意味がわかると怖い短編集
瀬戸川清華
第1話 響く足音
古いアパートの最上階に、私は引っ越してきた。築50年を越えるその建物は、外観こそ年季が入っているものの、中はリノベーションされており、家賃の安さも相まって即決だった。何より気に入ったのは、最上階の角部屋で、ベランダから街の灯りが見渡せる眺望の良さだった。
住み始めて数日、奇妙なことに気づいた。夜中、静まり返ったリビングで読書をしていると、ごくたまに、コンクリートの冷たい床を擦るような「ギィ……ギィ……」という音が聞こえるのだ。初めは隣の部屋の物音かと思ったが、どうやら違う。音の発信源は、私の部屋の、それも正確には天井からだった。
天井裏に何かいるのか? とも思ったが、アパートの構造上、私の上が屋根裏である。ネズミにしては重すぎる音だ。気味悪く思いつつも、音は不定期で、数秒程度で止まるため、慣れてしまえばどうということはなかった。
しかし、その音は徐々に変化していった。
ある晩、例の音が聞こえた。いつもより長く、そして、その音がリズムを帯び始めたのだ。 「ギィ……ギィ……、ギィ、ギィ……」 それはまるで、何かがゆっくりと、そして、たどたどしく歩いているような音だった。天井裏を、誰かが徘徊している。そう思った瞬間、背筋が凍った。
「馬鹿な、屋根裏には誰もいないはずだ……」
その音は、部屋の中央、私の真上あたりで止まった。そして、次の瞬間。 「コツン、コツン、ドスン」 という、明らかに肉体を持った何かが、私の天井の板に直接触れるような、重く鈍い音がした。
私はソファから飛び上がり、天井を見上げた。何も見えない。しかし、確かに、そこには何かがいる。 心臓が警鐘のように鳴り響く中、私は息を殺して耳を澄ませた。
しばらくの沈黙の後、再び、音が始まった。 今度は、耳を疑うような音だった。 「タッタッタッタッタッ」 まるで、裸足の子供が駆け回るような、軽快な足音。それが、私の部屋の天井全体を、端から端まで、何度も何度も往復する。それは明らかに「ギィギィ」という擦れる音とは違う、小さくて素早い音だった。
その音は、私の寝室の上で止まった。そして、微かに、私の枕元から聞こえるはずのない、すすり泣くような声が聞こえた気がした。
私は震える手でスマートフォンを掴み、警察に電話しようとした。しかし、指が動かない。その時、足音は再びリビングに戻ってきた。
そして、今度は私の真上ではなく、ベランダに面した窓のすぐ上で音が止まった。 「タン、タン、タン」 何かで窓を叩くような音がする。 私は反射的に、窓の外を見た。
月明かりの下、ベランダの向こうには、何もいない。 しかし、その窓ガラスの向こう側から、内側に向かって、まるで誰かが親指でゆっくりと窓をなぞっているかのような、しっとりとした音と共に、うっすらと指紋のような跡が浮かび上がった。
それは、私が見ているその瞬間にも、ゆっくりと、窓ガラスを縦に這い上がっていた。
「ああ、外から……!」
震える私の目の前で、窓を這い上がっていたそれは、私の目線と同じ高さで止まった。 月明かりに照らされ、そこにあるはずのない、小さな手のひらが、窓にぴったりと貼り付けられているのがはっきりと見えた。泥と血で汚れているように見える、子供の、手のひら。それが、私の部屋の中を、ゆっくりと覗き込むように、左右に揺れ始めた。
私は息をすることも忘れ、その手を見つめていた。 そして、その手のひらの隙間から、まるで生きているかのように、暗闇の奥から、小さくて、しかしはっきりと、私を見つめる、真っ赤な瞳が、ゆっくりと現れた。
その瞳は、私に、小さく微笑んでいた。
【解説】
物語全体の描写が主人公の「今いる場所」の認識を揺さぶります。特に注目すべきは、「天井から聞こえる不審な音」から始まり、「窓の外のあり得ない位置からの手のひら」という展開です。
「最上階」で「上が屋根裏」。なのに「天井からギィギィという足音」が聞こえる。何かが上にいるはずがない。
さらにその音が「コツン、コツン、ドスン」と具体的になり、最後には「タッタッタッタッタッ」と子供の足音になる。
極めつけは「窓の外から内側に向かって、指紋のような跡」が「窓ガラスを縦に這い上が」り、「月明かりに照らされ、そこにあるはずのない、小さな手のひら」が窓に貼り付く。
これらの描写は、主人公が真の「最上階」ではない位置にいることを示唆しています。彼が引っ越してきたアパートは、実は、地下室の最下層だったのかもしれません。もしそうであれば、彼が「天井」だと思っているのは「上の階の床」であり、そこから足音が聞こえることや、窓の外から何かが「這い上がってくる」という描写に符合します。最下層なので、窓の外から見上げているのは、はるか上にある地上であり、「血と泥で汚れた子供の手」はその地面から這い上がってきた存在、あるいは地下にいる「地下の住人」で、彼の部屋に侵入しようとしている、という構図になります。主人公が「外から……!」と驚くのは、彼自身の認識のズレを示唆しています。
このアパートの「最上階」の真の意味は何だったのだろうか。
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