤く染まった水色の長靴が見えた。それを履いていた脚は昨日よりも赤くなっていた。脚だけじゃない、全身まで赤く染まっていた。顔は見たくなかった。でも、
―娘は幸せそうに笑っていた
事故現場では娘の長靴は片方しか見つからなかった。左の長靴は家の近くのバス停に置いてあるのが見つかったという。
今でも思う。あれは本当に事故であったのだろうか。娘のあの笑顔は何を言っていたのだろうか。今でもこんな夢を見る。
娘と夫が手を振りながら遠くに行ってしまう夢を。彼らは満面の笑顔で私を見ているのだ。
異形 赤腹井守 @Akaharaimori2022
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