最愛のあなたへ愛を込めて

夜月

第1話

 「ああ、」と老人は膝から崩れ落ちた。隣では少女が笑っている。


 老人と少女は家族だった。そして老人と少女には、大切なもう一匹の家族がいた。可愛らしく、二人からも、村の住人からも愛されていた犬だった。犬のくせに弱虫で、雷が鳴るような雷雨の夜には老人や少女の服の中に隠れて、雷が鳴るたびにその身をビクッと震わせるような犬だった。両親を亡くした少女と、自分の娘を守れなかった老人にとって、犬は大切な支えとなった。少女は笑顔を覚え、老人はその様子から元気を得られた。世の中の動乱の中で、隣人達は三人を助け、なんとか三人は生活できるようになった。幸福だった。

 しかしある日から、犬はいつにも増して臆病になった。大好きなご飯もガツガツ食べなくなり、元気がなくなった。雷雨の夜には二人の服の中に隠れることはなく、しかし雷が落ちるたびに怯え、さらには家の壁に向かって吠え出す始末だった。心配になり布団を被せてやっても、安心するどころか布団を振り払い、こちらにまで牙を見せるようになった。何かの病気だろうかと思っても直す手段もなく、犬の様子をじっと見守るしかなかった。ある朝、犬は家を抜き出し、隣の家の子供を襲った。幸い重い怪我は負わなかったものの、隣人達は怒って、もうその犬は処分をするべきかもしれないと言った。老人と少女は必死に謝って、もう犬から目を離さないこと、家から出させないことを誓い、犬の処分だけはやめてくれと懇願した。二人は、何よりもこの犬のことが大好きだった。次はないという約束を取り付け、二人はいつにも増して犬の世話をするようになった。その間にも、犬はとうとうご飯を食べなくなり、しかしよく家の中を徘徊するようになった。犬の限界が近いことを二人は理解していた。しかし、たとえ病気だったとしても、せめて幸せにその生涯を終えてほしいと願っていた。

 その日の夜のことだった。犬の目は真っ赤に染まり、涎をダラダラと垂らしていた。犬は二人を襲った。老人は恐怖にかられて動けなくなったが、少女は咄嗟に近くにあった鍬を手に取り、何度も何度も犬へと振り下ろした。そしてただそこには、ぐちゃぐちゃになった犬の最期の姿だけが残った。老人はただ呆然としていたが、少女は犬の姿を見つめて、ただ泣いていた。


 少女は、肝心な時に何もしてくれない老人のことが嫌いだった。両親にも、犬にも、なにもしてくれなかった。最愛の犬を自分で殺して、少女は、もう生きていく理由なんて持っていなかった。ただ少女は、天国だけは絶対に行きたくなかった。犬は、なにも悪いことなんてしていないから、家族だから、きっと天国にいったと信じていたから。そして、少女のことも庇ってくれなかった老人に哀しみを込めて、最愛を殺した自分に憎しみを込めて、この世界に別れを告げた。


 「ああ、」と老人は膝から崩れ落ちた。その隣には、ぐちゃぐちゃになった犬の死骸のそばで、首を吊った少女の姿があった。

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最愛のあなたへ愛を込めて 夜月 @rei-aisu

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