『紅が散る夜、獣の宴』

志乃原七海

第1話 *大人になるって、壊されることですか。*



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### **番外編 『紅が散る夜、獣の宴』(プロ仕様リライト版)**


**【逃れられない宴】**


その夜、置屋『桔梗屋』の空気は、獣の匂いを孕んで重く澱んでいた。大阪で財を成したという不動産屋・轟。金と共に品性まで投げ捨てたような男が、菜々美の「水揚げ」の相手だと、女将の花江は虫でも払うように言い渡した。

部屋に立て籠もり、震える手で掛けた錠は、しかし脆い気休めに過ぎない。

「いやどす! お断りします! 絶対にいやどす!」


叫びは、厚い無関心に吸い込まれて消える。

花江はため息ひとつ、合鍵を差し込んだ。カチリ、という無慈悲な音が、少女の最後の抵抗を過去のものにする。

「いつまでも子供みたいなこと言うてなさんな。あんたは商品や。黙って売られてりゃ、それでええ」


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**【響き渡る悲鳴】**


奥座敷は、屠殺場にも似ていた。獣じみた欲望に組み敷かれ、帯が肉食獣の爪のように乱暴に引き裂かれる。抵抗する腕は、酒と獣欲に濁った力にあっけなくねじ伏せられた。肌蹴た白い肌に、灼けるような視線が突き刺さる。


**「やめてーな! 触らんといて! やめて!」**


命の芯を削るような悲鳴は、もはや座敷の中だけに留まらなかった。薄い襖や障子を紙のように突き破り、夜のしじまに血のように滲み、置屋の隅々にまで染み渡っていく。


台所では、若い舞妓たちが洗い物の手を止め、水の滴が石を穿つような単調な音だけが、不自然に響いた。彼女たちは声もなく顔を見合わせる。その瞳に映るのは純粋な恐怖と、そして、この世界で女として生きる術を、今まさに肌で学んでいる残酷な聡明さだった。


廊下の向こうで三味線の稽古をしていた姉さん芸者たちは、ぴたりと撥(ばち)を止める。ある者は固く握った拳の中で、爪が皮膚に食い込む痛みだけを現実として感じ、ある者はかつて自分が聞いたものと同じ悲鳴に、唇を噛み締めた。その音は過去と現在を繋ぎ、逃れられない運命の反響(エコー)となって彼女たちの鼓膜を打つ。


「やかましい女やな! 花江さん、はよ手伝え!」

轟の怒声が、悲鳴に泥を塗りつける。

パタパタという足音。襖が開く気配。救いではなく、絶望の共犯者が入っていく。


やがて、悲鳴はさらに甲高く、人間のものではない音色を帯びた。信じていた最後の存在に裏切られた、魂が引き裂かれる音だった。

**「やめて…お母さん…いやぁああああっ!」**


その絶叫を聞きながら、置屋の誰もが、無意識に呼吸を浅くした。ここで異を唱えることは、自らの喉を掻き切るに等しい。見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり。それがこの美しくも腐りきった場所で生き延びるための、魂を担保にした契約だった。


廊下の隅。菜々美と姉妹のように育った芸妓の菊乃は、壁に額を押し付け、内側から自分を罰するように唇を噛み締める。滲んだ血の鉄錆の味が、親友の痛みと無力な自分の罪を告げていた。

吐き捨てた声は、か細く、しかし呪詛のように響いた。


**「……鬼や。お母さんも、あんたも」**


その隣。煙草盆の前で微動だにしなかった古株の芸者が、細く長く、紫煙を吐き出した。まるで、溜まりに溜まった諦観を燻り出すかのように。そして、舌打ちが一つ。

**「チッ…」**


それは、単なる苛立ちではない。花江への侮蔑、獣への嫌悪、そして何より、この理不尽に飼いならされ、怒り方さえ忘れかけた自分自身への、消し炭のような憎悪が込められていた。


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**【魂の死と、冷たい殺意】**


ぷつり、と糸が切れたように悲鳴は途絶えた。

あとに残されたのは、獣の満足げな息遣いと、乱れた絹が擦れる生々しい音。そして、全てが終わったことを告げる、墓場のような静寂。

菜々美の心の一部は、その瞬間、砕け散るのではなく、凍てついた。痛みも、悲しみも、恐怖さえも、薄い氷の膜の向こう側へと遠ざかっていく。空虚になった心の奥底、その絶対零度の暗闇で、ひとつの硬質な結晶が生まれた。


花江への憎悪は、もはや熱い感情ではない。言葉にすることすら憚られる、静かで、底の知れない、氷のような殺意へと変質した。


この夜の出来事は、置屋の女たちの魂にも、癒えることのない凍傷を刻みつけた。

「いつか、自分も」という恐怖。「仲間を見捨てた」という消えない罪悪感。そして、この世界で生き抜くためには、心を凍らせ、他人の悲鳴をBGMに化粧をする鬼になるしかないのだという、血の滲むような諦観。


桔梗屋の女たちは、この日を境に、より一層厚い白粉の下に素顔を塗り込め、華やかな屍衣(しい)にも似た着物を纏うようになった。

あの夜響いた菜々美の悲鳴は、彼女一人の断末魔ではない。この美しくも歪んだ置屋に囚われた全ての女たちの、決して唇から漏れることのない、魂の叫びそのものであった。

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