第2話 首筋に熱を残して、密命が始まる
玉座の間に入った瞬間、視界が滲む。敬愛、崇拝、憧憬――すべてが胸に迫り、息が浅くなる。たとえどれだけ時が経っても、女王陛下の姿は、初めて見上げたときと変わらない。
厳しい戦火に焼かれて、村が滅んだあの日。
誰もが顔をそむける中、真っ直ぐに手を差し伸べてくれた、白い手。
(……女王陛下は、今もあのときのままだ)
一瞬だけ過去の記憶が胸をかすめ、思わず目を細めた。
だが、今はもう気づいている。
陛下もまた、誰にも見せられない孤独を抱えておられるのだと。
この国を背負うその背は、いつも凛としていて、どこまでも遠い。
誰にも縋らず、誰にも弱さを見せない――その強さが、痛いほど似ている。
(……だから、俺はこの人に仕える)
(この孤独だけは、分かるから)
その瞬間、女王陛下の視線がふとこちらに向いた。
まるで心を読まれたように、微かに目元が和らぐ。
言葉はなくとも、その微笑だけで、胸の奥が静かに満たされた。
「顔を上げよ、我が剣、アデル=シュタット」
「――はっ」
「今回は、少しばかり難しい相談をしよう」
女王の声は、気高くゆるがない。
だが、その瞳にはどこか、試すような光が広がっていた。
***
「……監禁、ですか」
「そうだ。イゼルノア北部の城館にて、ヴィクトル侯が反対派に囚われているとの報が入った」
イゼルノアという地名を聞いた瞬間、不意に金髪の男の顔が脳裏をよぎった。
あの挑発的な目、笑みの裏に潜む何か――。
(……また、関わることになるのか)
胸の内で言いようのないざらつきが広がり、言葉にできない不穏さが残った。
「……ヴィクトル侯は、陛下に忠誠を誓う数少ない属領貴族の一人です」
「そうだ。救出できれば、今後の政治的布石としても大きかろう」
「ですが今、兵を動かすのは得策ではありません。公になれば、内政干渉と見なされるでしょう」
「したがって、少数で、静かに、確実に。」
女王は、まるで問いかけるように、俺を見る。
「可能か?」
「――可能です。適任を選びます」
隣で膝をついていた副長のレオニスが、心配そうにこちらを見た。
たやすい任務ではないことは、俺自身にもわかっている。
だが──女王の信頼を、裏切るわけにはいかなかった。
***
謁見を終えたあと、控えの間で副長であるレオニス=エルバーンが問いかけた。
レオニス=エルバーン──かつて自分より先に副官を務めていた男だ。
淡い茶の髪を無造作に束ね、穏やかな眼差し。
穏やかで、忠誠心が厚く、部下の信頼も篤い。
戦場でも私情を挟まず冷静沈着。だが、野心というものがまるでない。
昇進にも関心がなく、誰よりも有能でありながら、
「自分は脇で支えるのが性に合っている」と笑ってみせるその姿に、
人は自然と頭を下げる。
自分が彼を追い越して団長に任じられた時、引け目を覚えた。
だがレオニスは、ただ穏やかに笑っていた。
その笑顔が、今もどこか苦手だった。
「人選は?」
「難易度が高い。俺が行く」
「では伴に」
少し迷う。有能さでも忠誠心でもレオの右に出るものはいない。
だが――。
「お前には、俺が不在の間、団の指揮を任せる。副長としてな」
「……かしこまりました」
レオニスは一礼し、少しだけ目を細めた。
「……団長は、いつも無茶をします。あまり前に出すぎませんように」
言葉が柔らかくて、叱られたような気もしなかった。
むしろ少しだけ、胸の奥が温かくなった。
けれど、その温かさをどう返せばいいのか分からない。
「そう言うお前も、よく突っ走るだろう」
軽く受け流すように言うと、レオニスがふっと笑った。
「似た者同士、ということで」
ほんの一瞬、その笑みを正面から見られずに視線を逸らした。
なぜだか分からないが、目の奥が少し痛かった。
その笑みが穏やかで、少しだけ胸の奥がざわつく。
笑われているわけでも、責められているわけでもない。
ただ、気づかれている。
そう思うと、なぜか落ち着かなくなった。
視線を逸らし、咳払いを一つ。
「では、新兵の訓練を任せる。報告は文書で」
一礼して去っていく副長の背を見送り、俺は一人、考えた。
――現地の地理に通じ、機転が利き、腕が立ち、敵の目を騙せる人間。
適任は……一人しかいない。
残念ながら。
「――出てこい。いるんだろう」
柱の陰から、にやりと顔をのぞかせたのは、案の定、あの男だった。
「ばれてましたか」
「最初から気配を消す気もなかっただろう」
ナイジェルは笑いながら、こちらに歩み寄る。
途中でわざと歩幅を合わせ、肩が触れるほどに近づいてくる。
「――とろけそうな顔してましたね。女王陛下に見惚れてたんでしょう?」
「……関係ない」
「顔が似てたからですか。つい勘違いしちゃいましたよ」
「無駄口を叩くな」
その言葉を受けても、ナイジェルは一歩も引かず、目を細める。
「それで? 俺を選んだのは、そういう意味ですか? 信用してもらえた?」
「信用はしていない」
「はっきり言いますね」
「怪しい動きをすれば――その場で殺す。それだけだ」
ナイジェルは目を細め、ふっと笑った。
それから、俺に手を伸ばした。
その瞬間、俺の肩がぴくりと揺れる。
「……可愛い。目が潤んでますよ。
昨日のこと、思い出した?」
アデルが言葉を発する前に、ナイジェルがふっと顔を寄せ、唇を重ねた。
熱く、浅い接触。だが、それだけで体が一瞬硬直する。
ナイジェルの手が腰に回る。
軽く引き寄せられたかと思えば、体がそっと押しつけられる。
布越しに伝わる熱と硬さ。
逃げられない。
いや、逃げたくない――そう思ってしまった自分に、ひどく戸惑っていた。
「ほんと、この顔で動けなくなるんですね」
「……調子に乗るな。殺すぞ」
その声には、わずかな震えが混じっていた。
ナイジェルはその反応に満足げな笑みを浮かべ、そっと顔を寄せる。
首筋に熱い吐息がかかる──と思った瞬間、舌先が肌に触れた。
べろりと舐めあげられる。
火傷しそうに熱く、濡れたものが肌に這う。
じわじわとした湿気と熱が、皮膚の奥にまで染み込んでくる。
「……っ、あ……♡」
舌で首筋をなぞられるたびに、ぞくぞくと背筋が粟立つ。
次の瞬間、ナイジェルがその柔らかな箇所に、小さく、だが確かに、噛みついた。
「……っ!」
その刺激に、声にならない息が喉から漏れる。
ナイジェルはそのまま耳元で囁いた。
「ほら、やっぱり俺の顔じゃ、抗えないでしょ」
一瞬の沈黙。
「……やばいな、あんた。可愛くて……はまりそう」
その声は、ふざけた調子の裏に、何かが滲んでいる気がした。
***
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