恋人がカルトに洗脳されている

夜道に桜

第1話

 夕暮れ前の駅前。

 ガラス張りのビルに、巨大な広告ビジョンが映えている。

 そこに映る笑顔を見て、俺は足を止めた。


 桐島すみれ。

 小さい頃からの幼馴染で、今は俺の恋人。

 けれどここ最近、会う機会はめっきり減っていた。

 彼女が多忙だからというのもあるし、俺自身も父から継いだ不動産会社の仕事に追われていたからだ。


(久しぶりに会うな……)


 ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。

 少し早めに着いたみたいだ。

 俺はそのまま商店街の外れへと歩き出した。


 喫茶店「マール」。

 学生時代、試験勉強の休憩や友達同士の集まりでよく使った場所だ。

 今も変わらず、木の扉を押せばカランとベルが鳴り、焙煎した豆の香りが心を包む。


「圭(けい)」


 声に振り向くと、店の奥の席からすみれが手を振っていた。

 思わず息を呑む。

 美人なのは昔からだけど、どこか印象が違う。


 胸元が、少し開いたトップス。

 彼女はいつも地味めで落ち着いた服装を選んでいたはずだ。職場も堅い雰囲気だから、スーツやワンピースが定番だった。

 けど今日の彼女は、肩のラインがはっきり見えるニット姿。

 似合ってはいる。似合っているからこそ、余計に違和感が胸に残った。


「ごめん、待たせた?」

「ううん。私も今来たとこ」


 笑顔は昔のまま。

 でも、その奥に小さな影がある気がした。


 向かいに腰を下ろし、マスターに「ブレンドで」と頼む。

 挽きたての豆の香りが漂う中、すみれが小さく息をついた。


「最近、どう?」

「仕事はまあ……忙しいな。不動産って派手に見えて、実際は地味で泥臭い」

「ふふ、圭らしい」


 すみれが笑う。

 その笑顔を見て、少し安心する。……けれど。


「すみれは? 仕事、順調か?」

「数字はね」

「でも?」

「最近、眠れないんだ。仕事のことを考えると、心臓ばっかり速くなって……朝まで頭が休まらないの」


 弱音を吐く彼女は珍しい。

 けれど俺は、真剣に受け止めるよりも先に、仕事の癖で出た言葉を返してしまった。


「気にしすぎだろ。誰だって大変だし、慣れれば落ち着くよ」


 その瞬間、彼女の目がわずかに沈むのを感じた。

 しまったと思ったときにはもう遅い。

 彼女は小さく笑って首を振る。


「そうだよね。圭は強いから」


 笑っているのに、遠くに感じた。

 俺はカップを持つ指に力を込めた。


 沈黙を破るように、彼女が言った。

「ねえ、圭。もし“何かを手放せば楽になる”って言われたら……手放せる?」

「……何を?」

「過去とか、期待とか。怖さとか」


 唐突な問い。

 でも彼女は真剣な目でこちらを見ていた。


「誰かに言われたのか?」

「最近ね、そういう話を聞くことが多いの。心を軽くする方法」


 ——軽くする。

 その言葉が、妙に耳に残った。


 マスターがコーヒーを置き、湯気が上がる。

 俺はカップを口に運びながら、彼女を見つめる。


「圭」

「ん」

「最近、すごくいい人に出会ったの」


 心臓が跳ねた。

「いい人……?」

「うん。説明は難しい。でも、初めて会ったとき、息がしやすくなった。私の怖さを分かってくれる人」

「職場の人か?」

「仕事にも効くけど、それだけじゃない。私、少しずつ軽くなってる気がするの」


 また“軽くなる”。

 俺は熱いコーヒーを一気に飲み、舌を焼いた。


「名前は?」

「今は言えない。整ってから」


 整う? 何が?

 問いは喉まで来て、言葉にならなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る